~fioの旅~ the beautiful world? 【画像多め】【内容薄め】【不定期更新】
お家大好き引籠りのfioが、数少ない友人からの、半ば強引な誘いを断り切れずに外の世界と触れ合い、引籠りを脱却するまでの成長?物語です。
不定期に下手な写真と拙い説明を更新していきます。
お時間が有りましたらお付き合いくださいませ。
もし、ここを見て「行ってみたよ!」なんて報告とか貰えたら幸せ感じちゃいます。(笑)
それでは2017年fioの夏旅の始まりです。
勇者ヨシヒコが魔王ゲルゾーマと対決した場所への聖地巡りとして(笑)
(勇者ヨシヒコをご存じ無い方はコチラ)
http://www.tv-tokyo.co.jp/yoshihiko/
栃木県宇都宮市に有る、大谷資料館へ行ってきました。
http://www.oya909.co.jp/
外は30度超えの真夏日に、内部の気温は13度!
涼みに行くつもりがちょっと寒いくらいでした。
時折天井から冷たい水滴が首筋を襲います。
機械化される前は1本の石柱を切り出すのに4千回もツルハシを振るっていたとか…
昔の人の根気強さには頭が下がります。
中はライトアップされているものの、基本的に光量不足でスマホで写真撮っても真っ暗です。☝の画像はPCで目いっぱい明るく加工してます。
写真撮りたい人は三脚とバルブ開放できるカメラのご用意を。
大谷資料館の近くにある、その名も大谷寺(大谷観音)。
http://www.ooyaji.jp/
平安時代(810年)に弘法大使の作という奇岩の岸壁に掘られた千手観音が祀られています。
他説ではシルクロードの石仏と共通点が多いのでアフガンの僧侶の作という説も…
国の指定重要文化財という事ですが、上の巨大な岩の造形の方が気になります。
併設の宝物館にはここから発掘された縄文人の人骨が…
竜門の滝というと、大分のものが有名ですが、こちらは那珂川の支流江川に在る、竜門の滝、その幅は65m、高さは20mもあり大きいです。JR烏山線の滝駅という凄く小さな可愛い駅から5分程の場所で、1時間に1回滝の上を電車が通ります。
下の中州まで降りて遊べますが、滝へと降りる道が滝のしぶきでぬかるんでドロドロなので転ばない様注意が必要です。
遊歩道にはベンチも有って、木陰を涼やかな風が通り抜けて心地よいです。
ここは茨城県北部の大子町に在る月待の滝です。
http://www.daigo-kanko.jp/?page_id=2861
最近Jinponさんが跳び下り...じゃなくてバンジージャンプをした竜神峡からそう遠くない場所ですね。
滝の岩の下の窪みまで歩いて行けて、滝を裏側から見れるので、別名「裏見の滝」とも言うそう。なんだか怖そう?ですが、物凄い量のマイナスイオンがでています。
ちなみに、裏側からの雰囲気はこんな感じです。
滝の横のもみじ苑では天然氷の巨大かき氷を頂けます。
そして、ヒミツのお得情報です。
売店のお兄さんにお願いすると、無料で練乳マシマシで作ってくれます(笑)
月待の滝から日立へ向かう山間の道は、そこかしこに大小の赤い鳥居が有って、山の彼方此方に神様が居る様です。神様と言っても色々ですから、この数の多さはちょっと怖いただならぬ感じがします。
ここは茨城県日立に在る御岩神社の楼門。
http://www.oiwajinja.jp/index.html
現世と神域を分かつ門。
入る時と出る時にお辞儀をしないと魂を置いてきてしまうとか。
信じるか信じないかはあなた次第です。
冗談はさておき、楼門をくぐって少し行くと、宇宙飛行士が地上から光が伸びているのが見えたというGPS測位の場所に立つ三本杉は高さ50m以上の巨木です。参道の森の木は全てこの様な巨木で、自分が小人になったような?或いは巨大な神々の世界に迷い込んだ様な不思議な感覚に包まれます。
流石は「天地開闢の時より神々がこの地に鎮まる」と言われるパワースポットです。縄文時代の祭祀跡が発掘されていると言うから、精霊信仰の頃より何かが有るのでしょう。
三本杉を過ぎて、登っていくと、ほどなく天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)などと祀っている斎神社に着きます。ここの天井には見事な龍の天井画が有ります。この神社の横には石柱に木の車輪がはめられた物が有り、上へ回しながら祈ると現世での願いが、下へ回しながら祈ると後世での願いが叶うそうです。
何をお願いしたかはヒミツです(笑)
ちなみに記念にと思いひいた「水引の花お御籤」では愛情の花(心)を引き当てました。それによると「愛情に恵まれ、良い縁をもたらします」と有りました!
キターーーーーー!!!
でもね、個別の「縁談」のとこには「気長に待ちましょう、
良い話が来ることでしょう」ですって…
私の運命の相手はどこに??(笑)
それではみなさん、また次回お会いしましょう。












そして遂にお待ちかね、今回の目的の碓井第3橋梁がついに目の前に!明治25年に造られた、87.7mも有る見事な4連のレンガ作りのアーチ橋です。
それにしてもこんな場所にどうやってこれだけのレンガを積み上げたのでしょう?
その技術もさることながら、当時の人の根気強さにも脱帽です。
背景が青空だと、もっとレンガの色が映えたのでしょうけれど、こればっかりは仕方ありません。

第3橋梁の撮影を終えた私達は、既に汗だくで、熊ノ平まで行く元気も無く、帰りも最終のトロッコに乗って帰りたかった為(へなちょこな二人)早々に来た道を引き返して、峠の湯で汗を流して戻る事にしました。お風呂セットと着替え持ってきてよかった~最終のトロッコで出発地に着いたのが16時、鉄道文化村を一回り見学し終えると、既に陽も山蔭に入り始めていたので、オプションで考えていた富岡製糸場とこんにゃくパークはパスする事にして、おぎのやさんで、お昼に気になっていた「あんみつ×力餅ソフト」と「カルボナーラおやき」を頂いて帰路についたのでした。
(☝餡に包まれた白玉と寒天の上にキャラメルソースのソフトがのっていて、疲れた体を癒してくれます)
鉄道文化村で出会った、昔の車両については、元気が有れば別スレでご紹介したいと思います。
碓氷峠、標高960m、信濃川と利根川を分ける分水嶺とウィキペディアにあったので地理的にもおもしろい所ですね。
トロッコ列車はちょっとレトロ感もあっておしゃれです。
66.7‰は約3.8度ですから粘着式鉄道としてはかなり厳しい傾斜ですね。たまに利用する神戸電鉄は新開地(神戸中心街)~鈴蘭台の50‰(約2.9度)でもけっこう登っている感がありますので得難い体験だと思います。
廃線跡はトンネルの中は雰囲気があって良いです。
第3橋梁はトンネルと直結されているのでしょうか。橋の上に覗く人影がそのスケールの大きさを感じさせます。
青空は「旧丸山変電所」では日も照っていたようなのでちょっと残念… (^^;
機械化が進んでいない時代のこのような構造物には畏敬の念を禁じ得ません。
美しい風景をありがとうございます。
グルメに山歩きお風呂と充実した1日ですね。羨ましい…

へなちょこの二人が行けなかった旧熊ノ平駅を貼っておきますwま、駅舎はないんですけどね。
いまさらですが丸山変電所ってここじゃなかったのねw
https://king.mineo.jp/my/51b46056e8837728/reports/34589/comments/992791
血気盛んな頃、長野方面にスキーに行く際、信越線を何度か利用した記憶があります。
釜めしはともかく、アプト式はそれと意識することはあまりなかったような・・・
もう記憶も朧です。
以前、パソコンで“記号”で変換すると候補に出てくるこのマーク‰が勾配を表すパーミルだという事を今回の旅で知りました。
第三橋梁はトンネル直結で、丁度橋の写真の右側から出てきます。対岸の山まで約90m、急に何も無い空間が広がります。ズームレンズでは夏の陽射しで光る空と、山とトンネルの極端な明暗差に、ピントがどこにも合わず、橋の上の写真は失敗してしまいました。単焦点持って行けば良かったです。
神戸も海岸から急に山が立ち上がっている地形なので、かなりの勾配ですね。
信濃川と利根川の分水嶺のお話も初めてでしたので、Googleマップで追いかけてみると、信濃川は長野県から千曲川に呼称が変わり、最後は秩父の近くの源流迄辿り着きました、
また、碓井峠の当たりを流れる碓氷川は鳥川となり、群馬県伊勢崎市付近で利根川に合流していました。
峠を挟んで右が利根川へ、左は信濃川へそして其々長い旅をして太平洋と日本海へ注いでいるのですね。
地理の勉強をしたのは小学校以来でしょうか(笑)自分で旅したところからの勉強だと、興味深いです。貴重なお話をありがとうございました。
Jinponさん>
熊野平の写真ありがとうございます。やっぱりというか、何もないですね…。
この先行っても同じようなトンネルと、何も無い駅の跡だろうと予想して行かなくて正解でした。Jinponさんの写真で十分(^^♪
峠の湯に戻った時にスタンプラリーの本が300円で売られていたのを見つけて、あぁ、ネタとしてちょっと惜しかったなって思いました。Jinponさん次のスタンプラリーの旅はいつ?待ってますよ。
桔梗もんさん>
信越本線乗られた事が有るのですね。
第三橋梁の有るアプト式の路線は、昭和38年に第三橋梁よりもう少し山側に電化された新線が建設されて廃止されたと有りますから、桔梗もんさんが乗られた時は既にアプトで無くなった後だったのかと思われます。
その新線すら、今では新幹線に取って代わられていますから、峠越えの歴史と苦労を感じます。
横川駅前の鉄道文化村には多くの車輛が展示されているので、桔梗もんさんが当時乗られた車輛も有ったかもしれません。
私が利用した信越線は40年代の中ごろ以降のことですし、スキーで利用となると夜行列車、碓氷峠越えは寝てる間に通過ということだったかも知れませんね。
有難うございました。

fioさん最後はMFです… (^^;
長いトンネルを抜けて橋を渡る。そのいきなりの変化がおもしろかったのではないかと思うのですが、撮影できなかったのは残念です…
写真は福知山線廃線跡で、唯一の鉄橋があるところです。
(これは容易い構図なので普通にAFで撮影しています)
そちらのトンネル内はいい雰囲気ですね~
こちらのトンネルには照明などとシャレタものはございません… (-_-)
(トンネル6ヶ所、最長306m、懐中電灯必須)
余談失礼しました。

前回の旅から1年以上も過ぎてしまいました。今年はコロナウィルスが世界で猛威を振るっている事もあり、旅行は半ば諦めていました。
この1年、仕事のあまりの忙しさに、マイネ王を愉しむ元気すら失くしてしまったfioは心の元気を取り戻すべく、パワースポット巡りをする事にしたのでした。
2020年秋 fioの巡礼の旅の始まりです。
坂東三十三観音 公式サイト
https://bandou.gr.jp/
通勤ラッシュを避けて鎌倉へ向かうべく、朝6時半東京駅の横須賀線ホームで列車を待っていると、想いも寄らない事にギュウギュウ詰めの列車が入って来ました。
久し振りの電車の人いきれの匂いにダメージを受けつつ乗り込みます。
列車と時間が進むにつれ、乗客は通勤客から学生に変わり、横浜を過ぎた辺りから空きはじめ、ウトウトしているうちに鎌倉へ到着しました。
事前の調査通り、江ノ電の窓口で「鎌倉環境フリー手形」
https://www.enoden.co.jp/tourism/ticket/free/
を購入し、バスに乗り込み札所1番杉本寺へと向かいます。

意気揚々とお寺へ向かうと、山門へ続く階段に竹の棒が踏切よろしく置かれ、その上にはなんと、「9時開門」の文字が…その時時刻は8時。そう、坂東三十三観音公式サイトしか見て来なかったfioは8時開門と思っていたのですが、コロナ対策で鎌倉のお寺はのきなみ9時開門となっていたのでした。。
いきなり躓いたfioですが、そこは巡礼の旅「焦っても仕方ないし、早く出て来たから今日の予定は大丈夫」と心穏やかに待つ事にしました。
すると程なく山門のチケット売り場のおばさんが現れ、「本堂前にはベンチもあるから」と、時間前に入れてくれたのでした。
杉本寺は、「苔の階段」が有名な事もあり、誰も居ない間に写真を撮れたのは観音様のご加護?だったのかもしれません。

本堂へ続く苔の階段脇の階段を登って行くと、木の幹の上をなにかモフモフしたものが動きました。見ると、野生のリスが私の方を伺っています。咄嗟にカメラを向けたのですが、驚いたのか逃げられてしまいました。残念…
本堂は質素ながらも見事な藁葺で、その歴史を感じさせてくれます。
また、裏手には熊野神社が有ったりと、神仏分離令以前の日本人の信仰の在り方をそのままに遺しています。

坂東三十三観音は巡礼の順番は自由という事なのですが、1番杉本寺から回ると、発願の印(左上)を頂く事が出来ます。現在はコロナウィルス対策として、自前の御朱印帳だと書置きの御朱印しか頂けないので、発願の印を頂く為にはお寺で頒布の納経帳を買わなければなりません。
表紙は少し地味なのですが中にはお経や、各寺院の詠歌なども書いて有りますので、これはこれで良いものでした。
今回は、皆さんにも観音様のご加護が届く事を願って、御朱印の画像も上げていこうと思います。

事前の調査では、次のお寺へのバスは早朝と夜だけだったのですが、この日は雨予報だったのに、カンカン照りで、へなちょこのfioは「この暑さの中15分も歩いたら死んじゃう」と諦めの悪いfioはダメもとでバス停の運転手さんに聞いてみると、もう1系統のバスがある事が解り運転手さんと観音様に感謝しつつ、札所3番安養院田代寺へ向かいました。庭内は人気もなく、本堂は引き戸が閉ざされ、引き戸の前に納経用の鉄の箱が置かれているだけの寂しい感じのお寺です。ご本尊も見る事ができず、お堂の前で経文を読みあげて、社務所を探して御朱印を頂きました。
これには「参詣する側もされる側も、御朱印だけあればOK」という風潮なのかなと少し寂しい想いがしたものです。

この田代寺は北条雅子の墓とされる塔が残されていて、また、千手観音、馬頭観音、不空羂索、准胝観音、聖観音と五体の観音様が祀られていて、今回見る事が出来なかったのはとても残念なことです。
鎌倉駅へ戻り、江ノ電の駅舎に入ると、丁度良く2両編成の電車が止まっていたので、時間の無駄無く次の第4番札所長谷寺へ向かう事ができました。道を調べて居なかったので、皆について歩く事5分立派な松の木と山門が見えてきました。
これまでにない、立派なチケット売り場、広大な駐車場、観音博物館等、最早寺院というより観光地です。
ここでは、鎌倉フリー環境手形の特典として、チケット入れに丁度良い、ミニクリアファイルを貰う事ができます。

見事な庭園を抜け、階段を登りきると、これまた見事な本堂が現れました。中へ入ると10mは有ろうかという全身金色の巨大な十一面観音像が見降ろしており何故か目が合うので、何となく気まずい気分になります(;^ω^)
この気まずさ?気恥ずかしさ?と人が多いので読誦もせず、納経してそそくさと御朱印授与所へと向かいました。

御朱印を頂き、本堂前のベンチで荷物を整理していると、これまでのお寺で毎回鉢合わせていた夫婦で巡礼しているおじさんと、またしても出くわしました。茨城から車で来ているというこのおじさん、「茨城の札所は家から近いから電話くれたら案内するよ」とナチュラルに電話番号をきいてくるので弱りました(笑)私が欲しいのはこういうご縁とはちょっと違うのよ観音様…

鎌倉エリア最後となる第2番札所へ向かうべく、江ノ電で鎌倉駅へ戻ると、逗子行きの列車が1分後の表示!抹茶チャチャソフトを食べたかったのに~と思いながら列車に駆け込みます。鎌倉から逗子は1駅5分。駅から岩殿寺迄は住宅地の中のうねうねした道を15分程歩きます。方向感覚が無くなるので、多分あの山の方かなと見当をつけて歩く事暫し、道が昇り始めると、やがて金木犀の香に包まれた小さな山門を見つけました。
山門の階段にも雑草が繁っていて、なんだか荒廃した雰囲気です。
社務所には納経用の鉄の箱が置かれているだけで人もいないので、呼び鈴で住職を呼ぶと御朱印を頂く事ができました。
住職も終始無言で、なんだか妙な気分です。

急峻という表現が相応しい階段を息を切らして登りきると、古びて戸板の木も所々剥がれた荒れた感じの観音堂が姿を現します。あまりの荒れ様にちょっと憤慨しながら、人が居ないのを良いことに少し声を張って経文を読み始めました。
するとどうした事でしょう、突如「ゴォ」という風音と共に左目の視界の端で何かが動きました。「えっ!?」とビクっとして一瞬読経が停まりましたが、お地蔵様の前掛けが揺れたのかな?と思い読経を続けると、再び風音と共に何かが視界の端を動きました(;'∀')
神社やお寺を回っていると、相性の良い神様、お留守かな?と思うほど何も感じない神様、結界張られてる?と思うほど入るのが憚られる神様、等等色々ありますが、今回はなんだか天狗に脅かされている様な気分になりました。
ちょっと怖かったので、読経を終えるとそそくさと階段へ向かったのですが、お願いするのを忘れていた事に気付き、戻ってちゃっかりお願いだけ追加してきたのでした。

9時からスタートして、4つのお寺をクリアして12時半、なかなか良いペースです。鎌倉エリアはこれで終わりましたので、京急逗子葉山駅迄15分程歩いて、第14番札所、横浜の弘明寺(ぐみょうじ)へ向かいました。駅名もずばり弘明寺で駅前にそのお寺は有りました。
私がお参りをしている間にも、何人も人がやって来ては手際よくお参りして行く様子から、地元に愛されている寺院であることが解ります。
今は商店街と駅の間にある弘明寺ですが、その昔は眼前には相模湾が広がり、お堂の後背には富士山を背負うという素晴らしい景観を備えたお寺だったそうです。

こちらの弘明寺、古くは求明寺と称していた事もあるそうです。737年創立と言いますから、平安時代よりも以前からその光を以て衆生を救い続けているのかもしれませんね。
今も昔も、とても人の傍に寄り添っておられる観音様だと感じました。

少々小雨がぱらついてきましたが、東京まで戻っても14時半。これは第13番札所浅草寺も回れちゃいそうです。しかも雨だから人でも少なそうと足を延ばす事にしました。予想通り?仲見世は所々閉まっているお店もあり、走り抜けられる程人も少なかったです。
徳川家康の寄進により今の様な広大な寺院となったとの事ですが、その歴史を紐解くと、今からおよそ1400年も昔、628年に隅田川で投網の中から掬い上げられた観音様を祀ったのが始まりで、寺院の回りに人が集まり、浅草寺を中心に浅草の街が作られていったそうです。
浅草が浅草寺を中心とした庶民の街である事が千年以上も続いていると思うと、人々の信仰の深さと歴史を感じずにはいられません。
いつもは人形焼きに揚げ饅頭に焼き団子ばかり気にしていましたが、この様な歴史に触れられる場所が身近にあるのも日本の良さだと思いを新たにしたのでした。

今回は、初めての巡礼で作法や主要時間等解らない事だらけの旅でしたが、終わってみればかなり順調に1日で6か所も回る事ができました。電車とバスを使ったものの1日に歩いた距離は1万8千歩を超え、この歩数は実に私の普段の1週間分の歩数を歩いた事になり、帰る頃には足からお尻まで筋肉痛になっていました。
身体を動かして、気血が巡ったのが良かったのか、はたまた観音様のご利益か、帰る頃には塞ぎがちだった心も晴れやかになっていたのでした。
パワースポット巡りの目的はほぼ達してしまったのですが、三十三箇所満願目指して、fioの巡礼の旅は続きます。
今度は食レポートでもお願いします!
https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/TPTtI
お久しぶりです。
その節は、お祝いと励ましのお言葉を頂き、有難うございました。
今回は坂東三十三観音巡りですか。
よく発願されましたね。対象箇所が関東一円に点在していて、満願は大変だと思いますが、頑張って下さい。
今回は鎌倉を中心にした南関東を巡礼されたとのことですが、行き届いたレポートを拝見して、心洗われる思いでした。
特に、参詣の先々で経文を読誦された由ですが、本格的だなあ~と感動しました。
fioさんの驥尾に付して、観音様のご利益に与れたら・・・と欲張った願いをかけています。
有難うございました。

12日に旅を再開し、常盤路へ向かう事にしたfioは、先ず成田市の第28番札所龍正院を訪れました。先ず目をひくのがお寺の山門に何故かの注連縄…
神社では普通によく見る注連縄ですが、お寺の山門にと言うのは初めて見ました。
これは今からおよそ300年前の享保年間に門前にて大火が発生した際に、山門の仁王尊が屋根の上から大きなうちわで炎を扇ぎ返し延焼を免れた寺院より風下の集落の人々により、今日も毎年正月に奉納されているものだそうです。

当時は水運で栄えていたとの事で、本堂には江戸時代からの満願となった人々の巡礼額等が飾られていますが、保存状態が良くなく殆ど見てとることが出来ません。写真は1番色が残っていた物で、沈みかける米俵を積んだ船の船頭を観音様が救いに現れた様子を描いたものです。

滑川観音の由来は、大凶作に苦しめられた年、領主が仏様に願掛けを行い、結願の日に朝日姫と名乗る不思議な少女に出会い、「汝の願い叶うべし」と告げられ、近くの川辺へ連れて行かれると、少女は忽然と姿を消し、見ると川に老僧が舟を浮かべ観音像を川より救い上げると、「近くの湧水を舐めよ」と言い、その通りにすると、穀物も実り、住民の病もたちどころに回復したとか。それにしても、観音様って、川の中から拾われるエピソードが多い様な?
その昔、私や同級生の殆どが「橋の下で拾われた」と言われた様に、流行りがあったのでしょうか?

霧で山頂を覆われた筑波山を車窓から眺めつつ、次に向かったのは第26番札所の南明山清瀧寺。整備された県道から外れ畑の間の農道を少し行くと程なく辿り着きます。
ひっそりとした小さなお寺ですが、なんと推古天皇の勅願により、聖徳太子御作の聖観音像を安置したのが始まりという由緒あるお寺です。
残念な事に、昭和44年の不審火による火災で山門以外を焼失してしまっており、現在ではその姿を拝むことはかないません。

由緒正しきお寺ですが、寺運に恵まれず、明治以後は永らく住職不在の時期もあったそうで、衰退した寺を守ろうと、住民が、輪番で寺を守っていたそうです。そして昭和44年の焼失後も集落を中心とした再建委員の努力により再建されたとのこと。
今もなお 人の心の変わらずや 桃咲く里の 清瀧の寺
この寺をお詣りした方が残された句だそうです。
観音様と、村人の心の繋がりを感じさせる美しい句に出会うことができました。

そしていよいよ第25番札所、筑波山の大御堂へ。地図で見るとすぐ近くなのですが…
ナビですぐ傍まで来たのに一向につく気配がなく、道はどんどんグネグネと登って行きます。
やがて視界が開けると、お土産やのおばちゃん達の呼び込みが目に飛び込んできた所に、大御堂は有りました。
大阪城攻略の際の戦勝祈願等、徳川家の所縁が深く将軍家光による造建等を得て発展したそうですが、明治の神仏分離により、廃仏毀釈の憂目に遭うと言う波乱にとんだお寺でもあります。

しかし、ご本尊は住民によって守られ、現在の大御堂の再建に伴い改めて安置されました。写真の本堂はなんと今年2月に完成したばかりの新らしい本堂で、本堂前には弘法大師を表す南無遍照金剛 令和2年10月11日建之 の文字が刻まれています。
10月11日って、私が参詣した前日???

続いて訪れたのは、第24番札所、雨引観音。まず目に入るのは写真の長く急な145段の階段です。これは厄除の石段といい、1段毎に「南無観世音菩薩」と唱えながら登ると厄が落ちるそうですが、山門に説明が無いので、floはそのまま登ってしまいました…残念

階段を登り切ると仁王門があり、その更に上に本堂が有るのですが、何か違和感を感じませんか?そう、写真の奥、お寺なのに、まるでお城の様な立派な石垣です。
それもそのはず、このお寺、徳川家康により、150万石の寺領を寄せられていたとのことです。

長い歴史あるこのお寺では、数々の逸話が残されているが、写真の木、宿かりの椎は1396年の火災の折に、ご本尊自らがこの木の下に難を避けられたそう。また、今から800年程前に、戦火で寺が失われた際にはマダラ鬼神が集まり7日で寺を再建したとの逸話から、毎年4月にマダラ鬼神祭が行われています。
この鬼神祭は日本では京都太秦の広隆寺とここだけだそうで、是非一度見てみたいものです。
ちょっと秋田のナマハゲに似ています。

このお寺の歴史は古く、また天皇家との所縁も深いお寺です。推古天皇の病気平癒祈願により勅願寺となった他、730年光明皇后の安産祈願、821年の大旱魃の折には嵯峨天皇による降雨祈願等が行われたそうです。また、桜や紫陽花など花の季節も見事とのこと、機会があれば花の季節にも訪れてみたいものです。

続いて訪れたのは第20番札所、益子にある独鈷山西明寺です。山門手前迄車で行けるのですが、ご覧ください、この急な階段!
どうして昔の人は皆んなこんな大変な場所に寺院を作るのでしょう?ドMなのでしょうか?

御朱印授与は12寺〜13時は昼休みなので、その間にお詣りを済ませます。階段を登るとこじんまりとした本堂と閻魔堂があります。
閻魔堂に祀られているのは大変珍しい「笑い閻魔」や不気味な「奪衣婆」等5体の像です。善童子の背後から近寄る笑い閻魔は酔っ払いのおじさんみたいです。なんでも閻魔様とは、地蔵菩薩の化身で人類最初の死者だそうですが、地蔵菩薩様何があってこの様なお姿に⁉︎
人類最初に死んでしまった不運を笑うしかないのか?と思いましたが、自分と他人の苦しみを分け隔てなく取り除こうと「ハハハ」と笑っているそうです。
他に方法は思いつかなかったのかしら?

ちなみ、御朱印授与所が12時〜13時がお休みなのは、御朱印を書くおばさんがその時間は隣の食堂、その名も「独鈷處(どっこいしょ)」の店員さんに早変わりする為でした。御朱印は幾つか種類があって、写真は坂東三十三観音版ですが、笑い閻魔のカラーイラスト付の美麗な物もありました。お値段ちょっと張りますが次に行ったら頂きたいものです。

再び茨城県に戻り、第23番札所、佐白山正福寺にやってきました。このお寺は鎌倉時代に宇都宮氏によって寺を破壊されたり、明治の廃仏毀釈等の危機に晒されながらも、ご本尊が守られてきたお寺です。
城址公園の駐車場から、丸木の土留で造られた、男性でもキツイと思われる程一段一段が高い階段を登って本堂へと辿り着きます。

このお堂は写真を見ての通り人気も無いのでとりあえず?ちゃんと声を出して本堂前で読経をしました。読経を終えて御朱印をもらう場所を探すと本堂脇の柱にチャイムのボタンを発見。ピンポ〜ン。は〜い。と昭和のコントみたいな返事が有ったかと思うとすぐ隣の引き戸を開けておばちゃんが出てきました。
もしかして、まる聞こえだった??と、戸惑い顔の私に向かって止めの一言「良いお声のお経でした」
イヤァァァァ〜
恥ずかしくて、その場で危うく成仏?しかけました…

そして旅は本日最後の目的地である第22番札所の妙福山佐竹寺へ。花山法皇の坂東巡礼に同行した元密上人による開基で、御本尊は聖徳太子の手彫りと伝えられている様ですが、政治の中心的役割を担っていた聖徳太子にそんな時間があったのでしょうか?とおもってしまう私は不信心者でしょうか?

お寺の本堂は国宝や重文の指定を受けているそうですが、昨年の台風19号の爪痕でしょうか?本堂の茅葺き屋根は崩れ掛け、御燈明やお線香をあげる場所すら無くなんとも寂しい雰囲気でした。この日は翌日のはち溝山行きに備え、袋田の滝も近い大子町の宿へと向かったのですが、その途中久慈川流域では堤防の修築や河床を深くする為の重機がたくさん稼働してり一年経っても未だ傷が癒えてない現状を目の当たりにしたのでした。

宿には陽が落ちる前につく事ができ、少し早かったので写経をしてから、お隣のお店で夕食をすることにしました。なんでもこの辺りでは軍鶏が有名とのことで、軍鶏の親子丼を頂いたのですが…
よく言えば身のしまった、ということなのでしょうが、要は硬い鶏肉でした。
名物に旨いものなし、ですかね?

あけて10月13日、三十三観音最大の難所、八溝山日輪寺へ向かいます。自然の力が人間の力を圧倒している場所で、道は木の葉と苔に覆われ、どこからどこまでが道かも解らない林道を登って行きます。
途中ナビにこの先左方向ですと言われ、地図を確認すると、正面に続くはずの路が植物に覆われて無くなっている場所が2つもありました。
やっとの思いで山頂付近まで登ると、ナビが「交通情報が変わりました、別ルートで案内します」と曰います。やめて〜と声に出して叫びながら進むと、この先崩落通行止めの看板に行き当たりました。
仕方ないのでナビに従い脇道を登って行くと神社が現れ、その先に公衆トイレがあって行き止まりです。。
山中で迷子⁉︎と半泣きで先の看板まで戻ると、通行止めの先に「日輪時までは通れます」の文字が。こうしてなんとか無事にお寺につく事ができたのでした。
御住職のお話では前日きり深い中やってきた女性2人の巡礼者も泣きながらやってきたとのこと。
悪天候の日は行かないようにしましょう。

ちなみに、このお寺のかいきは「役の行者」とされており、この人物は日本の修験道の開祖とも言われる小角という人物で、後に世間を騒がせたつみにより島流にされたそうで、きっと幕府も懼れるすごい法力を支えた人だったのでしょう。話は変わりますが、ご住職は毎朝麓の太子町からお勤めの為早朝に車で山を登り、17時にお勤めを終え暗い山道を街へ戻るそうです。
私の見立てでは八溝山地元最速は間違いなくこのご住職だと睨んでいます。

想定外の険しい山道に予想外に時間を費やした為、急ぎ次の目的地である中禅寺へと向かいます。八溝山を駆け下り、日光へ向かう山道県道28号を駆け上ります。これがまた車1台がやっとというせまく、昼なおくらい悪道で、すれ違う時は路肩を覆う草にどこまで地面があるか解らず冷や冷やものでした。
平日で空いていた第2いろは坂を一気に上ると中禅寺湖の畔に立派な山門が現れます。
実はこの時まで、中禅寺があるから中禅寺湖だと気づいていませんでした…

観光化されたこのお寺では、あまり自分のペースでお参りする事ができず、案内されるままに本堂へ入れられて、一頻り説明を聞かされて出てくるという流れでした。その為読経も納経もできず…
写真は本堂二階からの中禅寺湖です。前日から急に気温が下がって紅葉が始まったばかりとのことでした。
今頃はきっと見頃を迎えていることでしょう。

第18番札所となる日光山中禅寺男体山の別称二荒山はフタラ山と
いうそうで、これが浄土補陀落山の
ことであり、男体山こそが観音様の山ということだそうです。
ちなみにご本尊の立木観音は、木を切り倒さずにそのまま彫ったことに由来しており、現在も本堂の下に根を張っているとの説明でしたが、明治35年の山津波で観音堂が湖に流された時、本尊は傷一つなく浮かび上がり、今のお堂に移されたと記録が有ることから、現在は、元々の場所に生えたままというわけでは無いみたいです。
観音様も色々大変なんですね。