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ナーガールジュナ  王様への手紙、善なる道

マンジュシュリー童子に礼拝し奉ります。
徳があり、幸ある者よ。スガタ(お釈迦様)が説かれた教えに基づいて、功徳を積むために、私がほんの少しばかりまとめた、以下のアーリヤ韻律の詩句を、あなたはお聞きください。

智者はたとえ木で作られていてもスガタの像を敬うように、私のこの詩句がいかにつたなくとも、正しいダルマの教示によっていますから、軽んずべきではありません。
あなたがすでに偉大な聖者の言葉に耳を傾けてそれをよく理解されているとしても、石灰から作られたものが夜の月光の下でさらにいっそう白くならないことがありましょうか。

勝利者は、仏陀、仏陀の教え、出家教団、布施、戒、天への六つの随念を説かれています。それらとそれぞれの功徳とを随念してください。

身体と言葉と心において常に十の善行の道を守り、酒を断ち、また高潔な生活を喜ばねばなりません。

富は移ろうもの、またむなしいものと知って、定めに従って、出家修行者、ブラーフマナ(インドのカーストのお坊さん)、貧しい人、知人に、施しを行ってください。人に施すこと以上の友人はありません。

あなたは誤りがなく、崇高であり、混じりけがなく、穢れのない戒をお守りください。戒は、あたかも動・不動の全てを支える大地のように、あらゆる功徳のもとである、と説かれています。

布施、戒、忍辱、精進、禅定、智慧という計り知れない完全な徳を広く修め、大王よ、輪廻の海の彼岸に至らねばなりません。

父母を敬う家はブラーフマナに恵まれ、師にも恵まれます。
彼らを敬う者は称えられ、また来世には天界に赴くでありましょう。

殺生をやめ、盗みをせず、性の交わりを断ち、嘘をつかず、酒を断ち、非時食への欲望を捨て、高い床を愛好せず、歌や踊りや華美な飾りを断つこと、これら聖者の戒に順ずる八つのもの(八斎戒)を守るならば、布薩者には、男であっても女であっても、楽しい欲天が恵まれるでありましょう。

物惜しみ、偽り、貪り、怠惰、慢心、愛着、怒り、家柄や容色や知識や若さや能力に関するうぬぼれを敵のようにみなしてください。

怠惰を離れることは不死の甘露のもとであり、怠惰は死のもとである、とムニは説かれています。それ故あなたは徳を増大するために、常に敬虔(けいけん)に怠らないようにしてください。
およそ以前に怠惰であった人が後に怠惰でなくなるなら、その人も雲から出た月のように美しく、例えば、ナンダやアングリマーラやクシェーマダルシンやウダヤナのようであります。

また、忍辱に等しい苦行はないのですから、御身は怒りを起こすようなことがあってはなりません。怒りを断てばもはや退くことのない境地に達する、とブッダは説いています。
「この人は私を非難した、この人は私を打ち負かした、この人は私の財を奪った」と言って憎しみを抱く人は争いを起こします。もし憎しみを捨てるならば、安らかに眠るでありましょう。

心に思うことは、水や地や石に描かれた絵のようなものであると知るべきです。そのうち、穢れのある心を初めとし、最上であり法を求める心を終わりとします。

勝利者は、人には三種の言葉があると説いています。すなわち、快い言葉と真実の言葉と偽りの言葉で、それぞれ蜜と花と汚物に似ています。そのうち最後の言葉を捨てるべきです。

光から光に赴く人、闇から闇に赴く人、光から闇に赴く人、闇から光に赴く人の四種類の人間があります。そのうち最初の人になるべきです。

人は、マンゴーの果実のように、未成熟の人が成熟したように、成熟した人が未成熟のように、未成熟の人が未成熟のように、成熟した人が成熟したように見える、ということを知ってください。

他人の妻を見ず、もし見たとしても、年齢に応じて、母であり、娘であり、妹である、という思いを持つべきです。もし愛欲が起こったら、彼女は不浄なものであると正しく考えるべきです。

動揺する心を、学習のように、子のように、宝のように、自己の生命のように守るべきであり、欲望の楽しみを、悪獣のように、毒のように、剣のように、敵のように、火のように防ぐべきです。

諸々の欲望は不幸をもたらすものであって、最高の勝利者は、それはキンパーカの実よようであると説かれています(表面は甘く中心は不味い実)。それらは捨てるべきであって、この世の人々はその鉄の鎖によって、輪廻の牢獄に繋がれています。
常に対象をめぐって固定せず動揺している六つの感官を制する人と、戦いにおいて多くの敵に勝つ人とのうち、智者たちは前者こそ優れた勇者である、と述べています。

若い女性(男性)の身体は、ただ悪臭を持ち、九門の深い穴があり、あらゆる不浄物の容器のようなものであり、満たしがたく、皮膚に包まれ、また飾られているに過ぎない、と見るべきです。

虫に悩むハンセン病患者が慰安を求めて火に近づいても安らぎを得られないように、欲望を貪る人もそれと同じである、と知るべきです。

最高の真実を見るために、あらゆるものに対して正しく心を向ける努力をしてください。それと等しい徳の法は他には一つもありません。
たとえ家柄、容色、知識を具えている人であっても、智慧と戒を欠いているならば、至福を受けることはありません。したがって、この二つの徳を具えるなら、たとえ他の徳がなくても、尊敬されます。

世界を知る王よ。世の中の八種の法、すなわち得ることと失うこと、苦しみと楽、名誉と不名誉、称賛と非難とに自己の心を向けず、それらに超然となるべきです。

あなたはたとえブラーフマナ、修行僧、デーヴァ、守護者、親、妻、従者のためであっても、罪をなすべきではありません。地獄における報いに加わる者は誰一人としておりません。
悪業を犯した者が誰も彼も、直ちに剣で切られるように切られるのではありませんが、死の時がくると、悪業の報いが現れます。


2 件のコメント
1 - 2 / 2
有り難い説法❓に感謝、感謝ですm(_ _)m

でも、まだ昨日の説法が解読出来てません😓

恐れ多い注文ですが、週一(毎週土曜或いは日曜日朝一番とか)くらいのペースで定期的にアップして頂けると幸いです。
ゴータマ
ゴータマさん・投稿者
エース

>> corgitan@人生は一度きり🤔 さん

昨日のやつを簡潔にいうと、
心というものは確固としたものではなく、無常であり、実態がなく、経験や情報の積み重ねにより、瞬間瞬間移り変わり続けているものです。
だから人は、自分で認識している以上に接する人々の影響を受けてしまいます。
人は、良い心の部分と悪い心の部分を持っています。多くの心の構成要素のうち、いくつかにスポットが当たって生きています。
例えば友人や家族が、悪しき心、悪しき言葉、悪しき行為の表現をした時、それを見た、聞いた自分も悪しき心の要素が引っ張り出されてしまうのです。
梅干しを見てヨダレが出るのと同じで、人の陰口を言う人と一緒にいると、自分の中の悪い部分も引き出され、いつの間にか自分も陰口を言っているかも知れません。
悪趣に赴くのを避ける為に、愚者(悪友)等からは遠ざかるべきであると説かれています。
またスッタニパータの一節に、「善友と出会ったなら、彼とともに行け。もし善友と出会えなかったら、悪友とともにいるよりは、むしろきっぱりと、サイの角のようにただ一人歩め」とあります。
そして、色々な所、「悪友と交わるな。善友と交われ」と繰り返し説かれています。

またこれは自分も気をつけるべき点でもあります。
優れる者に対しては嫉妬を、等しい者に対しては抗争を、劣れる者に対してはおごりを、称賛によってはプライドを、そして非難によっては怒りを起こす
という部分は気をつける所です。
逆に考えると、優れる者を見たら、称賛し、その部分を学ぼうとしなければなりません。
等しい者をみたら、励まし合い、共に切磋琢磨すべきです。
劣った者には慈悲を発し、手助けをしてあげるべきです。
称賛されたなら、自分自身ではなく、自分の良い所に対する称賛であって、慢心を捨てるべきです。そして、そのように他者を称賛できる相手の心こそ称賛すべきです。
非難された時には、自分の悪しき点を改善できるチャンスと捉え、怒りを捨て去るべきです。
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