板東俘虜収容所時代の国内音楽活動
新設なった板東俘虜収容所に四国の徳島、丸亀、松山の俘虜収容所から約900名の捕虜が移送されて来たのは1917年4月の事であった。
その翌月の5月13日には第1回の演奏会が開かれロッシーニの「セビリアの理髪師」序曲、グノーの「ファウスト」抜粋、ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」メドレー他が演奏された。
更に1917年6月3日には第2回コンサートが開かれサラサーテの「チゴイネルワイゼン(ソリストは指揮者のエンゲル)」、ヨハン・シュトラウス2世の「春の声」、ドリーブのバレエ組曲「コッペリア」他が演奏された。
この1週間後には徳島収容所でヘルマン・ハンゼンにより結成された「徳島オーケストラ」のコンサートも開かれている
この事からオーケストラは板東の収容所で結成されたのではなく前の収容所で結成されていてレパートリーも多岐に渡っていたことが分かる。
因みに最初の2回のコンサートを開いたのは丸亀収容所でバイオリニストのパウル・エンゲルにより結成された「丸亀保養楽団」が板東収容所で規模を拡充して「エンゲルオーケストラ」として発展した楽団である。
松山収容所ではハーグ条約は順守するが捕虜の自由には制限を設けるという方針であったので新聞の発行や音楽活動も行われなかった。
板東俘虜収容所に来て初めて自由を謳歌できたのである。
このように演奏会の開催や曲目が分かるのはドイツに戻った捕虜達から収容所時代の多くの資料が寄贈され「鳴門市ドイツ館」に保管されているからである。
演奏会のプログラムはオーケストラ関係では50点ほどありネットで閲覧できるのでこれを主体にし、一方で国内での演奏会と比較しながら当時のクラシック音楽の初演関係の状況を調べてみたい。
当時の国内オーケストラ事情
明治時代は一言でいえば「脱亜入欧」をスローガンとした時代であった。
音楽の面でも留学生を送ったりして西洋音楽の摂取に勤めた。
そんな中で音楽教員、演奏家の養成を目的とし1887年に「東京音楽学校」(現東京芸術大学)が設立された。
1899年には「東京音楽学校管弦楽団」が結成された。
日本初のオーケストラであり多くの日本初演を手掛けた。
その後
1909年 九州帝国大学
1916年 京都帝国大学
1920年 東京帝国大学
と続いた。
これらは同好の士の集まりでサークル活動である。
民間では久留米捕虜収容所の楽団に触発されて1915年市民管弦楽団「久留米共鳴音楽会」が結成された。
他にデパートの宣伝を目的とした楽隊もあったがオーケストラと言える程のものではなかった。
本格的なオーケストラとしては山田耕筰と近衛秀麿が 1924 年に設立した「日本交響楽協会」がある。
そういった状況の中で当然であるが日本初演のラッシュが起こった。
中でも「東京音楽学校管弦楽団」は唯一の官立の音楽大学として意識して日本初演を目的としていたようである。
1913年同校に就任したグスタフ・クローン(独)は同年12月にベートーヴェンのバイオリン協奏曲を就任披露として演奏した。
又任期中にベートーヴェンの全交響曲を演奏することを計画していて定期演奏会で順次演奏して行った。
当時の音楽系の留学先はドイツが多く帰国の際ドイツ音楽の楽譜を持ち帰ったりしたのでドイツの楽曲が演奏されることが多かった。(九大では医学で留学したにも関わらず多くの楽譜を持ち帰ったのが楽団結成の基となっている)
とりわけベートーヴェンの曲が目立つのでベートーヴェンの交響曲に絞って演奏日時を見ることにする。
板東俘虜収容所におけるベートーヴェン交響曲9番演奏時のプログラム
ベートーヴェンの交響曲の演奏記録
文中の略称はそれぞれ右記の略である。
芸大 東京音楽学校管弦楽団
板東 板東俘虜収容所
九大 九大フィルハーモニー会
久留米 久留米俘虜収容所
東大 東京帝国大学学友会音楽部
★は全曲演奏を表す
〇第1番 ハ長調Op.21
芸大 1887年、第1楽章のみ演奏
1920★
板東 1919.2.2★エンゲル指揮
九大 1919.11.15★
〇第2番 ニ長調Op.36
演奏記録なし
〇第3番 変ホ長調『英雄』Op.55
芸大 1909第1楽章のみ
1920.12.4★ ピアノ協奏曲第3番も演奏
〇第4番 変ロ長調Op.60
芸大 1914.5.3★
板東 1918.2.24★ハンゼン指揮
東大 1922.12.9★
〇第5番 ハ短調(運命)Op.67
芸大 1918.5.26★
板東 1918.4.28★ ハイドン104番「ロンドン」も演奏
久留米1917★
〇第6番 ヘ長調『田園』Op.68
芸大 1919.6.1★
板東 1919?
〇第7番 イ長調Op.92
演奏記録なし
〇第8番 ヘ長調Op.93
芸大 1922.12.2★
〇第9番 ニ短調 (合唱付き)Op.125
芸大 1924.11.29★
板東 1917「歓喜に寄す」の部分だけ演奏
1918.6.1★ハンゼン指揮
九大 1924.1.26裕仁親王成婚記念で第4楽章のみ演奏
久留米1919.12.3第2、第3楽章のみ演奏
1919.12.5★女性パート抜きで全曲演奏
ここで問題になるのが何れが日本初演であるかということである。
単に演奏年月日が早かったという訳にはいかない。
芸大は年月日に関係なく自分らの演奏が日本初演であると主張している。
彼らの定義では演奏者聴衆共に日本人であることと原典に忠実であることを重要視している。
第9番について時系列的に詳細に見ると
①1917年6月10日
徳島オーケストラ第5回コンサートで「歓喜に寄す」が演奏されている。
これは第9の内の4楽章から教科書に載っている「喜び
歌」の部分だけを演奏したものである。
②1918.6.1
ハンゼン指揮 一般的に日本初演とされる全曲演 奏である。
40名のオーケストラと80名の合唱団の大編成であった。
ドイツ人捕虜の楽団員が捕虜収容所という閉鎖された空間でドイツ人捕虜の聴衆に向けた演奏会であった。
楽器も万全でなくコントラファゴットはオルガンで代用した。
女性歌手がいないので女性パートは男性の音域に合うよう楽譜を書き換えた。
③1919.12.3
久留米1捕虜収容所の楽団が高等女学校の生徒に向けて第2、第3楽章のみを演奏した。
④1919.12.5★
その2日後女性パート抜きで全曲演奏
⑤1924.1.26
九大フィルが昭和天皇の成婚記念で第4楽章のみ演奏した。
歌詞は成婚を祝う内容の日本語に改変されていた。
⑥1924.11.29★
東京音楽学校管弦楽団
以上の経緯から判断すると①③⑤の演奏はどう見ても初演とは言い難い。
②は日本人は演奏に関わっていないが日本で初めて第9の旋律が流れたことやドイツとの文化交流の実績を重視して地元が日本初演の地と称して毎年第9の演奏会を開くなどの行動が功を奏して初演の地として定着している。
④は日本人の聴衆に向けた演奏としての日本初演を唱えているが説得力は弱いようである。
⑥東京音楽学校管弦楽団は官立音楽学校の意地とプライドを以って自楽団の演奏が日本初演と校史にも掲載しているがそれほど世に知られていない。
そもそも「日本初演」の定義がはっきりとしないので自分に都合よく定義付ければ定義の数だけ初演は存在することとなる。
因みに初演の定義は『東京芸術大学百年史』によると「作品のオリジナルの形を公開の演奏会で全曲演奏すること」となっているが芸大寄りに傾いているようにも見える。
当時は他にも捕虜収容所はあったのでそちらでの音楽活動を調べれば又新たな初演が出てくる可能性もある。
まぁ「諸説あります」で済ませるのも日本らしくて良いのかもしれない。
このクラシック音楽の揺籃期と言える時期にドイツ音楽が頻繁に演奏されたことはその後の日本のクラシック音楽の進路に影響を与えたのは事実である。
参考資料
鳴門市ドイツ館「板東俘虜収容所」資料Web
ディルク・ギュンター「徳島俘虜収容所」
久留米市 文化財保護課「ドイツさんと題九演奏」
川上 三郎『徳島新報』の概略とその意義
高仁淑 帝国大学におけるオーケストラ育成運動
東京芸術大学百年史 演奏会篇 第1巻



ドイツの古典音楽は大好きで、曾祖父母も第9の合唱団に加わったということを聞いた記憶があります。祖父母、親はクラッシック嫌いなのが残念ですが。
>> sawa875 さん
板東俘虜収容所での第9の初演は映画や小説でも取り上げられていますのでもう国民的に認知されていると言っても良いと思います。芸大の初演だって指揮者はドイツ人でしたからそこを指摘されたら強く強弁出来ない筈です。
曾祖父母様が第9の合唱に参加されたのは昭和の初期位ですかね。
随分と革新的な家庭だったのですね。
コメントありがとうございました。