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差別のありかた。

「差別をなくそう」みたいな標語を見かけることがある。その度にわたしは、標語に宿る差別を感じてげんなりしてしまう。

標語はいつも、自分こそ正義とばかりに語りかける。自信満々だ。だけど。この標語の未来は暗い。なぜならこの標語には「なにかを差別しているひとへの差別」があふれているから。

差別はどこかの時点で必ず被差別へと立場を変えてゆく運命にある。少なくとも目に見える限りでは必ず。つまり、それまで差別していたひとを差別する誰かが新しく現れるということだ。冒頭のあの標語みたいなものだ。

そもそも差別とは主観的な感情であって、一旦芽生えてしまったら、容易に消すことなどできるはずがないとあたしは思う。恋みたいなものだ。「だったらその差別が芽生えないような社会にすれば良い」というのは短絡的であるか、あるいはユートピア的に見える。

差別心を墓まで持っていったアインシュタインを責める権利が、いったい誰にあるというのだろうか。

いや。それでもあの標語だけはきっと律儀にアインシュタインを責めるはずだ。曰く「差別をなくそう」。


18 件のコメント
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退会済みメンバー
退会済みメンバーさん
ビギナー
差別は主観ではなく共感が産むものではないかと勝手に分析しています。共感は美しい言葉に見えて実は残酷でもあると思っております。
こんにちは。

差別は無い方が好ましいが区別は必要です。
イケメン、美女も
差別用語なのでは?
と思うこの頃です😅
個性よ❤️個性♪
他の人とどこか違う。
大きく違うか微妙に違うか
皆それぞれ違う。
違いを個性と認めるこそが差別を無くす一歩ではないでしょうか。
きつい様だけど
補助金や割引、障害者年金を貰ってる間は差別なんて無くならないわ。障害者と差別をされてるんで貰えるんだから。
色々な言い方はあるのかもしれませんが、誰しも差別をした事があると思います。

『差別化を図る』など、ポジティブな使い方もありますので、考え方一つだと思います。

差別しない事、『無差別』などは逆に事件等を連想して良い印象では無いです。

メリット、デメリットなど比較検討をする上で、『差別』は必要な感覚なのかもしれませんね。
【区別】
差異によって分ける事

【差別】
分けた事(もの)に対して優劣を付ける事

という認識で正しいのかな?
これ自体にそれほどの悪意は感じないんですけどね。

でも、世の中で言う「差別」って、「優劣の付け方が一方的な主観に基づいてて、劣ってる(と決めた)方を卑下する。場合によっては迫害する。」という意味で使われる事が多いと思う。

これはダメだよね、倫理的に、道徳的に。

「無差別級」の意味は体重別階級が設けられている競技で、体重の軽重に関係なく出場できる階級のこと。
≫やはり、人を思いやる・リスペクトする気持ちが大事なんでしょうね。


あら、何か悟りましたか?
素晴らしいではないですか(ホント)
「差別をなくそう❕」ハイ、いつも、一番差別、しているのは自分だと
 肝に銘じています。😔
退会済みメンバー
退会済みメンバーさん
ビギナー
差別って、私はその方に何も感じない事かと思ってます。
どんな方にも基本的には配慮できれば良いと思っています。
そうすると、困っている事って誰しも1つや2つはあると思うんですよね。
それは私にだってある訳ですし。
そこで、配慮できることなのか、そうでは無いのか、自分の中の感覚で考えて行動すれば良いんじゃないのかな、と。
なので、逆に困ることは困ると言う必要もある訳ですよね。
でも、どこまでを差別とするか、これが一番難しいのかもしれませんし、各個人によって違うんでしょうね。
なので、私自身はどんなことでも差別はあるとも言えると思っています。
って、このスレ哲学っぽいですね(^o^)
>「なにかを差別しているひとへの差別」

ちょっと屁理屈な感じがしますね。
罪人を罰するのも人権侵害だから駄目みたいな考え方に思えます。
差別が何故駄目なのかというと、公平で無いからです。
差別された側が不条理に不利益を被るからです。精神的物理的に。
差別する人へは差別では無く、区別でしょう。この人は差別するという評価です。それは差別とはいえません。
めるも.さん
いつも、面白い投稿ですね。
前回は、光が速いか遅いか。で、今回は差別心。
なかなか、宗教的嗜好がお有りの様ですね。(^_^)
昔、或る禅宗の高僧が言われてました。
「お悟り」というのは、「差」を「取る」事だと。
つまり、自分と他人の差を無くす事だと。
だから、差別心どころか、「自分と他人の区別」もない、
そこまでいけたら、仏さんだと思います。(^人^)
差別は、自分より劣等だと決め付けた相手を作り、自分の優越や心の安定を得ようとする行為ではないかと思います。(個人的な見解です)

「差別をする人」を「差別をしない人」より劣等な存在とし、「差別をする人」を注意する事で「差別をしない自分」の優越や心の安定を得ている。
(差別もしないし、差別する人を注意する私エライ)

根源的には同じ行為であると・・・

スレ主の言いたい事ってこんな話だと思います。
哲学的ですね^^
それはそれでわかるのですけど
わたしは「差別をする人」を軽蔑します。
軽蔑する事でわたしも差別する人になってしまっているのかもしれませんが、
それでもわたしは「差別する人」を軽蔑し、憎みます。平等でありたいとあがきます。
差別された経験は多分一般平均値よりも高いわたしは
 「差別」を受けた人達の側に立っているという矜持があります。これもまた問題ならば、そこまで仏のようにはなれないので
そんなこと言われるくらいならくそ食らえと応えます。
「差別」という言葉
「差別」という行為(行動)
これらがどんな言動を指すのか?

その言動を「差別(=悪い事)」といったい何%の人が感じれば、その行動は「差別」と断定されるのだろうか?
「差別」を感じない人(又は差別と感じる側の)の「マイノリティ」の自由はどうなるのか?
現実的には様々な要因があり、断定する事が難しい場合も多いと思います。


思考的(論理的)な話であれば
前提として「差別」=「悪(やってはならない行為)」となっていますので、差別は無くすべきもので問題がありません。


スレ主が感じるのは前者であると思います。
標語が目指すのは後者であると考えられます。

標語という短い文章の為、様々な感じ取りがあると思いますが、自分が感じた何かだけでなく、他人と此処に書きあうような意見の交換をして。自分の意見だけでなく他人の意見からも色々な考えや、考えを持つ人が居るという事を考える切欠にすると良いと思います。
> 「差別をする人」を「差別をしない人」より劣等な存在とし、「差別をする人」を注意する事で「差別をしない自分」の優越や心の安定を得ている。
(差別もしないし、差別する人を注意する私エライ)
> 根源的には同じ行為であると・・・

前提条件として、そうした差別する人に優越感をもつような極めて特別な人を引き合いに出すというのが、恣意的でオカシイです。
多くの人は義憤や憤怒で「差別主義者」に対します。そこに優越感を持てるなんて稀な変態さんです。

代弁されての発言だとは思いますが、
このままですと「差別する人」を窘めたり糾弾してはいけない。「差別する人を差別することになる」から。ということになります。
……変でしょ。
めるも.
めるも.さん・投稿者
レギュラー
みなさんありがとうごさいます。

この類の問題はとても難解で、正解という概念ではとらえられないだけに、議論もまた複雑化していきます。議論の最後はひとりひとりが自分の意見をひたすら主張し、自分の意見だけを大事に持って帰る。そんな風景を見てきました。いやわたし自身もそのひとりなのでしょう。

まずは自分と違う意見、自分とは反対の意見について、それが確かに存在していることを考ええいこうと思います。「自分と違う意見の存在は認めたくないけどあるから仕方ない」というのではなく。

そうして多くの方の意見をここで見ることができました。これこそが一番の収穫だと感謝しています。ありがとうございました。

私と違う意見について「そういう意見もあるんだ」とその存在を確かに認めることは、差別問題についての見識を深めるためには不可欠なものだとわたしは考えます。なぜならその意見は、真剣な意見でありかつわたしと反対だから。

人間いる限り無くならないような問題はほとんどひとの本能なんだろうな、と感じてはいます。
>標語はいつも、自分こそ正義とばかりに語りかける。自信満々だ。だけど。この標語の未来は暗い。

標語を掲げた一個人の背景も知らないのに、そうやって一括りにする主観的な感情。

人が何かを考え行動を起こすと、少なからず差別は生まれれてくるのでは?
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