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入菩薩行論 第六章 忍辱の完成(1)

数千カルパの間に積み重ねられた、善行、布施、スガタ(仏陀)への供養--そのすべてを、怒りは(一撃の下に)打ち壊す。

怒りに等しい罪悪はなく、忍辱に等しい苦行はない。それゆえ、いろいろな方法で、努めて忍辱を修習すべきである。

心臓に怒りの鏃のある間は、心は静安とならず、喜楽を味わわず、安眠を得ず、堅固とならない。

召使たちを主人が顧みて、利益を与えることで待遇していても、その主人が憎しみにとりつかれていたならば、召使も主人を嫌い、彼を殺、そうとさえ願う。

彼の親友すら、彼を嫌悪する。彼は物を施しても、報酬を受けない。要するに、憎悪を発する者に、安住を得る手段は全くない。

かように、怒りは様々な苦しみをもたらす敵であると知って、それを強く殺、すその人は、この世とあの世で安楽を得る。

願わしからぬことの実行と、願わしきことの挫折によって生じた憂いと悩み--それを養いとして怒りが燃え上がり、それが私を殺、す。

それ故、私はまずこの敵の養いを破壊しよう。なぜなら、私を殲滅する以外に、この敵になすべき仕事はないから。

最も願わしからぬことが到来しても、私の歓喜は乱されるべきではない。憂いや悩みがあれば、願うことは成立せず、ことに善が滅ぼされる。

もし対治法があるならば、憂いや悩みは何の役に立つか。また対治法がなくても、憂いや悩みは何の役に立つか。

苦しみ、辱め、悪口、誹謗--これらは、われらの愛する者、および自己にとっては、望ましくないことである。しかしそれは、仇敵については、反対である。

安楽は極めて得がたく、苦しみは容易に生ずる。(しかし)ただ苦しみによってのみ、(輪廻は)免れうる。ゆえに、我が精神よ、堅固であれ。

ドゥルガー女神の信者であるカルナータ国人は、自分の身体の一部を焼いたり切断したりすることなどの苦痛を、無益に忍ぶ。しかるに、私はなぜ解脱のために臆病なのか。

およそいかなる事柄でも、反復実習によって成し遂げられないものはない。そこで軽易な災厄に耐え忍ぶことを反復実習し、それによって大災厄をも耐え忍ばねばならぬ。

南京虫、虻、蚊、飢え、渇きなどの苦痛、激しいかゆみ等の苦しみ--なぜこれら(忍耐の機会)を、汝は無用のものとして無視するのか。

寒さ、暑さ、雨、風、旅路、病、監禁、殴打などによって、心を繊弱ならしめてはならない。そうでないと、災厄が増大する。

ある者は自己の血を見て著しく勇気を奮い起こし、またある者は他人の血を見て意気消沈に陥る。

これは、心が堅固であるか臆病であるかに原因がある。それゆえ、苦しみによって征服されない者となれよ。そして災厄に打ち勝てよ。

賢者は苦しみのうちにあっても心の澄浄を乱すべきでない。なぜなら、煩悩と戦っているのである。そして戦闘において、災厄は起こりがちであるからである。

己の胸をもって敵の打撃を受け止めようとする人々は、敵に勝つ。かような人々は、勝利者であり、勇者である。しかし残りの人々は、「すでに死せる者を殺、す者」である。

さらに苦しみには他の徳がある。それは厭患によっておごりをなくさせることである。また輪廻するものに慈悲を、悪に対しておそれを、勝利者(仏陀)に対して渇仰を生ぜしめる。

胆汁等は大苦の原因であるが、それに対して私は怒りを発しない。それならばなぜ心識を有する者に対し、怒りを発すべきであるか。彼らといえども、等しく条件によって、怒りを起こさせる者ではないか。

あたかも(胆汁などによって身体の)苦患が心ならずもおきるように、そのように、怒りもまた心ならずもいやおうなく発生する。

「私は怒る」と思考した後に、人は願って怒らない。また怒り自体も「これから起ころう」と志向して起こるのではない。

あらゆる犯罪、さまざまの罪悪、これら全ては、条件の力による。自主独立のものは一つもない。

また条件の集合に「私が生ぜしめる」という思惟はなく、生じたものにも「私は生ぜしめられた」という思惟を欠く。

(サーンキャ学派が想定する)と伝えられるプラクリティと、彼らの仮定するアートマン--この両者も、「私は生じよう」と思考して生起するのではない。
それらは生起する前には存在しない。そうすれば何が「発生しよう」と願いうるか。また対象に関与することから停止されるのを願わない。
さらにアートマンは永遠で、非精神的で、虚空のように偏在しており、明らかに動作のないものである。たとえ外的条件と接触しても、不変のアートマンにどういう動作がありうるか。
動作のときに、動作以前と同じ状態にあるもの--かかるものによってどんな動作がなされるというのか。もし「外的条件との結合はアートマンの動作である」というならば、その結合において、いずれが他の原因でありうるか。

かように、一切は他に依存している。そしてこの、他を依存せしめているものもまた、独立ではない。もろもろの存在は化現のように主動性(独立性)がないものであるのに、何に対して怒りが発せられるか。

反対者が、「そうだとすれば、怒りの抑制はまったく不可能であろう。何が何を抑制するのか」と言うならば--「それは可能である」と答える。なぜなら依存関係による生起(の法則)があるので、苦しみが静止してなくなるということも認められるからである。

ゆえに、敵もしくは味方が不埒な行ないをするのを見ても、彼にそのような条件が働いているのだと思って、心を安らかに保つべきである。

一切の衆生が、願いだけで目的を成就することが出来るなら、誰にも苦しみは生じないであろう。誰も苦しみを願うものはない。

人々は怠惰さから、茨や棘や食の欠乏などによってその身を悩まし、及ばぬ女などを望むことから、怒りを発して(自らその身を悩ます)。

あるいは、首をつり、あるいは高所より飛び降り、また毒や不健康なものなどを食うことにより、また不道徳な所行によって、人々は自身を殺、す。

かように、煩悩に支配されて、愛しい自身すらも殺、すのに、どうして彼ら(衆生)が、他人に対して害を加えるのをやめることがありえようか。

これら煩悩に狂い、自己の破滅に努めている衆生に対し、ただ救済の心を起こさないばかりか、かえって怒りが発せられるとは、どういうわけか。

もし、他人に苦しみを与えるのが愚者の本性であるならば、それに向かって私が怒りを起こすことはふさわしくない。それはあたかも、本来「焼く」という性質を持つ火に対して(怒るのがふさわしくないこと)と同様である。

さらに、もし衆生のこのような過ちは偶然であり、衆生の本性は本来は清らかであるとするならば、それに対する怒りは、(本来清らかな)虚空が不快な煙で満たされたとき、(虚空に対して腹を立てることと同様に)これまた正当でない。

直接の原因である杖をさしおいて、杖で殴った人に怒りを発するくらいなら、むしろ彼(殴った人)は怒りに駆られたのだから、怒りに対して怒りを起こす方が、私において優っている。

さらに、前生において私はかような災厄を衆生に加えた。それゆえ、衆生に苦しみを加えた私が(今この苦痛を受けるのは)当然である。

彼の刀とわが身と、この二つが私の苦しみの原因である。彼は刀をとり、私は身をとった。いずれに対して怒りを発するか。

私がとったこの身体という物質は、触れるのも耐え難い腫れ物である。渇愛によって盲目となった私が、そこで苦悩を受けるとき、何に対して怒りを発するか。

愚か者の私は、苦しみを希望しないのに、苦しみの原因を希望する。苦しみは自己の悪業を原因とするのに、なぜ他人に対して怒りを発するか。

(地獄界における)刀の葉の林や地獄の鳥どもが、私のカルマから生じたものであるように、この現在の苦しみもまたそうである。何に向かって怒りを発するか。

私に加害者が現れたのは、私のカルマに駆り立てられたためである。そしてそれによって、彼らは将来地獄に行くであろう。つまりそれは、ただ私が彼らを滅ぼした(地獄へ落とした)ということになりはしないか。

彼らによって忍耐の修行を行なう私には、多くの罪悪の消滅がある。しかし、私によって彼らは地獄に行き、長い苦痛を受ける。

私だけが彼らの加害者であり、彼らは私の恩恵者である。卑賤な精神よ、何ゆえに転倒して、怒りを発するか。

私が地獄に行かないとすれば、それは私の決意の徳の力である。私が(加害者への報復を差し控えることによって)自身を守護しても、それによって彼らに、いかなる損失が生じるか。

また、私が害をもって害に報いても、それによって彼らは守護せられない。しかも、私の修行は破れ、その結果、悩める者たちは壊滅してしまうであろう。

心は無相であるから、誰からも、どこにあっても、滅ぼされない。しかし、肉体に愛著するために、心は身の苦しみに悩まされる。

侮辱、粗暴な言葉、誹謗--これらの全ては、身体を傷つけない。それなのに心よ、いかなる理由で、汝はそれらに怒りを発するか。

私に対する他人の悪意は、それを私が嫌うほどに、この世あるいは他の世で、私を食い尽くすであろうか。

それは所得の妨げとなるから嫌うのであるというなら、私の所得はこの世だけで消滅するが、(憎しみによって生じた)罪悪は堅く永続するであろう。

よこしまに長く生を保つくらいならば、今日死んだ方がましである。生きながらえても、死の苦しみは、私において全く同じであるから。

ある者は夢に百年を楽しんで目覚め、他の者はわずかに一時を楽しんで目覚める。
しかし両者いずれも、目覚めたときには、楽しみは消えうせていないか。人は長命であっても短命であっても、死時においてこれと全く同様である。

多くの所得を得、長く楽を享受しても、あたかも盗人に剥ぎ取られたように、手はむなしく、裸で私は去り行くであろう。

所得によって生を維持しながら、罪悪を滅ぼし、かつ功徳をなすと言うならば--所得のために怒りを発して、功徳の消滅と罪悪が起こるではないか。

私がそのために生を維持する目標(功徳の増大と罪悪の消滅)が消失するならば、ただ不浄な行ないをなすこの生存に、何の用があるか。

ののしる者に対して、怒りを起こす。
「彼は衆生を滅ぼすものだからである」と言うなら--彼が他人のそしりをなすとき、なぜ汝に(自分がののしられた場合と)同様の怒りが生じないか。

他人に向けられた悪意であれば、汝はその悪意を許す。しかしその罵りなどが汝の煩悩などに抵触するときは、汝は彼を許さない。

また、仏像、ストゥーパ、正法を、破壊し誹謗する人々があっても、それに対して私が怒るのは、ふさわしくない。それによってブッダ等は、なんらの災厄を受けないから。

師匠、血族、および愛しい者等に対して、害を加える者がある場合には、前述のように、それを条件から起こったことと観て、怒りを除くべきである。

生き物が受ける苦しみは、意志を持つ者によって作り出される場合と、意志を持たない物によって作り出される場合とがあるが、苦痛は、意志ある者の上にのみ認められる。それゆえに心よ、汝はこの苦痛を忍ぶべきである。

ある人々は迷妄によって過ちを犯し、ある人々は迷妄によって怒りを発する。われらはこれらの人々の中で、いずれを「過失なし」と言い、いずれを「過失あり」と言うべきか。

なぜ汝は、そのために今汝が他人に悩まされるような行いを、昔なしたか。全てはカルマに依存している。私が誰であれば、これを変更しうるか。

かように悟って、私は全てが互いに慈愛の心ある者となるように、功徳に励む。


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