つれづれなるままに忠臣蔵のことなど
12月も半ばになり又『忠臣蔵』の季節を迎えた。
赤穂浪士の討ち入りは武家社会の秩序を乱す行為と見なされていたので討ち入りを義挙として扱い上演することはできなかった。
そこで登場人物や時代を変えて上演することで幕府の目をそらすことにした。
具体的には鎌倉後期~室町初期の南北朝時代(所謂『太平記』の時代)を舞台にして登場人物の名も浅野内匠頭を塩冶判官、吉良上野介を高師直とするなどして上演した。
江戸時代と南北朝時代の虚実をないまぜにして物語は始まる。
高師直と塩冶判官は勅使を供応する役目を仰せつかった。
高師直は塩冶判官の妻(かほよ御前)に横恋慕して恋文を出したが振られてしまった。
これが後の刃傷事件の遠因とも言える。
これは『太平記』にもあるがここで意外な人物が登場する。
「兼好と云ける能書の遁世者を呼寄て」恋文を書かせたとある。
兼好とは『徒然草』の作者兼好法師の事である。
兼好は世の中を斜め後ろの少し高い位置から断ずる頑固者のイメージがあり恋文とは縁遠いと思うがよく見ると能書とあるので奇麗な文字を書く者として呼ばれたのである(この頃「徒然草」は執筆中でまだ世に知られていなかった)。
高師直が書いた原稿を清書したということでこれなら納得できる。
兼好法師も当時は作家としてよりも書家として評価されていたのであろう。
この恋文は使者によってかほよ御前に手渡されたが中身を読むことなく捨てられた。
使者は他人に拾われたらまずいと思い持ち帰って師直に渡した。
師直は怒って兼好法師は以後出禁になったと書かれている。
とんだとばっちりを受けたものである。
下記のURLは『太平記』巻第21
後半の「196 塩冶判官讒死事」が「忠臣蔵」の下地となっている。
https://ja.wikisource.org/wiki/太平記/巻第二十一
上図は
月岡芳年の浮世絵
『月百姿』37「垣間見の月 かほよ」
高師直が塩冶判官の妻かほよ御前を覗き見する様子が描かれている
高師直はこのように好色な人物として描かれていて他にも石清水八幡宮や吉野の金峯山寺蔵王堂の焼き討ち等を行い『太平記』では極悪人みたいにも描かれているが実際は足利尊氏の執事として働き恩賞(土地)が下級武士にも公平に行き渡るような制度を作ったりした優れた行政官でもあった。
さて「忠臣蔵」は私の小さい頃は映画や芝居は年末になると必ず上演されていた。
更にテレビが普及してくるとドラマでも毎年新作を放映していたが、現在は再放送が2,3あるのみで殆ど見ることはない。
有名俳優への出演料や大がかりなセットの製作費が嵩んで高コストの割には大衆の受けがなくなってきたのだろう。
今や「忠臣蔵」で客を呼べるのは歌舞伎の興行だけである。
それに代わるものとしてベートーベンの「第九」が登場した。
太平洋戦争後間もない頃に日本交響楽団(現N響)が12月に「第九」コンサートを行った。
未来への希望を抱かせるこのコンサートは大成功であった。
この演奏会の目的の一つは戦後の混乱期の歳末に団員の年越しの臨時収入(餅代)を得ることでもあった。
オーケストラの他にも多くの合唱団が必要な「第九」は持って来いの選曲であった。
これに習って他のオーケストラも参戦して年末の「第九」が完全に定着し今では1万人もの合唱団が参加するものまで出てきている。
「忠臣蔵」は閉じられ「第九」は栄える。
有為転変は世の習いと兼好法師のように達観するしかないようだ。



忠臣蔵を正面から捉えた最後のドラマだったと思います。
この後も散発的にドラマはありましたが特定の個人とかを扱った外伝的な物が多かったようです。
コメントありがとうございました。
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