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なんとなくツッコミを入れたくなるようなすっとぼけた感じがアガりますね。あのライブ感はいい!これを楽しみにしている人もいるのでしょうね。
メンバーがいません。
何だかゆる~くて会場との繋がり感もちょっとあって、
変にTV気取りしてないライブな感じは良いですね♪
昔は押しがけでしたが、スタート時の転倒を防止する為、セルスタートが一般的になりました。
昔が懐かしいなぁ...
ホンダとカワサキは惜しかった…
しかし、ジョナサンの速さは異次元❗
例年よりは確かにゆるい感じだったのかもしれません。
HRCで挑んでも勝てないとは…
情けない。というかヤマハが強すぎるということと、やはり10年のブランクはワークスでも大きいということや。
ライダー選定、ピットワークも含めて来年に向けてもう一度やり直しやな。
フェーン現象でクソ暑く外に出る気が起きなかったのでむしろじっくり見ることが出来ました。ぶっ通しで見たの何年振りだろう。
カワサキは優勝一回だけだったような気がするんで、今回のカワサキは惜しかったですね。
ピエール北川さんじゃなかったのが、例年と違うところかな
最初実況が時々トチッたところで笑っているのに「何笑てんねん!」とイラッとしましたがポイントポイントできっちり盛り上げていくところに引き込まれていきました。
時おり実況ではない自分の言葉で話しているのも面白かったしそれは観客の心の内の代弁でもあるんですね。
最後の方で願望を絶叫したところは大爆笑しましたがw
他のスポーツとは違った感覚。
高校時代に流行ったバイク漫画『バリバリ伝説』を思い出しましたね。
ジョナサンは最初ラインをふさがれてのあの走り…まるでGUNBOY。
来年は初めから見よう。
言い出したらきりがないのでしょうけど。。。
「当たると痛えぞ!」ってセリフが好きでした。
一度ケンカになりそうになったときそのセリフを言ってみたら「湘爆かよ!」ってツッコミが入ってケンカに発展しませんでしたw
「待ってたぜぇ、この瞬間をよ!」はたまに使ってます。
そうですね。1985年のヤマハファクトリー参戦の平・ケニーのゼッケン21から、90年代後半までと2015年に19年ぶりにファクトリー参戦した際に再びゼッケン21を使っていますね。
自分が夢中だった時は、エディローソン, ウェインレイニー, ワインガードナー, ケビンシュワンツ, ケニーロバーツ, フレディスペンサーなどが居ましたね。
私も高校時代にバリ伝が流行り、折しも世の中は空前のバイクブームで、高校卒業と同時に中免(今の普通二輪)を取って4スト250レーサーレプリカをローンで購入しました、(^ω^)
あとジュースの缶を潰して膝に着けてコーナー攻めたり。
わたしは身体能力や運動神経に自信がなかったのでやりませんでしたが同級生たちは皆やってましたね。
そんな時代でした。高校卒業後車の免許より自動二輪を先にとって、フルローンでバイク買って秀吉よろしく裏六甲を攻めてました。中山サーキットでテクニカルスポーツの走行会に参加したこともあります。当時カブトムシのマークだったような。
今考えるとずいぶん無茶をしたなと思います。
もう一度また乗りたいと思うことがあります。普通二輪なので、大型とってCBR600RRでゆったり?!走りたい。
ヤマハが21番だったから資生堂がTECH21というブランドを考案したのか、21番とTECH21はたまたまそうなっただけの関係なのか。いずれにしても資生堂という「化粧品メーカー」が、というのは斬新でしたし、CMにも平忠彦が出てましたね。レースクイーンという概念を定着させたのも資生堂だったと思います。
一方でTECH21というブランドは定着することなく終売してしまっていますね。今はUNO(ウーノ)がその立ち位置にあるのかな?MG5のようにおっさんブランドとしても生き残れなかったのは残念。
前年はまだヤマハは準ワークスという感じでしたが、♯21ではありませんでしたから。
https://race.yamaha-motor.co.jp/sp/2012-8hours/column/2598.html
11がカワサキで12がヨシムラだから10番台まではワークスや準ワークス、強いチームのイメージがあるが、そもそも8耐の20番以降は割と自由に振られている印象。申請でどうにでもなる世界だしな、ムサシの634とか。
ということは、TECH21無き今、21の意味はほとんど無いに等しいわけですね。そもそもTECH21とは21世紀の何か、的な意味合いがあったかどうか。ブランド廃盤の今となってはわからない。
いずれにしてもこう暑くちゃメットも被ってられませんなぁ(と、今はおとなしくピンクナンバーに乗る日曜限定おっさんライダーは思う)。
私は最初は西六甲で、箕谷~淡河間のR428を毎週日曜の朝に走ってました(^ω^)
所謂、「走り屋」、「ローリング族」、「峠族」でした(恥ずかしい💦)
西六甲私も走ってました。狭い道と路肩の砂でいまいち攻めきれませんでしたけど。日曜早朝に植物園前で何十台と集まっているあの雰囲気とそこから走りはじめの上り坂全開走行の音を聞いてるのが好きでした。
当時CBR400Fが出たところで、バルブタイミングが切り替わると排気音が高くなるんです。そんなのを聞きながらまったりしていました(裏六甲派なのでw)
まわり見渡してみても裏六甲、西六甲、表六甲、船坂、宝殿、芦有とメインにしているところが人それぞれで面白かったです。
船坂乗り込んで蹴散らしたろと思ったら思いの外高速コーナー多くて、めっちゃビビって帰ってきた思い出があります。
楽しかったな…
>ninnin80sさん、
少し先輩ですね(^ω^)
私は高校卒業の87年にGSX-R250が発売され、2万回転のタコメーターとワークスカラーに惚れて、買いました。
裏六甲は余り走ったことが無く、西六甲も最初だけで、高速コーナーの多いR428がメインとなって行きました(^ω^)
まあ、GSX-R250は二年ほどで全損してしまい、次に乗ったFZR250(2KR)で革ツナギを着て走っていた方が長いですが…💦
モリワキカラーに全塗装して、モリワキエミューマーク2を付けて走っていました。
峠に響く集合サウンドがたまりませんでした(^ω^)