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かつて、電話料金はめちゃくちゃ高かった。生き証人に聞く「12の伝説エピソード」

かつて、電話料金はめちゃくちゃ高かった。生き証人に聞く「12の伝説エピソード」

辰井裕紀
ライター: 辰井裕紀
ローカルネタ・ガジェット・卓球が好きなライター。過去に番組リサーチャーとして秘密のケンミンSHOWなどを担当。

いま、電話料金はあまりにも安くなった。

市内通話料金で全国どこでもかけられるようになったIP電話に加え、携帯電話では各社がかけ放題のプランを競うほどだ。

しかし、かつて電話料金は鬼のように高かった。たとえば、750km超の区域外通話料(ダイヤル通話料)を例に取ってみよう。

・1976年11月~ 2.5秒10円(昼間)
・1981年8月~ 3秒10円(平日・昼間)
・1983年7月~ 4.5秒10円(昼間)


1976年11月からは約5年間、10円で2.5秒しか電話をかけられない時代があった。つまり3分かけたら720円、1時間かけたら14,400円だ。さらに、ここにはない1975年より前も電話料金は大変高かった。

固定電話以外も高かった。1979年にスタートした自動車電話は、保証金が約20万円の他に、月額基本料が3万円、通話料は近距離の場合でも6秒10円した。

携帯電話の元祖とされる、1985年に登場した「ショルダーホン」は、保証金は20万円ほど、月額料金は2万円強、通話料は1分100円だった。

このように、じつは最近まで電話料金は非常に高い時代が続いた。当時を生きた方々は、
「めちゃくちゃ電話料金が高かった時代」の思い出を秘めているはず。その思い出が風化する前に、ぜひ存分に聞いてみたい。

まず最も身近な生き証人として、筆者の父がいた。なんでも、父は母と遠距離恋愛をしていたころ、電話は重要なツールだったらしい。

▲筆者・辰井の父


【伝説1】電話は高すぎるからラブレターを書いた

▲当時の公衆電話

——やっぱり、電話料金は高かった?

父:高かった。だから用件だけを話してすぐ切っていたよ。とくに学生時代、恋人だったお母さんは北海道、俺は東京に住んでいたから、めったに電話はかけられなかった。距離が遠いほど割高になるからね。電話するにしても、通話料金が40%ほど安くなる20時過ぎにかけた。

——どれくらい高かったの?

父:公衆電話の10円玉がすごい勢いで落っこちていくわけさ。ホントに500円ぐらい持っていても、すぐなくなっていったもの。だから手紙を書いたんだ。

——当時は「ラブレター」が重要だったんだ。

父:うん、だけどたまには電話で話すのも大事だから。でも高いしゆっくりは話せなくて、1カ月に1~2回だけだった。3分で300~400円くらい取られていたからね。1時間バイトしても500円くらいしかもらえないころだから。

——そう考えるとでかいね。

【伝説2】自動車電話は「使うな」と言われた

——自動車電話も通話料がめちゃくちゃ高かったっていうもんね。

父:会社でも役員たちは使っていたよ。

——お父さんは使えなかったの?

父:若手だったし、とてもじゃないけど使えなかった。高いから。

——父さんの会社はまあまあ大きかったはずだけど、ダメなのかぁ。

父:なにせ2.5秒10円だったから。だからポケベルが流行ったんだよね。

——なんで?

父:工夫すればけっこう安く使えたから。

——ポケベルってスマホが普及してる今からすると未熟なデバイスのイメージがあるけれども、電話料金が高かった時代は助かる存在だったのかな。

父:そうそう。

【伝説3】今でも「長電話」の習慣がない

——当時、通話料金の高さについてどう思っていたの?

父:会社の電話で話すときは、電話料金がすごく高くても「しょうがない」と思っていたけど、家庭の電話は自腹で払うから、ケチっていたよ(笑)。だから今、とにかく安く話せるようになったのはいいことだね。

——通話料金が安くなって、長電話をすることは増えたの?

父:いや、今でも長電話はあまりしないかな。

——さっきお母さんにも話を聞いたんだけど、同じ答えだった。電話料金が高額な時代を生き抜いた人たちは、いくらでもかけていい時代になっても、長電話をする習慣があまりないんだね。

父:そう。電話は用件を話してさっさと終わりにするのが染みついているから。

——その習慣が生まれたのは、電話料金が高かったことが大きいんだろうね。



ここで、当時の事情通にも話を聞いてみよう。

広島県福山市のテーマパーク・みろくの里にある「日本一の電話博物館」。その名どおり、約1000台にも及ぶ歴史的に貴重な電話機を保有する。

▲「日本一の電話博物館」は、園を企画した元映画関係者が命名した。その名に恥じない圧巻の展示品

▲館内の様子。以下の画像には、所蔵品が多く登場する

その館長であり電話機コレクターでもある河崎勝英さんに、「通話料金高かった伝説」を教えてもらった。

▲館長の河崎勝英さん。往年の電話交換機の前で


【伝説4】交換式は最初の3分をフル活用した

——電話料金が高額だった当時は、やっぱり料金を気にしていましたか?

河崎:はい。家庭用の市外通話電話だったら、やっぱり早く用件だけを言って切っていました。

——たとえば、どんな感じですか?

河崎:「いま東京着きました」これだけ言ってパッと切る感じです。

——味気ない!

河崎:その代わり、重要なことだったら1分とか長くなりますよ。

——ついでにくだらない話とかはしないですか?

河崎:経費で落ちる会社の電話なら、余分な話もしましたね。

——自分が払うか払わないかで意識がぜんぜん違う(笑)

河崎:ちなみに、今みたいなダイヤル式なら「かけた時間=料金」になりますが、昔の交換手が手動で電話をつなぐ「交換式」は最初の3分が固定料金だったんです。だから意地でも3分ギリギリまで話しました。

【伝説5】タイマーで通話時間を計っていた

▲河崎さんが使用するタイマー

——「交換手を通した通話料金」は3分まで一定だったんですね。ならば、ギリギリまで話したくなりますね。

河崎:だから、電話をかける側はタイマー片手に3分直前まで話しましたし、電話局もそれで通話時間を計りました。

——タイマーが電話に欠かせない時代があったとは。

河崎:いまって携帯電話の通話が5分以内であれば無料になるサービスがありますよね? 私はタイマーを持って、4分50秒くらいで電話を切るようにしています。「かけ直します」って。

——当時の経験が、いま活かされているのか!

【伝説6】750kmを超えると「2.5秒10円」かかった

▲1981年当時の広島県東部版電話帳のコピー

——通話料金は割と最近まですごく高かったと聞きます。

河崎:ええ。1978年当時の広島県福山市の電話帳から見ると、750kmを超える地域は、「2.5秒10円」かかりました。

——札幌にかけたら、4分10秒(250秒)で1,000円する計算ですね……

河崎:それが当たり前の時代だったんです。さらにさかのぼると、1960年当時、東京~岡山の3分間の通話は180円しました。今だと1,000円くらいの価値ですね。

——3分で1,000円……!

ちなみに国際電話は、1981年当時の国際電信電話株式会社のもので、イギリスまでで6秒90円。2021年のNTTコミュニケーションズの価格だと6秒14円です。

——いまでも高いですが、それでもだいぶ安くなったんですね。1分900円は恐ろしい。ちなみに当時、マグロ漁船とかに乗っている人の電話もあったそうですが……

河崎:船には「船舶電話」があるんですが、ものすごく高くて昔のふつうの船はほとんどつけていませんでした。だから外国航路の船なんかは、モールス信号を使える通信師が乗ってたんです。みんな電報でやりとりしていました。

▲最近まで船舶電話として使われていた、ワイドスター・クレジットカードホンA81(NTTドコモ、Photo by 100yen

——出光タンカーのHPによると、1978年には、海上でもマリサット衛星による電話ができるようになったとありますが、当時は3分で1万2,000円と書いてあります……!

河崎:めったに電話できないほどの高額だったんです。今では海上でも電波がよく飛びますから、携帯電話を使うようになりました。

【伝説7】東京~大阪で1分電話したら「2,400円」

▲電報の取扱通数ピークは1963年で、9461万通に達した(Photo by pelican

——ちなみに固定電話がとくに高かったのはいつですか?

河崎:グッとさかのぼりますが、たとえば1899年ごろです。当時は東京~大阪をつなぐ市外の回線は2回線しかなかったんですが、当時の金額で、5分1円60銭でした。

——今の貨幣価値だとどれぐらいですか?

河崎:1万2,000円ぐらい。

——5分で……! 1分2,400円の計算になりますね。

河崎:ちなみに鉄道の線路と市外の回線がだいたい並行に走っていたので、東京から大阪までの鉄道の金額と同じくらいの金額になったそうです。

——たしかに、今でも新幹線って1万2,000円くらいしますよね。

河崎:ただ当時、電報のほうが安くて早かったんです。その当時は電報が主流ですね。

——電報も高かったんですよね?

河崎:電報のほうが電話よりはるかに安かったですね。

——そうなんですか!? いつごろまで、電報が主流だったんですか?

河崎:1965年ごろまでは、まだ一般的には電報が主流でした。「チチキトク」とか電報で打ったりね。連絡を取るにもハガキより電報のほうが早いですから。生まれた子どもの性別を親に知らせるとか。

【伝説8】逆に市内通話は「タダ」だった

▲1953年の4号自動式委託公衆電話機。目立つように黒電話を赤色にしていた

——遠距離の通話が高かった話がよく出ますけど、市内通話も高かったですか?

河崎:いえ、市内だと無制限で通話できていました。

——市内だと無制限!?

河崎:基本料金に加えて、公衆電話なら1回ごとに10円、一般の固定電話なら0円で、2~3日ずっと続けて話しても追加料金なしです。

——むしろ市内通話なら昔のほうが安かったのか。それができたのは、いつまでですか?

河崎:交換式が廃止される1979年3月28日までです。順次完全ダイヤル化されるまで、あちこちの局でそれができました。

——じゃあ逆に、自動交換になって市内通話でも料金がかかるようになってしまった?

河崎:そうです。でも1972年まではダイヤル式でも、基本料金+通話1回ごとに公衆電話なら10円、固定電話なら7円払えば無制限で使えましたよ。

【伝説9】平社員には「市外通話できない電話機」が

——会社の電話では、家庭よりは気兼ねなく市外通話できたんですね。

河崎:そう。でも、会社の電話機は市外通話できなくされることもありました。

——え?

河崎:発信規制です。たとえば部長の電話機は日本全国どこへでもかけられるけど、平社員の席のは福山市内しかできないようにするとか。

——さながら、電話の格差社会だぁ。

▲たとえば役職ごとに電話を色分けし、緑色は市外通話OK、青は市内通話のみ……という風にわかりやすくすることもあった

河崎:そういう規制は、交換機で制御すれば今でもできますよ。

——涙ぐましい。というか、遠くへ電話をかけるのは、それだけ金銭的に痛手だったんですね。

河崎:だから規制したんです。それでも夜間で深夜勤務の人が、私用で国際電話をかけたところもあったようです。

——考えただけで会社は大ダメージですね……その人は懲罰を受けなかったんですか?

河崎:バレなかったんです。今の交換機だったら内線の何番がどこにかけたとか出ますけど、当時はわかりませんでしたから。

【伝説10】テレホンカードは待望の存在だった

▲2009年当時、姫路市内に残っていたテレホンカードの自販機(Photo by Corpse Reviver

——電話料金が高かった当時、とくに困ったことってありましたか?

河崎:ダイヤル式で市外通話するとき、昔の公衆電話は10円しか使えなくて。3.5秒とかでどんどん10円玉が落ちるから、間に合わないんですよ。

——会話に集中できないですよね。

河崎:だから、1972年に100円が使えるような電話機になったんです。

——100円を入れるのは勇気がいりましたか?

河崎:ええ、おつりが出ないからね。100円玉使って話をしようと思ったら、相手が留守番電話だったら、パアになる。

——それ、最悪ですね……だとしたらテレホンカードは救世主だったのでは?

河崎:テレカが出てよかったです。ちょっとおトクに電話がかけられるカードもありましたからね。

——ああ、1,000円で買うと、ちょっとおまけで1,050円分かけられる「105度数」のカードとか。

【伝説11】深夜にヒマな交換手とタダで話した

▲1890~1979年の約90年にわたって使われ続けた磁石式電話交換機

——緊急時など、お金がないけど誰かと話したいときはどうしたんですか?

河崎:電話の交換手が出るんですけど、必ず押す必要のある「通話料のカウントをするボタン」を押さないで、タダで電話させていたケースがあったようです。

——それって……

河崎:大きな声じゃ言われんのですけど、大なり小なりどこの局もやりおった感じです。お願いしますって言ったら、やってくれたらしいですよ。

——高い通話料が生んだズルさですね。ほかにはありますか?

河崎:たとえば飲んで酔っぱらったときに、北海道や九州の田舎の市外局番をまわして。そこの局までかかるのは無料なんです。交換手さんも深夜は暇だから、いくらでも話し相手をしてくれるんですよ。

——思わぬ交流ですね……!

河崎:そういう情緒があったんです。

——高い電話料金を払わずにいくらでも話せる。もう時効ですが、まさに時代が生んだワンシーンですね。

【伝説12】そもそも「電話を引く」のが大変だった

——昔は電話機自体も高かったですか?

河崎:ええ。それよりも電話加入権が高かったね。だから1回線を2軒で使っていました。そうすると月々の基本料金が安くなるんですよ。

——涙ぐましいな。

河崎:今でも2軒共同の回線はありますよ。多いところは、かつて「10軒共同」で使う回線もありました。1つの回線に10台の電話がついているんです。

——強引にもほどがある節約術ですね。

河崎:ええ。あと、山間部とかのへき地にぜんぶ線を引っ張るのは難しかったんです。1回線だけ敷いて、それをいくつもの人で共同にしていました。

——昔の電話事情の厳しさがうかがえます。

河崎:交換手が交換台で信号を流すのを長くしたり短くしたりすると、10軒の電話を鳴らし分けられるんです。

——テクニックがいりそうだ。

河崎:ちなみに2回線くらいしかないへき地なら、その2回線の線でもう1回線を増やしていました。

——もう1回線を増やす?

河崎:だいたい「1回線」は「2本の線」から成り立っているんですね。その2本の線を分離して無理やり2回線を3回線に増やすんです。でも無理しているから、雨が降ったらブンブン音が入るとかね。よその話が漏れたりするんですよ。

——電話を引くにも果てしない苦労があったんですね。

河崎:昔は権利も買うにも、申し込んでから何年もかかって。

——なんで何年もかかったんですか?

河崎:なかなか設備ができなかったんです、お金もないしね。回線を増やす余裕もないし、電柱を建てて線を引くのも大変ですから。自動化するまではどこの局も大変でした。

——もはや、電話できるだけでありがたいんですね。

河崎:2つの局が1本の回線を共同で使っていたこともありました。回線を巡ってとっくみあいのケンカをしたって聞きますよ。

——電話料金がめちゃくちゃ高かったことについて、当時はどう思ってましたか?

河崎:うーーん、そりゃ仕方がないわな(笑)

——割り切っていた。

河崎:高いと思っても、安くできないですし。電電公社(NTTグループの前身)は独占企業だったけど、高いのには仕方がない面もあって。私がいま住んでいる田舎の電話局でも、電話600台くらいに対して、交換手が20人ほどいたんです。

——そんなに必要なんですか?

河崎:勤務は1日3回交代制だし、通話料金を高くしないと給料出せませんから。

——当時はとくに重要な仕事ですもんね。

河崎:福山市だったら、職員も今とは比較にならないほど多くて600人くらい。交換手も200~300人ぐらいいたんじゃないかな?

——彼らの報酬を考えれば、高くて仕方がなかったのか。

河崎:深夜勤務だと、交通機関がなくなったら家までタクシーだからね。タクシー代も局が出してくれますから。

——高くなる要素がいっぱいあったんですね。

河崎:でも、ちなみに……もうすぐ固定電話はもっと安くなります。

——なぜ?

河崎:従来のアナログ電話網のIP化で、市内通話料金で日本全国にかけられるようになるんです。電話機も基本料金もそのままでOKですから。2024年から2025年にかけて移行します。

——「遠くに電話をかけたら、電話料金が上がる」ことも、遠い過去のことになりそうですね。

画像提供:日本一の電話博物館
編集:ノオト


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260 件のコメント
1 - 10 / 260
面白かったです🍀😌🍀
マイネ王も家族👪️とか 通話📞料金無料✨になると良い😅のですが~💜
電話加入権の共同利用って事も昔はあったのですね。
祖父母の家が
名義人が複数でなかなか解約出来なかったって聞いて
良く分からなかったけど一部分の理由はなんとなく判った気がします。
持ってたテレカはどこに行ったんだろう…?
探せば見つかるかも。
見つかっても多分使わないけど。
祖父母の家が町内(都内)で初めに電話を引いたらしく敷地内に電電公社の電話線専用電柱が建ってました。
時代が下って近所の皆さんが電話を引くとその電柱を起点に線を新たに引くものだから蜘蛛の巣の様に凄い外観になってました…
電電公社から(NTTになっても)設置使用料が振り込まれる様になったものの雀の涙だと文句を言っていたのを思い出しました(笑)
電電公社の寡占状態でしたね。今のNHK視聴料と似てるような似てないような
電話持つのに加入権あったなあ 携帯電話も保証金が 移動電話と言われて発信する場所から相手のきょりまで160キロ超えると030から040へ切り替えなくちゃならない時代 通話料もたきったがバッテリーが15時間程度で重たかった時代(笑)山手線で着信あるとすごく珍しがられた時代(笑)アナログ電話時代は話すことしかできなかった G1だ 今や5G進化した移動電話
昔の電話事情が分かって面白かったです。(^^)
昔は家に黒電話がありましたが通話料金が高かったのだなと改めて感じました。
公衆電話で10円玉積み上げて電話してたころを思い出しました(^o^)丿
そういえばガラケー時代のパケット料金もめっちゃ高額でしたよね。
実家にあった黒電話を、懐かしく思い出しました〜☎
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