敦煌
旅の目的地は敦煌であったが列車のチケットは350km程手前の酒泉までを買った。
酒泉~敦煌は砂漠を体感したくてバスで行く予定だったからである。
酒泉の駅は街と大分離れた場所にある小さな駅であった。
トイレは駅舎の外にありコの字型の壁に囲まれたドアのないものが数個並んでいて満員の時は次に使用する人に見られながら用を足すことになる。
地方の駅ではこのようなものが多かった
知合同士は話をしながら用を足しているのもよく見かけた。
バスに乗って行くと中心街らしい所で大勢の人が降りたので一緒に降りホテルを探した。
ホテルは酒泉賓館である。
初めのうちは中国語で話していたが向こうが日本人と察したようで日本語で話し掛けてきた。
学生ですかと訊かれたのでハイと答えた。
そのせいかドミトリー料金で泊まれた。
地方のホテルにはドミトリー専用の部屋がない所が多いのでドミトリーに泊まりたいと言えば普通の部屋にドミトリー料金で泊めてくれていた。
暫く休んだ後博物館と酒泉公園に行く。
中国の博物館は恐竜の骨格標本を展示しているのが多いがここも例に漏れずやや小振りの恐竜が展示してあった。
酒泉付近の石窟のジオラマや何故か敦煌の石窟の実物大のレプリカや近くの油田の採掘機械とかも展示してあった。
歴史的な展示物は北宋以前のものが多かった。
これは西洋との交易が陸路から海路に変わっていって絹の道が衰退していったことを物語っている。
その後2km程歩いて酒泉公園に行った。
大きな池のある緑に囲まれたオアシスと言うに相応しい広い公園である。
酒泉の地名の由来になった泉もある。
漢の霍去病が匈奴に勝利した際(121BC)武帝は10樽の酒を送ったが20万人もの兵士に配分するには足りず霍去病は酒を泉に注いだ(呼び水?)ところ泉の水は酒となって全員飲むことが出来たという故事に因んで「酒泉」と呼ばれるようになったという。
(※「酒泉」の地名の起源についてはコメント欄参照)
日本の養老の滝みたいなものかと思ったがちょっと違う。
養老の滝の水が酒に変わったのは人為的なものではなく孝行息子に対する天の配剤によるものである。
少量の飲食物を呼び水として大量の食べ物を得た例はキリスト教の全ての福音書に載っている。
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り天を仰いで賛美の祈りを唱え裂いて弟子たちに渡しては群衆に配った結果全ての人(男性5000人、女子供は数の内に入れない)が食べて満腹した。」とある。
又、イスラム教でもムハンマドが僅かな量の水しか残っていない碗に手を翳すと水があふれ出し飲み水や浄めの水として1500人もの人を潤したとの記述がある。
(『図解イスラームガイド』I.A.イブラーヒーム著、ゼバ久米日本語訳、サイード佐藤監修)
これらは勿論実話ではなかろうが宗教的な寓意を含んだ逸話である。
夕食までまだ時間があったので街の中心にある鼓楼に行く。
十字路のロータリーの中に建つ3層の楼閣で四方に門がありその上部に扁額が掛かっている。
「東迎華嶽」華嶽は五岳の華山のこと
「西達伊吾」伊吾はハミ盆地のこと
「南望祁連」祁連は祁連山脈のこと
「北通砂漠」砂漠はゴビ砂漠のこと
この語句は気に入ったので道中作った漢詩もどきにパクらせてもらった。
翌朝6:30に起き7:00発の敦煌行きのバスに乗るが30分程走った所で止まった。
運転席と助手席の間にあるカバーを外すとエンジンルームが現れる。
その頂点にプラグがあるので運転手は座ったままプラグを外しブラシ掛けをして又装着してエンジンを掛け走行したが5分程で又止まった。
今度はプラグを替えた。
こんな調子で敦煌まで行けるかと心配になったがその後は何とか走ったがちょっとした坂になるとエンジンを吹かしてもスピードが落ちる。
10;00玉門鎮(玉門関とは違う)で小休止、12:50安西で食事休憩。
安西は中国最大の風速を記録した町で町全体が砂塵でくすんでいて木々の高い所にもビニール紐や紙屑などが引っかっていた。
16:30敦煌着以外と早く着いた。
敦煌でのホテルは敦煌第2賓館であったが全室にシャワールームが付いてなくシャールームの付いてる部屋が空いてたらシャワーを浴びれる仕組みになっていたが結果的には毎日入れた。
部屋は4人部屋でデンマークの学生2人と相部屋であった。
彼等は3ヵ月の旅行中であるという。
一人はいつもカセットテープの穴にボールペンを挿してクルクル回してテープの巻き戻しをしていた。
夕方外人二人が食事に行ったので私もホテルのレストランに行った。
食事をと頼んだがフロントで食券を買って来いと言う。
フロントに行くと糧票は持っているかと訊かれた。
糧票とは現金で支払われる月給の他に配給される食品関係に使える補助券みたいなもので持ってないと答えると定価の5割増し位の金額を要求された。
食事は6人掛けの円卓で摂った。
料理は注文したものが各自の前に出されたがスープは円卓の中央に置かれた大きなホーロー製の洗面器に入っていてそこから自分の皿に移し替えて飲むようになっていた。
翌日は莫高窟見学である。
朝8:00のバスで行く。
30分ほどで到着。
チケットは0.5元と6元の2種類あったが高い方を購入。
入り口で10人位集まると即席の団体となり中国人のガイドに引率されて行く。
カメラ撮影は禁止でチケット売場に預けるようになっていた。
私のグループにはドイツ人のカップルと6人の中国人がいた。
ガイドは各石窟の鍵を開けて懐中電灯で照らして説明してくれる。
声が響いて籠ったり中国人の私語で良く聴き取れないが観たい個所を言うとそこに電灯を当ててくれるので現物を間近で観察でき堪能できた。
11:00午前の見学が終わり午後は2時から再開するというので昼食を取ろうとしたがレストラン等ない。
売店でハムの缶詰を買って食べたが全くおいしくない。
預けていたカメラを取りに行き外から写真を撮る。
是非見たかった(第16窟の内部で繋がっている)第17窟は1階にあり通路から扉は見えるが鍵がかかっていて中の様子は見えないのは残念であった。
第17窟は20世紀初頭に大量の古文書が発見され敦煌学の嚆矢となった石窟である。
井上靖の『敦煌』のクライマックスの場面でもある。
https://www.dha.ac.cn/info/1425/3608.htm
5枚目の写真に写っているのはフランスの探検家ペリオである。
午後は中央の吹抜の石窟にある29mの大仏等見て15時過ぎ解散。
外に出ると英語の案内板を見ている中国人に同室のデンマークの学生2人が何やら話し掛けていた。
帰りのバスの時間を訊いているようだった。
バスの時間を教えてやり中国人としばらく話をした。
自分のことを「ローイー(老爺?)」と言っていたがとても老人とは思えない。
よく聞くと「lawyer」で西安で泊まった勝利飯店の近くに法律事務所を構えているとの事だった。
4時半頃バスに乗り待機していると前の席にいた若者に声かけられた。
浙江省出身の鄭と名乗り詩人だという。
6時に鳴沙山行きのバスがあるので一緒に行こうと誘われ行くことにした。
鳴沙山は砂漠と聞いて日本人が想像するであろう大きくうねる砂の山であった。
鄭君は若いので砂漠の斜面を走って登ったが付いて行くのに精一杯だった。
頂上からは眼下に月牙泉が見える。
鄭君は下りは苦手らしく座りこんで恐々降りていた。
月牙泉は枯れることはないという。
数センチの小魚が沢山泳いでいた。
砂漠に二人座って手で砂を均し指で文字を書いて筆談を始めた。
お互いの旅行先の話とか西域の歴史とか日本の事とかであったが相手が妙齢のご婦人であったらロマンチックなシチュエーションになるのにとあらぬ妄想をした。
「月が奇麗ですね」
「月の光を浴びて砂も煌めいていますわ」
砂を均す手と文字を書く手が触れる
目と目が合う
と、空を見ると小遊三の顔になっていた。
疲れていたのかもしれない。
気を取り直して敦煌の街へ帰った。
夕食は鄭君と一緒に露店で羊の串焼きを食べた。
金串に羊肉を刺したものを炭火で焼いたもので香辛料が上手い具合に塗されていて何本でも食べられた。
金串はよく見ると自転車のスポークを再利用したものであった。
お茶のお代わりは湯呑みに蓋をしてそれを指で叩いたら数件の露店を掛け持ちしているお茶屋が来て入れてくれると教えてもらった。
充実した1日であった。
https://hellognss.com/?m=home&c=View&a=index&aid=147
「酒泉」の名前の由来は下記の五つの説がある。
①都の地下に泉がありその泉の水は酒のようであった。
②霍去病がかつてその泉に酒を注ぎ武将たちと飲んだということ。
③漢の武帝が河西に郡を築こうと考え東方朔らに助言を求めたが 東方朔は西北の荒野に不思議な酒泉があることを知っていたのでそれを郡の名前にするよう提案した。
④ 匈奴に降伏した小月氏は酒泉を中心的な住居として沮渠と呼ばれる河西西部に住んでいた。酒泉という名前は小月氏の「沮渠」の発音を異訳したものである。
⑤酒泉は古代の町名であり現在の酒泉はそこの住民が移り住んだものである。
葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人回
敦煌に行こうとしたんですが、中国に着いてからの交渉は難しかったです。結局、酒泉も敦煌も行けなかったです。
羨ましいな。
>> Ticket to the moon さん
いいですね。ワイン、玉杯は酒泉の産物。
琵琶も含めて西域感満載ですね。
結句が物悲しく、私も好きな詩です。
ありがとうございした。
>> hijiake さん
敦煌、いつか行きたいと思いつつ……結局、行くことは出来てません😢
夢のまた夢で終わりましたね
1986年に 上海・広州・北京へ行っただけです
コメントありがとうございました。
>> hijiake さん
3ヶ月x2+αなので、トータルでも8ヶ月ぐらいしか滞在してません。たったの8ヶ月では中国をまわることは無理ですね。行きたかったのに行けてない場所は、長安と洛陽、間にある鸛鵲楼、敦煌・酒泉・吐魯番ですね。現代の中国に興味は無いけど、歴史的な場所には行ってみたいです。
涼州歌と登鸛鵲楼は漢詩の中で一番のお気に入りです。
白日依山盡
黄河入海流
欲窮千里目
更上一層樓
8ヵ月の滞在は凄いですね。
私は30日x3でしたので行く場所を絞るのに苦労しました。
日中国交正常化で『考古』とか『文物』といった専門誌を購読出来るようになり馬王堆漢墓や金縷玉衣の発掘速報とかを心躍らせて読んだものです。
それで是非現地現地を見たいと思い行ったのですが個人旅行が解禁されたばかりの頃で「没有」の連発で思うように回れませんでした。
西安洛陽は外せないと思い真っ先に行きました。
このことは以前投稿しました。
「登鸛鵲楼」は目に触れたことはあったと思いますがじっくりと呼んだのは初めてです。
俯瞰的で気宇壮大な詩ですね「涼州歌」とは対照的で元気が出るような詩だと思います。
私のお気に入りは劉廷芝の「 代悲白頭翁」です。
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
この部分はいつ読んでも感嘆します。
命を落としたのもこの句の素晴らしさにあったと思います。
長文失礼しました。
敦煌、古来西域との交通の要衝であり北方の騎馬民族と鬩ぎ合った最前線ですよね。
莫高窟を始めとうする玄奘三蔵も通ったであろう仏教の聖地でもあったこの地。
写真を拝見していると、NHK のシルクロードを思い出します。
敦煌を出て西へ、幻の湖ロプノール湖を目指して、蜃気楼の彼方に桜蘭の都が ...
西域を目指して古の歴史に思いを馳せる敦煌、私もいつか行ってみたいですね。(●´ω`●)
>> モバイル クエスト@もばいるん さん
敦煌は今は観光地化しすぎているようです。ロプノールに桜蘭、蠱惑的な響きですね。
私も行きたかったのですが現在の路線からは外れていて単独行では無理なようでしたので諦めました。
「母さん、僕のあのロプノールどうしたんでせうね?」
「何言ってんの、とっく枯れちゃってんのよ」
コメントありがとうございました。