15年戦争の契機 日中戦争の記憶を、両側から見る
8月15日、敗戦の日。焼け野原で泣く母子が沢山いたことでしょう。
広島・長崎・空襲で300万人が死んだのは事実です。
しかし、日清戦争後、私たちが、なか国 人をちゃ ** ころ、シ*人とさげ す み、新聞が「清は文化的に **れている」と囃し立てて喝采した事実も忘れてはいけないでしょう。ま ん州の荒野で、土地を奪われた中 国 の人農民がいた記憶もです。
1937年南京で、上海で、私たち のぐ ん隊が何をしたかという記憶も。
戦前、上海の街頭で「抵制日貨」と書かれた横断幕を掲げ、日系商店のシャッターが閉まる光景もありました。
上海の日本人小学生は投石を恐れて登校できませんでした。中の 国人にとっては帝国主義への抵抗であり、日本人居留民にとっては生活の崩壊でした。
そして1937年7月29日、通州では日本人114人・あさ鮮 人111人を含む200人以上がぎゃく さつされました。遺族の証言には、耳を塞ぎたくなる惨状が残されています。
私たち日本人も、加害者である前に、現地で襲われる被害者でもあったのです。この痛みをなかったことにしては、歴史は語れません。
通州の悲劇の原因
きっかけは1915年、日本が突きつけた対華二十一カ条要求が、五四運動という民族的怒りを呼び起こしたことでした。
済南では日本軍も中の国 民衆も双方が無差別にあやめ合いました。中の国 側の排日は、日本が ま ん州を自作自演の柳条湖事件で奪ったことへの抗議でもありました。
つまり、被害の連鎖の前に、加害の連鎖があったのです。敗戦の日、私たちは二つの提灯を見ます。
一つは「8.15 慰霊」、もう一つは「終戦の日 平和を願う」。祈る老人の背後には、焼け跡で抱き合う母子と、大陸を行進する兵隊の列が重なります。
日本は空襲の被害者であると同時に、ま ん 州の土地を奪い、中の 国の 商店を封じ、南京で多くの命を奪った加害者でもありました。
排斥され、あやめられた私たちの痛みを語るなら、排斥し、あやめた私たちの罪も語らなければなりません。8月15日は、その両方を同時に胸に刻む日でなければならないのです。
対米の観点からみるとどうなるか。
続く


本来、乗船するはずのより一つ早い便に、現場責任の将校さんの図らいで乗る事が出来たそうです。
本来乗るはずだった便は魚雷攻撃により沈没、多数(と言うより殆ど)が犠牲となりました。
そのためか、彼女は戦中の出来事を話そうとはしませんでした。
大叔母は生前、一度だけ台湾へ赴きましたがお土産を買ってきたわけではなく、台湾旅行を楽しんだわけでなく、ただただ慰霊の念だったのではないかと思います。
>> sororisorari29@an end さん
そういう逸話がありましたか。偶然が生死の分かれ目ということがあるのですね。