自分の足りないものがわかる
母親と仲良くなければ友達もいない
といわれるがどういうことなのだろうか?
年と容姿を伏せれば要素は同じだということを気がついた。
aが無条件にdにしてほしいことを尽くしてくれる。
これをそのまま愛という。
自分にとって必要のない愛は、縛りとなるわけだ。
いやいや、愛は、性のことだというが
形としては同じものである。
受け取ってうれしいもの、いやなものである。ということだ。
わからない人は、よく愛というものは、何か考え理解するほうがいい。
基本的に相手をよく知り、相手のためにやってあげることである。
時には、喜ばれたり、縛られると思われたりするわけだ。
相手が望むものをあげればいいのだ。
それをするには、相手の良いと思ったことをやればいいということ。
だが、この世の中は、この法則がある。
相手のことを理解しやすさ
相手が疲れなどで受け取れないことである。
みんながみんなうまくいかないということである。
世の中、気があう人がいてもいない人も存在するから、その考えは甘いという意見もある。
それと、相手のことをよく考えないか、知ろうとしない人が大勢いるからだ。
いろんな理由で認めない、素直になれない人がたくさんいる状態である。
無知で怒る人か
自分も似た部分もあるから少しぐらいは許してあげよう。
どちらが大人だろうか?
容姿、幼さをバカにしているひとは、大人気ないと思わないのか?
自分もそういう時期もあったはずなのに、他の人はいいのかと
自分も肝に銘じ、受け入れ、理解し、反省する。
そういう葛藤もありつつ、
相手のことを考え最善を尽くせ、
相手も同じく十分にお返ししてくれる人が友達であり、親である。
仲間も一緒である。
私は、今まで人の気持ちをさっぱりわからなかったが、
痛い目に合いながら、なんでなんだと思いながら相手様を見てきて生きてきた。
その期間は長かったけれど、
みんなは、嫌になりながらも受け入れてくれたのだ。
愛とは、そういうことなのだ。
そして、ありがとう。
感謝の使いどころがようやくわかったのである。
こんな分からず屋を混沌とした世界に連れてきてくれてありがとうと。
ブッダ師匠が言いました。
よこしまな人(分からず屋)は、相応とした世界にいく、と。
みんなも分からず屋、私も分からず屋
世界は、私の鏡である。
自分なりに
答えを見つけていければ
それでいいんじゃないのかな、と
思います(*´˘`*)
そうですね。ひとそれぞれ、
答えがあり、見つける速度もまちまちので、
最終的に本人なりに悔いのないような人生を送れればいいと思います。