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長くて重い話だけど…私の父の戦争体験の話

馬鹿なので、ですます口調になります。先に謝っておかねばなりません。そして重たい話になります。

父は大正15年生まれ 59歳で亡くなった。
彼は10代で招集され、満州に行ったらしい。
帰国後、彼はアンコール依存症になった。

私は、父のことを誰にも話したことがありません。子供にも。ご先祖様が黒田藩に仕えていたことも話したことがありません。家紋は笹りんどうで、見たことはありますが、捨ててしまったのでどんな家紋だったか分かりません。
それでは、ちょっとだけ今から続きの父のお話をします。

 彼の実の母親は早くから奉公にだされ、そこの奉公先の旦那に手籠めにされ妊娠させられた挙句、奉公先をおいだされました。
彼の母親は、15歳で父を出産しました。
当時は、堕胎ができなかった時代です。
彼は産まれてすぐに養子に出されました。
彼の10代は、「現人神」であられる天皇陛下一色でした。(私は知らんけど。彼がそう言っていた)ちょとでも善からぬ事を言うと引っ張られ「不敬罪」で半殺しの目に遭う…。殺されることも…。(あ〜っ怖い…)
彼は10代で招集され、満州に渡り、渡った途端に捕虜となりシベリアに抑留された。
彼は「栄養失調で、すね毛が生えなくなった」と溢していた。
彼は1日配給される食料は「この手のひらにある小さなマッチ箱1個ぐらいの大きさの硬い黒パン1個しかなかった。」シベリアでは、上官の給仕をしていたとも言っていた。軍隊内における食料不平等分配にあったと話していた。「皆んなは栄養失調なのに、上官は、丸々していた」と話していた。死んで行く者も沢山見てきたらしく、「天皇陛下万歳!などと死んでいった者は一人もいなかった。みんなお母さん…と呟いて亡くなって行った」
そして、彼は昭和25年、最終の船で舞鶴港へと帰国した。
敗戦(無条件降伏)は昭和20年でしたから、敗戦から5年後となるわけです。
彼は帰国後、全く呑めなかったお酒に溺れてしまった。
お酒が切れると、手が震える…
酒を呑んでは、戦争体験・敗戦後の日本・天皇の話をしだし、暴れた。
お酒が入れば、人でなくなる…

酒に酔うと決まって戦前・戦中・戦後・職場の愚痴…しかなかった。
いつも何故か、私だけ1人横で正座を何時間もして聴いているふりをして「うんうん」と声を出さずに頷いていました。
彼は、軍隊では事あるごとに、上等兵に殴られたと言っていた。上官は「お前らの命は、1銭5厘だ。いくらでも集められるんだ!」と怒鳴ったそうです。1銭5厘って、葉書代のことだと言ってました。
起床後の布団の畳み方、シワなく四隅がピタっと綺麗揃っていなかったらビンタ
起床ラッパにちょっとでも遅れるとビンタ
ゲートルの巻き方でビンタ
ゲートルが盗まれることもあったらしい。
「天皇陛下様」から頂いたゲートルを失くすなどもってのほか…ビンタどころではなかったらしいです。

教材工房 授業と学習のヒント
https://www.y-history.net/appendix/wh1505-121.html


28 件のコメント
1 - 28 / 28
米軍は人を大事にし、日本は人を道具以下に扱った。

例えば戦闘機でも乗員安全第一に背部に厚い鉄板装甲を施した米軍、これに対し操縦性のみを重視して背部装甲を行わなかった日本。

経済力で劣る事が根底にあった事は理解するも人命無視も甚だしい。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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父が招集される際、祖父が周りに聞こえぬよう小さな声で「生きて戻って来い」と言ったそうです。これは、れっきとした「不敬罪」にあたります。彼は「戦時中はなにと食べる物がなく、雑草を食べた。蛇を捕まえたら、お御馳走だった。カエルもお御馳走で、鶏肉みたいだった」と言っていました。
お父様の戦争体験をここで共有してくださったことに、深い敬意と感謝の気持ちを抱きました。
大正時代に生まれ、10代で戦争に巻き込まれたお父様のご苦労は計り知れないものがあったこととお察しします。シベリア抑留や帰国後のアルコール依存といった苦しい経験を抱えながらも、戦後の日本で生き抜かれたお姿には、強い意志と忍耐が感じられます。お父様が経験された苦しみや葛藤、そしてご家族の皆様もどれほど大変な時代を過ごされたか、ひしひしと伝わってまいります。
このような個々の体験が、歴史の一部として語り継がれることの大切さを改めて感じました。貴重なお話を丁寧にお聞かせいただき、感銘を受けました。

>> parlng さん

>米軍は人を大事にし、日本は人を道具以下に扱った。

は?

沖縄広島長崎の一般市民の犠牲者の方々にそれが言えますか?
私の大叔父は今でもシベリアに抑留されたままです(遺骨不帰)。
対露関係悪化でこの先も帰ることはないでしょう。

名誉の戦士ではなく、絶望の淵で落命したことだろう。

生き長らえたがゆえに苦労した方々、fumiffy@ゆるっと減量中さんの御父上のようにPTSDになった方も多数いらっしゃる。

どっちが良いとかはありません。

そのような方々を今後、二度と作らないようにすることこそが政治の安定、秩序の均衡である。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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>> STうち さん

ご飯前・ご飯中の方は、読まないでください。



彼は「シベリアで放尿したら、した先からシャーベットになった。それぐらい寒かった」と。
シベリアで強制労働で大勢の方が亡くなり、生還した数のほうが少ないです。しかし、南方ニ送られた方々はもっと酷かったのかもしれません。
水木しげる先生しかり…。

>> 電人 さん

敵を大事にしないのが戦争の不条理であり、日本も侵略、占領をしてきた事実は否めない。
原爆使用を容認するものでは有りませんので念の為。
本当に悲惨な時代でしたね。
わたしの父も大正生まれ。
とにかくあの時代を生き延びられた父のおかげで今のわたしがいます。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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>> 電人 さん

沖縄は日本軍の盾にされ、そして自国の日本兵に虐殺されたのです。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rbc/552700?display=1
戦争ですから、他国で日本兵による虐殺・強奪・強◯などの非道な行為をした…目撃・体験した話を子供の頃、数多く聞いたことがあります。
 戦争は、爆撃して終わりではなく、殺し尽くして屈服させるものなのだと誰かに教わりました。そして、いまだに米軍基地があります。
私が中学生の頃まで、福岡市博多区板付に米軍基地がありました。軽快な音楽を流す米軍放送は、私にとって憧れでもありましたが、米兵は怖い存在でした。(治外法権)
私が就職した頃も会社に軍隊帰りがいて、その延長線上で仕事を継続していて参りました。

オリンピックで早田ひなさんが「特攻資料館行きたい」と言って海外で炎上したそうですが、早田ひなさんは北九州出身だそうで日本人ならそこまでわかればピンとくるでしょう。
長崎の原爆は本当は北九州に落とされる予定で、たまたま視界が悪く断念して長崎に落とされたことは日本人にとっては常識の範疇でしょうし、昔のそのたまたまがなければ今この世に生を受けることがなかった、でもそれは外人にはわからない。

私の親戚にも特攻隊の訓練中に終戦となって、たまたま生きながらえた方もいましたし、世の中不条理なものです。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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>> 京@るー さん

そうです❗️
戦後は若い男性が戦争で命を落とし
「男1人に嫁トラック1台分」と言われたそうです。

>> fumiffy さん

大田實中将(沖縄司令)の自決前の最後の電文を読まれたことはありますか? 読まれたことが無ければご一読ください。

命に軽重はありません。戦争に犠牲は付き物であります。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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>> 電人 さん

「大田實中将(沖縄司令)の自決前の最後の電文を読まれたことはありますか? 読まれたことが無ければご一読ください。」
https://www.asahi.com/sp/articles/ASP893W3SP87PITB00N.html

悪いけど、私に言わないでいただきたいです。

沖縄県民が、貴方の発言をどう感じるかを知りたいです。
親父は自分が中2の時に病死したので戦争体験は余り聞いてませんが、102歳のお袋さんからはアメリカ軍の空襲爆撃の話ばかり聞かされますねえ!

>> fumiffy さん

私の親類縁者には戦死者、戦没者多々居ります。

民間人として犠牲になった者もおりますし、
兵士として犠牲になった者もおります。

私の祖父は大陸戦線より、あなたのお父様同様、生還しました。


私は本年、靖国神社に参拝いたしました。
来年以降もまた参ります。


ではこの辺で。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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>> 1953生まれ さん

私が中学生の時の英語の塾の先生は、アメリカのナントカとかいう飛行機の焼夷弾?とかにあたったとか言って、生徒に傷を見せていました。
「〇〇機に乗ったアメ公の奴が〜」とか、面白く話そうとすのですが……。
その先生は負傷せいで、足を引きずってました。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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>> ダータンスヒルビリー さん

私の母方の叔父も戦争で亡くなりました。
母は「とても成績優秀だった…」それだけしか語りませんでした。
遺骨もない…。母は何も語りませんでした。
私も、聞くことはありませんでした。

>> fumiffy さん

昭和30年代の小学生の頃に、母と大阪の道頓堀に行った時の事ですが、橋の上や商店街の通路では片足の無い傷痍軍人さんを良く見かけましたね。 

黙って座っている前には、アルミのブック弁当箱が置いて有り、その中には硬貨が多く入っていたのを記憶しています。 その頃は「コジキ」と呼ばれた人も多かったです。

母は良く言ってましたね、「じっと見ないでサッサと歩くのよ」と言ってました。

>> parlng さん

米軍は人を大事にし」と云うのは戦後に流布した話しのようです。米車を見れば分かりますが、鉄板が分厚く、大雑把に作っているので日本人にはそのように見えるだけ。
戦争初期の米戦車の装甲厚は日本と変わらなかった。容易に撃ち抜かれたから単純にお金もあったらので改造した。
それだけの事です。
日本には国力がなかった、だけ。

>> parlng さん

日本が侵略をしたわけではない。中国は万年内戦状態で、米欧露が植民化したくて画策を練っていた。日本は近かったので中国には進出。東南アジアは米欧の植民地であったので、資源を確保に行った。
東南アジアには今も植民地のままの場所があります。フランス領〇〇など。

>> fumiffy さん

他国で日本兵による」日本兵にもいたでしょうが、米欧露中とは比較にならない。
中国戦国時代には敵国人全員25万人を谷底に落として殺した。史記。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
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>> 1953生まれ さん

「傷痍軍人」ですね。
一昔前は、手足を失った日本兵の格好をして、お祭りの日に現れていました。本当に「傷痍軍人」かどうかは、道行く人には分かりません。アコーディオンを弾いて、お金を恵んでもらっていたことを思い出しました。流石にどう考えても、齢が合わないんじゃない?と思った頃位から、彼らは消えて行きました。父は「現在、福祉国家である」という考えから、彼らの物乞い行為をとても嫌っていました。
(読書メーター)
昭和の名将と愚将 (文春新書 618)
https://bookmeter.com/books/576332

 令和の世も、あまり変わっていない気がします

>> nak-tek さん

植民地の横取りかも知れません。
しかし植民地からの解放と言い訳しながら他国の領土へ侵略して行った事には相違無いと思います。
米国から経済封鎖された為、資源の奪取が必要となっての行為です。

中国においては略奪やぎゃ○さ○を行なっています。解放とはほど遠い行為です。
fumiffy
fumiffyさん・投稿者
Gマスター

>> nak-tek さん

私は父の話をしただけです。

政治的な思想を持ち出したくはありません。

貴方の幾つかのコメントは、ありがたいと思います。
しかし何故、貴方にチップ・ナイスが、今のところ少ないのか…なぜなんでしょう?
そういう人生なら歪むよね。
歴史認識に誤りがありました。

満州占領、中国への侵略戦争、東南アジア侵略、米国から受けた軍隊撤退要求を拒否、米国からの経済制裁、米国への宣戦布告の順のようです。

>> fumiffy さん

艦載機=艦上戦闘機
航空母艦搭載戦闘機やね。
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