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赤穂浪士討ち入り

明日12月14日は赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸に討ち入りした日である。
これは旧暦の日付であり新暦では1月30日にあたるが赤穂市や泉岳寺での「義士祭」は旧暦(=明日)で開催され、討ち入り装束を着て義士に扮した人々の行進等行われる。
他に赤穂浪士に関わりのある都市でも旧暦で開催されているようだ。
北海道義士祭 - 北海道砂川市の北泉岳寺
山科義士まつり - 京都府の山科
大阪義士祭 - 大阪府天王寺区の吉祥寺(今年は12月8日に開催済み)
義士祭 (新潟県新発田市) - 堀部武庸の生誕地である新潟県新発田市


明日の討ち入りの日に因んで討ち入りに特化して話を進める。

『孫子』謀攻篇に「彼を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」とある。

戦いの前には敵の情報を正確に知ることが求められる。
今回の場合吉良家の図面であり吉良上野介の動静である。
吉良家の屋敷は江戸城呉服橋門内(現・千代田区)にあったが元禄14年年9月3日に幕命により隅田川を越えた本所に移転した。
この転居で赤穂浪士が討ち入りやすくなったのは間違いない。
敷地の3面は道路に面しているので道路を歩くことでその規模は分かる。

前原伊助と神崎与五郎は、吉良邸裏門近くの本所相生町に共同で穀物店を開き客
の吉良邸の女中や若侍から内部の様子を探った。
毛利小平太は他家の中間になりすまし邸内に入ることに成功し内情を報告した。
吉良邸の絵図面は吉良邸北東に隣接する本多孫太郎家臣の忠見氏を通じて入手した。
赤穂浪士の堀部弥兵衛金丸は忠見元右衛門の長女を嫁に迎え縁戚関係にあったので絵図面の入手はさほど困難ではなかったと思われる。
講談の「赤穂義士銘々伝」では図面は吉良邸の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘を通じて入手したとあり話としてはこちらが有名であるが虚構である。

これで屋敷の広さや間取りが分かった。
敷地は63mx140mの規模で結構広い。
屋敷の建坪は母屋が388坪、長屋(塀に沿って建てられた非番武士の居住区、下図のグレーの部分)は426坪でこちらも同様に広いが凡その間取りは分かっていた。

吉良上野介は本所に移転しても実子の上杉綱憲が住む桜田の上杉家上屋敷にいることが多く打ち入るためには確実に本所にいる日時を知る必要があった。
12月14日の昼大石三平から吉良は今日帰宅するとの情報が入った。
その直後大高源吾から吉良邸で茶会が開催されるとの情報があり14日には在宅していることを知り内蔵助は急遽討ち入りは当日の夜と決定した。
急な決定の裏には軍資金が殆ど涸竭していたという事情があった。

忠臣蔵地図.PNG

吉良の屋敷は塀で囲まれているので先ずここを突破しなければならない。
表門は竹梯子を掛け邸内に入り門の閂を外し外にいる仲間を率いれた後門を閉じて出入りが出来ないようにした。
裏門は掛矢で門を叩き割って中に入ったが門は開けたままにしていた。
これは上杉家の応援部隊が来た場合裏門で迎え撃つ作戦を立てていたからである。

忠臣蔵2.PNG

邸内に入ったら今度は屋内に侵入する。
玄関の戸を蹴破って行く隊と雨戸を外して行く隊があった。
前者は入ってすぐの所に武器置き場があったので弓の弦と槍の柄を切り使用不能にした。
後者の雨戸を外す方法がユニークであるので『假名手本忠臣藏』の原文を記す。

「由良ノ助が智略にて八尺計リの大竹に、弦をかけてぞ持たりける。
・・・・・・・・・
(大石主税は)父が教えし雪折はここぞ!と下知して、丸竹に弦をかけたを雨戸の鴨居・敷居に挟んで一時に、ひい・ふう・三つの拍子にて、かけたる弦を、てうど(勢いよく)切れば、鴨居は上がり、敷居は下がり、雨戸外れて、ばたばたばた。「そりゃ、乗り込め!」と、「天」「河」の声響かして乱り入る。 」

要するに2m余の竹を雨戸の高さに曲げて竹の両端を紐でつないだ弓状のものを用意して鴨居と敷居の間に挟み込んで紐を切れば竹の反発力で鴨居と敷居の間が広がり雨戸は外れるという仕掛けである。
竹のたわんだ状態を雪折といっていたのであろう。(下手な説明より下図を見れば一目瞭然である)
大名屋敷ともあろうものがそんなもので簡単に打ち破られほど安普請であったのか疑問であるが、下図で見ると柱間が2間半と広いので鴨居は上がりやすいのかもしれない。


忠臣蔵1.PNG

映画で討ち入りの場面をいくつか見たが赤穂浪士が雨戸に近づいたタイミングで中の吉良勢が雨戸を蹴破って応戦するシーンが多かった。
変わり種としては刀の切っ先を敷居に差し込んで梃の要領で雨戸を持ち上げるというシーンがあったが実際にやれば刃先が折れそうである。
赤穂浪士が討ち入り時に揃えた道具の中に金槓杆というのがある。
これは鉄製の梃(バールのようなもの)であり刀の代わりに差し込めば簡単で確実に雨戸を外せるが解体現場で使うような道具よりも刀を使った方が臨場感もあり演出的にも効果的であったのかもしれない。

吉良側には150人程の侍がいたが非番の100人程は外壁に沿って建っている長屋にいた。
彼らの中には外に出て戦うものもいたが外で待ち受けている3人1組の赤穂勢に切られて長屋に逃げ込む始末であった。
更に赤穂勢は長屋の入り口の戸と柱や壁に鎹(かすがい)を打ち込んで吉良勢を閉じ込めたので戦力とはならなかった。
鎹は60本事前に揃えていたもので用意周到と言わざるを得ない。

戦闘は30分ほどで終わったが目指す吉良上野介の居場所が分からない。
家中を探索して(炭も置いてある)物置部屋に潜んでいるのを見つけ打ち取った。
首実験で本人であるのを確認して吉良邸を後にした。
この間要したのは2時間弱であった。

赤穂浪士に死者はなく負傷者4名で済んだ。
脛当、鎖帷子、鉢金装備で臨んだ結果である。
対して吉良勢は死者16名、負傷者21or23名だった。
寝起きを襲われ寝巻姿で応戦せざるを得なかったし赤穂浪士は3人一組で掛かってきたので当然の結果である。


ところで私の故郷は赤穂浪士とは全く関係ないのに赤穂浪士に関する行事があった。
然も三大行事の行事の一つになっている。
「赤穂義臣伝輪読会」といわれる行事で
12月14日の夜から徹夜で『赤城義臣伝』という書物を朗読する会合である。
「赤城」は「せきじょう」と読み赤穂城のことである。
赤穂事件の登場人物を実名で書いた書物である。

三大行事は以前紹介した「妙円寺詣り」もその一つで残りの一つは曽我兄弟の敵討ちの日に行われる「曽我どんの傘焼き」でこれも私の故郷とは全く関係ないがいずれも君に忠親に孝の武士道精神を高めるための行事である。


以下の本を参考にした。
『これが本当の「忠臣蔵」』山本博文 小学館
『「忠臣蔵事件」の真相』佐藤孔亮 平凡社
『花の忠臣蔵』野口武彦 講談社
『「忠臣蔵」の決算書』山本博文 新潮社









14 件のコメント
1 - 14 / 14
12/14は赤穂浪士討ち入り記念日…
心の中でずっと思ってました。

あれから…222年。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> よっちいぃ さん

コメントありがとうございます

もうそんなに経ちましたか。
でも偶数のゾロ目じゃチップ貰えませんね。
111年後に期待しましょう。
4X年前、高校生の頃。
義士祭に行きたかったが予定が合わず、
15日、学校帰りに寄り道して泉岳寺へ行きました。
まだお参りに来た人が多くいて、
境内はお線香の煙でモクモクとしていました。
 
それがいけなかった...
 
セーラー服にお線香の匂いがしっかりと染み付いて
全然消えませんでした。
冬休みに入ったら速攻クリーニングに出した...
 
今もこの日になると思い出します。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> みさよん さん

うら若き頃の思い出話ありがとうございます。
線香の匂いが染みついたのは災難でしたね。

今時の高校生は歴史(忠臣蔵)とかに興味を持つかと思う師走日
テレビによると
大石以下、誰も吉良の顔を知らずの決行、本人確認は所謂、首実験ではなく松の廊下にて浅野内匠頭長矩が付けた刀傷にて検分、首を墓前に置き、亡き主君から賜った懐刀を3度、頭に当てる儀式を義士(46人)全員で行い、「殿、吉良を捕まえてきたので、あの世で本懐を遂げて下さい」と礼をし出頭。
1人(寺坂吉衛門)は、後世に過不足なく伝える様に密命を受け途中離脱。

浅野家が本所の火消し大名(消防隊)をしていた事もあり、討ち入りの手際の良さもコレ由来とかナントカ。
ココまでは忠臣だなと思うが、↓の陰謀まで聞くと(幕府や庶民)野蛮

ファンタジー
忠臣蔵も裏で幕府が暗躍とか
朝廷と懇ろになりたい幕府が、高家(吉良)の存在が邪魔なので、松の廊下の件を利用、吉良邸移転もその一環、赤穂浪士の鬱憤を利用(世論も操作)して討ち入りさせる事に成功、高家(吉良)を排除(お家断絶)
庶民も知っていて、(討ち入り)「何時するの」「今でしょ」の圧、野蛮ちゃ野蛮

というと状況証拠の推察で、
喧嘩両成敗を恣意的に運用している点で、
松の廊下(処罰)の時点で幕府が絵を描いていた?
愛知県の西尾市は吉良ゆかりの地てすね
よく治水工事のことを聞かされて
そこでは名君と言われてました
吉良まつりなんてのもありますね
hijiake
hijiakeさん・投稿者
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>> ガゴゼ@コメント泥棒 さん

詳細なコメントありがとうございます。

打ち取った死体が上野介本人かどうかは仰る通り松の廊下の刃傷の際の傷の有無でしたが額の傷は討ち入り時についた傷か分からず背中の傷で本人らしいと判断したものですが、年格好、総髪の髪型、高級そうな白色の寝巻も傍証になったようです。その後打ち入った時に捕らえていた吉良家の足軽に首実験させて本人であると断定したのが真相のようです。

幕府の暗躍は確かにあったと思います。
その中心人物は側用人の柳沢吉保で幕府の貨幣改悪による物価高騰と生類憐みの令による庶民の不平不満の捌け口として赤穂浪士による吉良邸討ち入りを利用した感はあります。
吉良家の移転や浪士たちの自由な行動は柳沢の思い描いた筋書き通りで大石など泳がされていたとも感じられます。

いろいろな説ご教示いただければ幸いです。
赤穂浪士の話
これ、立場が上の吉良上野介が浅野内匠頭を
いじめた
ことで成り立っているお話ですね。

もし、浅野内匠頭が堪え性のない性格でたびたびの指導にもかかわらず松の廊下で刃傷に及べばその後の展開は赤穂側の徒党を組んだてろ、ということになります。

本当にいじめの結果の刃傷だったのかなんだか昨今あったお話を想起させますね。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
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>> maru2777 さん

コメントありがとうございます。

松の廊下での刃傷については浅野内匠頭も吉良上野介も具体的な弁明はしていないので世論や芝居や学者の推論で上野介は割を食らった方ですね。
地元では治水や新田開発に功績を残していますので見方を変える必要がありそうです。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
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>> 及時雨 さん

コメントありがとうございます。

浅野内匠頭が松の廊下で刃傷に及んだ時「此間中意趣これあり候」としか言ってないので具体的な遺恨には触れてはいません。
賄賂説、嫌がらせ説、塩田問題説、病気説、発作説、増上寺の畳替え説と諸説あります(これらをひっくるめていじめでも良い)が決定的な根拠はありません。

ハッキリしているのは幕府の対応です。
内匠頭は即日切腹、御家断絶の処分を受けました。
それに対し上野介にはお咎めなしの片手落ちの裁定。
これを不服とした大石内蔵助等の家臣団は再興を目指すため幕府に陳情書を届けたにもかかわらず再興は許されなかったため主君の仇を討つべく吉良邸への討ち入りを目指したのが真相です。
只、主君の仇を討つ行為が「義」か「てろ」かは判断の分かれるところです。
討ち入り前、兄に会えなかった赤垣源蔵が、兄の紋付きに向かって別れの告げるシーン

討ち入り中、隣家の旗本・土屋主税が吉良邸に向けて高張提灯を掲げ、「塀を乗り越えて逃げてくる者あれば、誰であろう(吉良でも)と追い返せ」と家臣に命じるシーン

最高に泣けます…(TOT)
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> IDEON@無限力♾️ さん

赤垣源蔵の場面は映画や芝居ではなく講談で聴きたいものです。
抑揚を抑えた語り口が頭の中で映像化され兄の姿も見えるようで良いですね。

土屋主税の場面は本物の武士は本物の武士を知る。
これも良い話です。

コメントありがとうございました。
赤穂浪士 テロと検索すると、出ますね。
テロなんて、第三者の解釈だから。
現代でも吉良上野介を称賛する人はいるみたいです。
昭和のころのTVドキュメンタリーで見たな。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> YASUHID さん

コメントありがとうございます。

立場が違えば評価が違うのは現在でも同じです。

赤穂浪士の処分については事件直後から幕府内でも両論ありました。
その論拠となった「武家諸法度」に「文武忠孝を励み礼儀を正しくすべきこと」「徒党を結び制約をなすことを禁ずる」とあって、どちらに重きを置くかで判断に迷ったようです。
最終的には今更助命しても他家に仕えることもできないし逆に上杉側からの仇討の対象ともなりかねないから武士の道を立てて切腹させた方が赤穂浪士の志も生きるというものだという結論に達したと『徳川実記紀』にはあるようです。

なお吉良家の当主佐兵衛(上野介の孫)は討ち入り時の振る舞いは不届きであったとの理由で領地没収の上他家へ預けるとの処分がなされました。
これは松の廊下での刃傷の際吉良家にお咎めがなかったことの意趣返しの意味合いがあると思われます。
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