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入菩薩行論 第六章 忍辱の完成(2)

家が火事となり、火が他の家に燃え移って、そこの藁などにつくおそれのある場合に、それは引きずって運び出される。
それと同様に、心が物に執着し、そのために怒りの炎で焼かれる場合には、功徳の体が焼き尽くされぬよう、直ちにそれを投げ捨てねばならぬ。

死なねばならぬ者が、手を切断するだけで死を免れるならば、何の不幸が彼にあるか。
人間の苦しみによって、地獄から免れうるとすれば、何の不幸があるか。

もしわずかばかりの苦しみすらも、今日耐えられないなら、なぜ地獄の苦しみの因である怒りを除かないか。

怒りのために、実に私は、数千回地獄に落ちた。そして自己のためにも、他のためにも、なんらの利益をもたらさなかった。

この世の苦しみはさほどのものではなくて、将来に大きな利益をもたらす。そこで、世界の苦しみを取り除く苦しみを、まさに喜ぶべきである。

もし他の人々が、徳の優れた者を称賛して喜びを得るならば、わが心よ、なぜ汝もまた、その者を称賛して等しく喜ばないか。

この汝の楽しみはまた、非難せられず、安楽を生ぜしめる。そして有徳者(仏陀の教えを知っている人)の禁じないところであり、他人をひきつける最上の方法である。

「それは彼(称賛する人)の楽しみに過ぎない」と言って、もしもそれを汝が好まないならば、奉仕に対する報酬を拒むことになる。したがって、眼に見える果報と眼に見えない果報も、滅びることになろう。

汝自身の徳を人が称賛する場合は、汝はそれで人が楽しくあるのを望む。しかし、人が他人の徳を称賛する場合には、自己がそれで楽しくあることを望まない。
全ての衆生の安楽を願って菩提心を起こしているのに、汝はなぜ今、自ら楽を感じている衆生に怒りを発するか。

衆生が三界に供養せられる仏陀となることを汝は願う。しかるに彼らに対するはかない尊敬を見て、なぜ汝は悩まされるか。

汝の養うべき者を養う人は、汝に与える人である。(それなのに)汝の家族(全ての衆生)を養う人があれば、汝はそれを喜ばないで、かえって怒りを発する。 

衆生の覚醒を願う者が、彼ら衆生に何を望まないということがあろうか。他人の幸福に怒りを発する者に、どこから菩提心が現われるか。

彼(汝が嫉妬する衆生)によって施物が受け取られないときには、それは施主の家に留まっている。いずれにしても、それは汝のものではない。与えられようと与えられまいと、何の関係があるか。

彼は功徳を拒むべきであるか。また(他人の)好意、自己の徳を拒むべきであるか。物を与えられても、取得してならないというのか。どのような仕方ならば、汝の怒りが生じないというのか。それを説け。

汝は自身の犯した罪悪を悲しまないばかりか、他人の作った功徳と張り合おうと願う。

敵に不幸が起こるとして、どうして汝の希望だけでそれが生じよう。原因のないものは、汝の期待だけでは生じないであろう。

また、汝の望みだけでそれが成立するとして、彼が苦しめば汝に何の楽が現われるか。それに利益があるとしても、それより以上のどんな不利益があるか。

なぜならこれ(他人の不幸を願う心)は、煩悩という漁夫の投じた恐ろしい釣り針である。地獄の看守(獄卒)は、(魚を漁夫から買い取るように)汝を彼から買い取って、釜の中で煮るであろう。

称賛と名誉と尊敬とは、功徳にも寿命にも役立たない。力のためにもならず、健康にも、また私の身体の安楽にも無効である。

さて、これらは自利を知る賢者が自己の目的とするところであろう。
そして心意的(官、能的)快楽を願うものは、酒、賭博等に身をささげるであろう。

名誉のためには自身の財を浪費し、命さえ捨てる。しかし(名誉を示す)文字は、食べることができるか。また死すれば、その快楽は誰に帰するか。

砂の家が壊れたときに、子供が悲しい声をあげて泣く様に、称賛と名誉が失われたときに、私の本心が現われる。

まず、声は心なきものであるから、「声が私を称賛する」ということはありえない。

--「(私を称賛することで)他人が実に喜びを感じるので、それが喜びの原因になる」というなら--

それが他についてであろうと、私についてであろうと、他人の喜びが私に何の関係があるか。その喜楽は、彼だけに属している。わずかの部分といえども、私には属しない。

もし他人の楽によって私に楽が生じるとすれば、あらゆる場合に生じるはずである。(それなのに)他を恵むことによって人に楽が生じた場合、なぜ私はそれを楽しまないか。

かようなわけで、「ほめられているのは私である」と考えた時に、自己に喜びが生ずる。とはいえこれまた、自己とは関係のないことであるから、子供の遊びのようなものである。

また、これらの称賛等は、私の安穏と、(輪廻の苦しみを)厭う気持ちを滅ぼす。そして徳ある者にねたみを生じ、その幸福に怒りを起こさしめる。

だとするならば、称賛等を破るために、私に対して立ち上がった人々は、私が悪趣に落ちるのを守るために、努めているのではないか。

解脱を求める私が、所得と尊敬に束縛されるのはふさわしくない。その束縛から私を解放する人々に、どうして怒りを生ずべきであるか。

苦しみに落ちようとしてる私に対し、仏陀の加護によって、いわば遮蔽の扉となってくれた人々に、どうして私の怒りがあるべきか。

また、これらの称賛等は、私の安穏と、(輪廻の苦しみを)厭う気持ちを滅ぼす。そして徳ある者にねたみを生じ、その幸福に怒りを起こさしめる。

だとするならば、称賛等を破るために、私に対して立ち上がった人々は、私が悪趣に落ちるのを守るために、努めているのではないか。

解脱を求める私が、所得と尊敬に束縛されるのはふさわしくない。その束縛から私を解放する人々に、どうして怒りを生ずべきであるか。

苦しみに落ちようとしてる私に対し、仏陀の加護によって、いわば遮蔽の扉となってくれた人々に、どうして私の怒りがあるべきか。

また、「彼は善を行なうのを妨げる」といって怒りを起こすのも正しくない。忍辱に等しい苦行はない。これはまさにその機会ではないか。

そこでこれに、自己の過ちによって私が堪忍を行なわなければ、功徳の因が到来しているのに妨害するのは、まさしく私自身である。

それがなければあるものが存在せず、またそれがあればあるものが存在する--このようなものが、あるものの因である。どうしてそれが妨害と言われうるか。

実に適当なときに現われる乞、食は、布施の妨害とはせられない。また出家を志しているところに出家が到来しても、それの妨害とはいえない。

世に托鉢の行者はいたるところに見受けるが、私に害を加える者は得がたい。なぜなら、私が害を加えなければ、誰も私に害を加えないからである。

そこで、努力しないで得られた私の敵は、あたかも家の中に現われた宝のようなものである。それはまさに菩提行の補助者であるから、親しまれねばならない。

かようなわけで、この忍辱の修行の果報は、私と彼の両方によって受け取られねばならぬ。しかし彼に対して、第一に分け前が与えられるべきである。なぜなら、彼が忍辱の発端であるから。

「彼には、私の忍辱の修行を手伝おうという意志はない。だから、敵をあがめる必要はない」
というなら--解脱の因である正法は、無心であるのに、なぜあがめられるか。

「彼には加害の意志があるから、仇敵はあがめられない」
というなら--彼に加害の意志がなければ、それは友情にあふれた医師に接した場合のようになり、忍辱の修行にならないではないか。

そこで、彼の悪しき意志を条件として、忍辱の修行が成立する。かくして、彼はまさに忍辱の修行の因である。正法のように、私によってあがめられねばならぬ。

「衆生は幸福の田地であり、勝者(仏陀)は幸福の田地である」と、聖者は説かれた。なぜなら、これらに帰敬して、多くの人々が幸福の彼岸に達したから。

衆生からも、仏陀からも、等しく仏陀の法に達しうるからには、
「勝者に対しては尊敬するが、衆生に対して尊敬はない」
という順位が、どうしてありうるか。

そして、意志の偉大さは、それ自体からではなく、もたらす結果からはかるべきである。したがって衆生の偉大性は(勝者のそれと)等しく、彼らは(勝者と)同等である。

衆生の偉大性とはまさに、それに人々が供養をささげる慈愛の意志であり、ブッダの偉大性とは、まさに、ブッダに対して自らの心を清めることから生ずる功徳である。

それゆえ、衆生はブッダの特質を一部分得ていることで、勝者(ブッダ)と等しい。しかし、いずれの衆生も、無限の部分よりなれる徳の海たるブッダに等しくはない。

もっぱら徳の精粋を積み重ねた者(ブッダ)の、徳の微分でも、ある衆生に認められるならば、彼を供養するために、三界をもってしても十分ではない。

衆生の中に、ブッダの法の出現の、最も優れた小部分が認められる。この部分に順応して、衆生に対する供養がなされるべきである。

さらに、偽りのない友であり、無量の恩恵を与える者(もろもろのブッダ・菩薩方)に対し、衆生を喜ばせること以外に、いかなる他の報謝がありえようか。

彼ら(もろもろの仏陀・菩薩方)は、衆生のために、体を裂き、アヴィーチ地獄に入る。衆生のためにそこでなされることは、彼ら(もろもろの仏陀・菩薩方)のためになされるのである。それゆえ、大いなる害を加える人々に対しても、あらゆる善を行なうべきである。

私の主(もろもろの仏陀・菩薩方)は、自ら進んで、そのために自己(の身命)を顧みない。なぜ私は主(の最愛の子)であるそれぞれ(の衆生)に対し、召使としてつかえないで、高慢に振舞うか。

衆生が幸せになれば聖者は喜び、衆生が苦難にあえば憤りを起こす。衆生が満足すれば一切の気高き聖者たちは満足し、衆生が害を受ければ聖者は害される。

全身一面に火に焦がされている人には、あらゆる愛欲をもってしても喜びがないように、衆生が苦難を受けている場合には、慈愛の心に満ちるもろもろの仏陀・菩薩方にも、喜びのたずきはない。

かようなわけで、私は衆生を苦しめることによって、全ての大慈悲者に苦しみを与えたのである。だから、今その罪悪を告白する。彼らを憂えしめたこの罪悪を、聖者たちは許したまえ。

如来を満足せしめるために、私はいまや全身をもって、世界に召使として奉仕する。世の人々は、私の頭に足を置け。あるいは私を害せ。世界の主(仏陀)は満足したまえ。

慈悲に満ちる彼ら(もろもろの仏陀・菩薩方)は、この全世界を、我が物としたまう。これは疑いもないことだ。衆生の姿で現われている者たちは、まさしく、われらの主(もろもろの仏陀・菩薩方)ではないか。どうして恭敬せずにいられるか。

これ(衆生への恭敬)は、そのまま如来を満足せしめることであり、自己の(仏道修行の成就という)目的の完成であり、また、まさしく世界の苦しみを取り除くことである。よって、それは直ちに、私の誓願であらねばならぬ。

あたかも、王の従者の一人が大衆を虐、待したとき、用心深い大衆は、彼に反抗しないように--なぜなら、彼のバックには王の権力があるからであるが--そのように、他人が己になした犯行に対して、どんな微弱な侮蔑さえも与えてはならない。

なぜなら、地獄の看守も、慈悲者(もろもろの仏陀・菩薩方)も、彼の兵力であるから。
ゆえに、従者が暴悪な王に仕えるように、衆生に喜びを与えるべきである。

衆生を憂えしめることによって、われらが感受せねばならない地獄の苦難--かかる苦難の発生を、怒れる王といえどもわれらに加えるであろうか。


1 件のコメント
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ゴータマ
ゴータマさん・投稿者
エース
衆生を喜ばしめることによって、われらが受けるべき仏陀に等しい状態--かような状態を、満足した王といえどもわれらに与えうるであろうか。

衆生に満足を与えることから生ずる将来の仏陀としての状態は言わずもがな、今ここで、なぜ汝は、幸福と名誉と安穏と、恩恵と健康と歓喜と長寿と転輪王の豊かな安楽と--これらを人がこの輪廻界において、忍辱によって得るのを認めないか。
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