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いま、電話料金はあまりにも安くなった。
市内通話料金で全国どこでもかけられるようになったIP電話に加え、携帯電話では各社がかけ放題のプランを競うほどだ。
しかし、かつて電話料金は鬼のように高かった。たとえば、750km超の区域外通話料(ダイヤル通話料)を例に取ってみよう。
・1976年11月~ 2.5秒10円(昼間)
・1981年8月~ 3秒10円(平日・昼間)
・1983年7月~ 4.5秒10円(昼間)
1976年11月からは約5年間、10円で2.5秒しか電話をかけられない時代があった。つまり3分かけたら720円、1時間かけたら14,400円だ。さらに、ここにはない1975年より前も電話料金は大変高かった。
固定電話以外も高かった。1979年にスタートした自動車電話は、保証金が約20万円の他に、月額基本料が3万円、通話料は近距離の場合でも6秒10円した。
携帯電話の元祖とされる、1985年に登場した「ショルダーホン」は、保証金は20万円ほど、月額料金は2万円強、通話料は1分100円だった。
このように、じつは最近まで電話料金は非常に高い時代が続いた。当時を生きた方々は、
「めちゃくちゃ電話料金が高かった時代」の思い出を秘めているはず。その思い出が風化する前に、ぜひ存分に聞いてみたい。
まず最も身近な生き証人として、筆者の父がいた。なんでも、父は母と遠距離恋愛をしていたころ、電話は重要なツールだったらしい。
——やっぱり、電話料金は高かった?
父:高かった。だから用件だけを話してすぐ切っていたよ。とくに学生時代、恋人だったお母さんは北海道、俺は東京に住んでいたから、めったに電話はかけられなかった。距離が遠いほど割高になるからね。電話するにしても、通話料金が40%ほど安くなる20時過ぎにかけた。
——どれくらい高かったの?
父:公衆電話の10円玉がすごい勢いで落っこちていくわけさ。ホントに500円ぐらい持っていても、すぐなくなっていったもの。だから手紙を書いたんだ。
——当時は「ラブレター」が重要だったんだ。
父:うん、だけどたまには電話で話すのも大事だから。でも高いしゆっくりは話せなくて、1カ月に1~2回だけだった。3分で300~400円くらい取られていたからね。1時間バイトしても500円くらいしかもらえないころだから。
——そう考えるとでかいね。
——自動車電話も通話料がめちゃくちゃ高かったっていうもんね。
父:会社でも役員たちは使っていたよ。
——お父さんは使えなかったの?
父:若手だったし、とてもじゃないけど使えなかった。高いから。
——父さんの会社はまあまあ大きかったはずだけど、ダメなのかぁ。
父:なにせ2.5秒10円だったから。だからポケベルが流行ったんだよね。
——なんで?
父:工夫すればけっこう安く使えたから。
——ポケベルってスマホが普及してる今からすると未熟なデバイスのイメージがあるけれども、電話料金が高かった時代は助かる存在だったのかな。
父:そうそう。
——当時、通話料金の高さについてどう思っていたの?
父:会社の電話で話すときは、電話料金がすごく高くても「しょうがない」と思っていたけど、家庭の電話は自腹で払うから、ケチっていたよ(笑)。だから今、とにかく安く話せるようになったのはいいことだね。
——通話料金が安くなって、長電話をすることは増えたの?
父:いや、今でも長電話はあまりしないかな。
——さっきお母さんにも話を聞いたんだけど、同じ答えだった。電話料金が高額な時代を生き抜いた人たちは、いくらでもかけていい時代になっても、長電話をする習慣があまりないんだね。
父:そう。電話は用件を話してさっさと終わりにするのが染みついているから。
——その習慣が生まれたのは、電話料金が高かったことが大きいんだろうね。
◇
ここで、当時の事情通にも話を聞いてみよう。
広島県福山市のテーマパーク・みろくの里にある「日本一の電話博物館」。その名どおり、約1000台にも及ぶ歴史的に貴重な電話機を保有する。
その館長であり電話機コレクターでもある河崎勝英さんに、「通話料金高かった伝説」を教えてもらった。
——電話料金が高額だった当時は、やっぱり料金を気にしていましたか?
河崎:はい。家庭用の市外通話電話だったら、やっぱり早く用件だけを言って切っていました。
——たとえば、どんな感じですか?
河崎:「いま東京着きました」これだけ言ってパッと切る感じです。
——味気ない!
河崎:その代わり、重要なことだったら1分とか長くなりますよ。
——ついでにくだらない話とかはしないですか?
河崎:経費で落ちる会社の電話なら、余分な話もしましたね。
——自分が払うか払わないかで意識がぜんぜん違う(笑)
河崎:ちなみに、今みたいなダイヤル式なら「かけた時間=料金」になりますが、昔の交換手が手動で電話をつなぐ「交換式」は最初の3分が固定料金だったんです。だから意地でも3分ギリギリまで話しました。
——「交換手を通した通話料金」は3分まで一定だったんですね。ならば、ギリギリまで話したくなりますね。
河崎:だから、電話をかける側はタイマー片手に3分直前まで話しましたし、電話局もそれで通話時間を計りました。
——タイマーが電話に欠かせない時代があったとは。
河崎:いまって携帯電話の通話が5分以内であれば無料になるサービスがありますよね? 私はタイマーを持って、4分50秒くらいで電話を切るようにしています。「かけ直します」って。
——当時の経験が、いま活かされているのか!
——通話料金は割と最近まですごく高かったと聞きます。
河崎:ええ。1978年当時の広島県福山市の電話帳から見ると、750kmを超える地域は、「2.5秒10円」かかりました。
——札幌にかけたら、4分10秒(250秒)で1,000円する計算ですね……
河崎:それが当たり前の時代だったんです。さらにさかのぼると、1960年当時、東京~岡山の3分間の通話は180円しました。今だと1,000円くらいの価値ですね。
——3分で1,000円……!
ちなみに国際電話は、1981年当時の国際電信電話株式会社のもので、イギリスまでで6秒90円。2021年のNTTコミュニケーションズの価格だと6秒14円です。
——いまでも高いですが、それでもだいぶ安くなったんですね。1分900円は恐ろしい。ちなみに当時、マグロ漁船とかに乗っている人の電話もあったそうですが……
河崎:船には「船舶電話」があるんですが、ものすごく高くて昔のふつうの船はほとんどつけていませんでした。だから外国航路の船なんかは、モールス信号を使える通信師が乗ってたんです。みんな電報でやりとりしていました。
——出光タンカーのHPによると、1978年には、海上でもマリサット衛星による電話ができるようになったとありますが、当時は3分で1万2,000円と書いてあります……!
河崎:めったに電話できないほどの高額だったんです。今では海上でも電波がよく飛びますから、携帯電話を使うようになりました。
——ちなみに固定電話がとくに高かったのはいつですか?
河崎:グッとさかのぼりますが、たとえば1899年ごろです。当時は東京~大阪をつなぐ市外の回線は2回線しかなかったんですが、当時の金額で、5分1円60銭でした。
——今の貨幣価値だとどれぐらいですか?
河崎:1万2,000円ぐらい。
——5分で……! 1分2,400円の計算になりますね。
河崎:ちなみに鉄道の線路と市外の回線がだいたい並行に走っていたので、東京から大阪までの鉄道の金額と同じくらいの金額になったそうです。
——たしかに、今でも新幹線って1万2,000円くらいしますよね。
河崎:ただ当時、電報のほうが安くて早かったんです。その当時は電報が主流ですね。
——電報も高かったんですよね?
河崎:電報のほうが電話よりはるかに安かったですね。
——そうなんですか!? いつごろまで、電報が主流だったんですか?
河崎:1965年ごろまでは、まだ一般的には電報が主流でした。「チチキトク」とか電報で打ったりね。連絡を取るにもハガキより電報のほうが早いですから。生まれた子どもの性別を親に知らせるとか。
——遠距離の通話が高かった話がよく出ますけど、市内通話も高かったですか?
河崎:いえ、市内だと無制限で通話できていました。
——市内だと無制限!?
河崎:基本料金に加えて、公衆電話なら1回ごとに10円、一般の固定電話なら0円で、2~3日ずっと続けて話しても追加料金なしです。
——むしろ市内通話なら昔のほうが安かったのか。それができたのは、いつまでですか?
河崎:交換式が廃止される1979年3月28日までです。順次完全ダイヤル化されるまで、あちこちの局でそれができました。
——じゃあ逆に、自動交換になって市内通話でも料金がかかるようになってしまった?
河崎:そうです。でも1972年まではダイヤル式でも、基本料金+通話1回ごとに公衆電話なら10円、固定電話なら7円払えば無制限で使えましたよ。
——会社の電話では、家庭よりは気兼ねなく市外通話できたんですね。
河崎:そう。でも、会社の電話機は市外通話できなくされることもありました。
——え?
河崎:発信規制です。たとえば部長の電話機は日本全国どこへでもかけられるけど、平社員の席のは福山市内しかできないようにするとか。
——さながら、電話の格差社会だぁ。
河崎:そういう規制は、交換機で制御すれば今でもできますよ。
——涙ぐましい。というか、遠くへ電話をかけるのは、それだけ金銭的に痛手だったんですね。
河崎:だから規制したんです。それでも夜間で深夜勤務の人が、私用で国際電話をかけたところもあったようです。
——考えただけで会社は大ダメージですね……その人は懲罰を受けなかったんですか?
河崎:バレなかったんです。今の交換機だったら内線の何番がどこにかけたとか出ますけど、当時はわかりませんでしたから。
——電話料金が高かった当時、とくに困ったことってありましたか?
河崎:ダイヤル式で市外通話するとき、昔の公衆電話は10円しか使えなくて。3.5秒とかでどんどん10円玉が落ちるから、間に合わないんですよ。
——会話に集中できないですよね。
河崎:だから、1972年に100円が使えるような電話機になったんです。
——100円を入れるのは勇気がいりましたか?
河崎:ええ、おつりが出ないからね。100円玉使って話をしようと思ったら、相手が留守番電話だったら、パアになる。
——それ、最悪ですね……だとしたらテレホンカードは救世主だったのでは?
河崎:テレカが出てよかったです。ちょっとおトクに電話がかけられるカードもありましたからね。
——ああ、1,000円で買うと、ちょっとおまけで1,050円分かけられる「105度数」のカードとか。
——緊急時など、お金がないけど誰かと話したいときはどうしたんですか?
河崎:電話の交換手が出るんですけど、必ず押す必要のある「通話料のカウントをするボタン」を押さないで、タダで電話させていたケースがあったようです。
——それって……
河崎:大きな声じゃ言われんのですけど、大なり小なりどこの局もやりおった感じです。お願いしますって言ったら、やってくれたらしいですよ。
——高い通話料が生んだズルさですね。ほかにはありますか?
河崎:たとえば飲んで酔っぱらったときに、北海道や九州の田舎の市外局番をまわして。そこの局までかかるのは無料なんです。交換手さんも深夜は暇だから、いくらでも話し相手をしてくれるんですよ。
——思わぬ交流ですね……!
河崎:そういう情緒があったんです。
——高い電話料金を払わずにいくらでも話せる。もう時効ですが、まさに時代が生んだワンシーンですね。
——昔は電話機自体も高かったですか?
河崎:ええ。それよりも電話加入権が高かったね。だから1回線を2軒で使っていました。そうすると月々の基本料金が安くなるんですよ。
——涙ぐましいな。
河崎:今でも2軒共同の回線はありますよ。多いところは、かつて「10軒共同」で使う回線もありました。1つの回線に10台の電話がついているんです。
——強引にもほどがある節約術ですね。
河崎:ええ。あと、山間部とかのへき地にぜんぶ線を引っ張るのは難しかったんです。1回線だけ敷いて、それをいくつもの人で共同にしていました。
——昔の電話事情の厳しさがうかがえます。
河崎:交換手が交換台で信号を流すのを長くしたり短くしたりすると、10軒の電話を鳴らし分けられるんです。
——テクニックがいりそうだ。
河崎:ちなみに2回線くらいしかないへき地なら、その2回線の線でもう1回線を増やしていました。
——もう1回線を増やす?
河崎:だいたい「1回線」は「2本の線」から成り立っているんですね。その2本の線を分離して無理やり2回線を3回線に増やすんです。でも無理しているから、雨が降ったらブンブン音が入るとかね。よその話が漏れたりするんですよ。
——電話を引くにも果てしない苦労があったんですね。
河崎:昔は権利も買うにも、申し込んでから何年もかかって。
——なんで何年もかかったんですか?
河崎:なかなか設備ができなかったんです、お金もないしね。回線を増やす余裕もないし、電柱を建てて線を引くのも大変ですから。自動化するまではどこの局も大変でした。
——もはや、電話できるだけでありがたいんですね。
河崎:2つの局が1本の回線を共同で使っていたこともありました。回線を巡ってとっくみあいのケンカをしたって聞きますよ。
——電話料金がめちゃくちゃ高かったことについて、当時はどう思ってましたか?
河崎:うーーん、そりゃ仕方がないわな(笑)
——割り切っていた。
河崎:高いと思っても、安くできないですし。電電公社(NTTグループの前身)は独占企業だったけど、高いのには仕方がない面もあって。私がいま住んでいる田舎の電話局でも、電話600台くらいに対して、交換手が20人ほどいたんです。
——そんなに必要なんですか?
河崎:勤務は1日3回交代制だし、通話料金を高くしないと給料出せませんから。
——当時はとくに重要な仕事ですもんね。
河崎:福山市だったら、職員も今とは比較にならないほど多くて600人くらい。交換手も200~300人ぐらいいたんじゃないかな?
——彼らの報酬を考えれば、高くて仕方がなかったのか。
河崎:深夜勤務だと、交通機関がなくなったら家までタクシーだからね。タクシー代も局が出してくれますから。
——高くなる要素がいっぱいあったんですね。
河崎:でも、ちなみに……もうすぐ固定電話はもっと安くなります。
——なぜ?
河崎:従来のアナログ電話網のIP化で、市内通話料金で日本全国にかけられるようになるんです。電話機も基本料金もそのままでOKですから。2024年から2025年にかけて移行します。
——「遠くに電話をかけたら、電話料金が上がる」ことも、遠い過去のことになりそうですね。
画像提供:日本一の電話博物館
編集:ノオト
初期は本体も10万
加入権も10万ぐらいだったかな?
電話機の液晶画面は電卓みたいだった。
どうにもなんない(泣)
電話代が高くてもリアルタイムで交信出来るメリットが大きいと思います。
情報交換の手段として手紙や電報を使うことを考えると電話は有効ですね。
今では、LINE電話等で無料が主流です。
当時は、この様な時代が来るとは想像できませんでした。
今ではLINE所有者どうしで会話できるので、これから先の技術革新も注目ですね。
今はスマホ代が安くなって親子喧嘩も少なくなったと思う、mineoさんありがとう(庶民のこぼれ話)
10円玉の消費スピードがすごかったのを
思い出した…
凄ッΣ(゚艸゚*)
通信方法が変わりますね〜
電話ありますかね〜⁉️
興味深く読ませていただきました。
私が知ってるのは民営化された頃で、国際電話かける時に頭に001を付けたり国内通話に0077付けると
料金が安くなるといったものが始まったあたりですね。昔のcm動画など見ると当時の空気感が味わえるかと思います。
コレクトコールなんていうのもありましたが
もう無くなってしまったようです。
今はだいぶん安くなりましたね〜!もっと安くなって欲しいけど😅
社長は血相を変え、血眼になって犯人探し
そして私は市外局番を付けることを知らず、何回掛けても通話できず
>> パンダボアヌ さん
『ゼロゼロ ワンダホー!』外国人女性が発するフレーズが印象的でしたね。
0033(OCN) 0077(KDD)
0088(日本テレコム) その他etc…
色んな会社が参入してきて、その番号を固定するマイラインやマイラインプラスまで出てきて、料金表やらサービス内容やら見比べてやっと決めたのに今では全く無駄に(笑)
ちなみに全て大人になってた年代です(^-^;
夜間お得料金ありましたね♪
これからは、更にお得になって行って欲しいですね。
50年後の電話を生きてみて見たいですね。コレが、伝説になるね😽😁
昔小中学校時代ですが、公衆電話で10円玉で電話する時は取り敢えず
何枚か連続投入していたのを思い出しました。
100円だとお釣りでないけど10円玉では余計に入れた分は戻るし
少し話しているだけで電話機に催促されるのはうざかったので。
テレカ以降はその必要が無くなったので確かに良くなりましたね。
>> パンダボアヌ さん
国際電話で料金は着信者払いでと言われたときは不安でした😅パソコン通信時代はモデムで近隣のBBS繋いだりして毎夜、長時間のチャットを楽していたりしました。
その頃は、NTTの事を「みかか」と呼んでたりしましたね。^^;
>> ただみぃ さん
ウチも低学年の時は🏠に黒電話☎なかったです。当時は小学校の連絡網が電話で、何度もお隣さんに取り次いでもらっても悪いなぁということで、妹が小学生になるのに合わせて引いてもらった記憶があります。
社会人になりたての時、研修中に想定外の場所(兵庫県住みで配属は神奈川県)に配属が決まり、自宅に戻る事なく新生活が始まりました。加入権の費用も高くて、電話を引くまで3ヶ月ほど。連絡手段は公衆電話か手紙。まったりとしていた時代ですね。 確か時間帯によって通話料が変わったので、夜にかけてたなぁ。
でも、知らない場所で公衆電話を探すのは至難の業ですね。
同じ郵政省なのに郵便は全国一律なのに電話は距離によって料金が違うのはなぜだろうと思った。
1994年に保証金制度廃止と共に端末売切り制度で電話番号を持てる様に(基本料金8800円)携帯端末もコンパクトになりスグに購入。
翌年の1995年、阪神・淡路大震災!! 年明けの出張で神戸市東灘区にいました😅あの頃、一般電話、公衆電話がほぼ使用不能の時に携帯電話は電話できていて避難場所で珍しそうに見られました。
あの時の通話は高額料金に勝る安否連絡だと実感しました。
今は「☎︎ダイヤルを回して…」なんて事は必要なくなりましたね😅
今晩わ。 みゆき なかじーまです。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
``/ _ _ \
/ (ー) (ー) |
| (_人_) |
/ ∩ノ⊃ /
| \/_ノ´| |
\ /___ノ |
\ /______ノ
書き込んでみたかっただけ。
(ノζ ∇↑ξ) なんてな
携帯電話までの距離数(160km以遠かどうか)で、最初の発信番号が、030か040か、という時代でした。
まあ、携帯電話がまわりに普及していなくて、かけることはなかったですが…
Windows 95 時代に音声電話と別に引いたISDN回線、解約した後、復活しそうにありません。今も、加入権だけ持っています。
降る雪や、明治は遠くになりにけり
昭和も、遠くになりにけり。
懐かしい話です。
改めてインターネット回線は世界を変えたんだなと改めて思った。
でもこの変革がわずか30年前の出来事なんだよね。今後30年でどんな変革が起こるんだろう?楽しみだし少し怖い気もする。
興味深いお話でした。
いざという時のために、財布にテレホンカード1枚入れてあります。
全然関係ないけど裏にはSIM取り出しピン貼り付けてます。(笑)
・・・今って、固定電話の加入権って、どうなってるんやろ???
一分当たりは安くなりましたね、
でも基本料金が高くなってます💦
テレカは沢山余っていて、
でも最近は使える電話機がなくて
使用できないです💦
叔父が交換手と話していたと子供のころ聞いてました。
1970年でも家に電話があるとは限らなかった。
電話を引く料金もさることながら、順番待ちでしたから。
安価に電話番号が持て安価に通話できるmineoさん、ありがとう。
引越で携帯一本にしたけど今はどうなったんだろう。
興味深い記事でした。
もっと昔はインターネットをダイヤルアップで使うためにテレホーダイというものも有った。
電話のみならずネットも安く便利になったものだ。そのうち月3 GB 10円程度で使えるようになったら、ありがたい。
今手軽に電話できる有り難さを感じました😃
今では、家電は全く使わないから、料金が安くなったかどうかもわかってないです。。
『今でも「長電話」の習慣がない』というのは納得ですね。
母親からかかってきた電話ということが分かるように下宿の共同電話へワンコール後、リダイヤルしてもらって駆け付けたものですが、「用がなかったら電話代がもったいないで切るよ」とけんもほろろにしたものです。今となっては「元気?」など、もう二度とかかってくることはありませんが…