板東俘虜収容所跡 続編
1914年6月
オーストリアの皇太子がサラエボで暗殺された事件を契機として第1次世界大戦が始まった。
主戦場はヨーロッパであったが中国の青島(チンタオ)に駐留していたドイツ軍を(イギリスと同盟を結んでいた)日本軍が攻めて勝利した。
その時の捕虜4700名は日本の12か所の施設に分散して収容されたが戦争が長引く様相を呈してきたので新たに6ヶ所の収容所を建てて統合することとなった。
1917年4月徳島、松山、丸亀の捕虜は徳島市の大麻町に開設された板東俘虜収容所に送られた。
後に久留米からの捕虜も移送され約1,000名の捕虜が1920年3月まで過ごした。
日清日露の戦争に勝利した日本は一等国への地歩を固めつつあったので捕虜の扱いもハーグ条約に則て「戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にすべき」との方針を採ったが細部の判断は各施設長の裁量に任せられた。
板東俘虜収容所の所長松江豊寿の管理方針は捕虜という限られた状況の中で可能な限り多くの自由を与えるということであった。
松江所長は会津出身で戊辰戦争時の負傷者や敗残兵への対応の過酷さを知っていたので捕虜の人権を尊重し寛容な態度で臨んだものと思われる。
又捕虜といっても手当は払われた。
額については拘束国は捕虜に対し軍隊内の階級に応じた「手当」や労働に対する「賃金」を支払うとなっていた。
具体的に言うと
陸軍の場合は大佐240円、中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円(食費を含む)であった。
下士以下は日給40銭(食事は現物支給)
他にコーヒーとか煙草の嗜好品は適宜現物支給された。
労役に就いた場合別途賃金が出た。
労役といっても日本人への技術指導が主で土木工事とかの肉体労働は少なかった。
これにはドイツの優れた技術を取り入れようとする政府の思惑もあった。
ドイツ人から技能を学んだ者には修業証書が授与されることもあった。
所内だけで通用する紙幣(上図)切手(下図)も発行されていた。
左、第1号新聞ガリ版単色刷り 右、最終号ガリ版多色刷り
新聞の発行、コンサートのプログラム、カレンダー、絵葉書等の印刷もあった。
ガリ版と石版による印刷であったが多色刷りも出来た。
捕虜の義務は朝夕の点呼だけで後は自由に過ごしていた。
そのためパン屋、洗濯屋、シャワー室、仕立て屋、靴屋等の店を開く者もいた。
又、サークル活動も盛んであった。
最も多かったのが音楽関係でオーケストラ、ブラスバンド、マンドリンクラブ、合唱団があった。
スポーツ関係ではレスリングが最も多くサッカー、テニス、器械体操、ボーリングと続く。
他に演劇、美術、工芸、写真、園芸等のサークルもあった。
これらは収容所を出て地元民に披露することもあり地元民との交流も盛んに行われた。
戦争が終わり板東俘虜収容所は閉鎖され陸軍の演習所として利用され戦後は戦地からの引き揚げ者用の住宅として利用された。
その後存在は忘れられていたがドイツ軍の慰霊碑が見つかり地元民が清掃や献花をして慰霊碑を守る活動を始めた。
このことが新聞に載りドイツの駐日大使がドイツ本国に伝え1962年に元捕虜と板東の住民の交流が再開された。
ドイツの元捕虜から提供された資料を展示保管するため1972年に「鳴門市ドイツ館」が開設された。
当館は1993年に新設され現在に至っている。
館内は撮影禁止であり展示品の説明とか必死になって記憶しようと試みたが無駄な努力であった。
帰宅後収蔵品はオンラインで閲覧できることが分かった。
2007年から鳴門市教育委員会により発掘調査が行われ遺構の状態が良いことが判明した。
捕虜の文化的活動を物語る資料が多い。
第一次世界大戦に関する遺跡として希少性がある。
交戦国間における文化交流を象徴する遺跡である。
これらの理由で板東俘虜収容所跡は2018年に「国指定遺跡」に指定された。
しつこくもう一回レポートしようかと考えている。







映画は音楽の印象が強かったですが、松江所長さんが人権に配慮する人だったんですね。
教えてくださり、ありがとうございました。
この時の捕虜だった菓子職人カール・ユーハイムが洋菓子メーカーのユーハイムの創業者。
今回映画のことをWikipediaで調べていて、知りました。
>> くろりんm@⭐️✨ さん
音楽は収容所での最大の娯楽だったようです。当時の演奏会のプログラムを見てクラシック音楽で一編のレポートを纏められると思い今回は音楽の事には敢えて触れませんでした。
収容所が閉鎖され帰国が可能になっても日本に残った人が 60人以上いて多くはパン、ハムソーセージ、バターチーズ、菓子等の製造会社に勤めたり起業したりしたようです。