【掌編三昧】マイヤックの夏
「 1 ]
2008年夏、近代的ビジネス街として開発されたデファンスの外れにある僕のアパルトマンの入り口ドアに軽やかなノックの音が響いた。キャトロズ・ジュイエ(パリ祭)の当日、遅めの朝食をコンチネンタルなバゲットとカフェオレですませたばかりの時だった。
シャンゼリゼなどは人混みと喧騒の中に包まれているに違いなかったが、エトワール広場からは五キロほど離れたここは普段と変わらない週末の静寂を保ってくれている。催促するようにドア・チャイムの音も聞こえた。
誰だろう……思いつくあてもないままTVドアフォンを覗くと、踵を上げて背伸びしながら踊り場から階下を覗き込むように見下ろしている、見覚えのあるロングヘアーの姿があった。
一週間ほど前に初めてデファンスの勤め先の研究所オフィスで紹介された、あのスウェーデン娘だということは直ぐにピンときた。
「来ちゃった……」 ドアを開けると、まったく化粧っ気の感じられないプレーンな素顔の口元に一瞬小さな笑みが過った。
「こんど配属されたDr.マイヤック・ルーヴェンハイマーを紹介します。彼女が中性子の隔壁通過速度論の研究で有名なのは皆さん知ってると思いますが……」
所属する研究所の所長の言葉に、居合わせた仲間がどう感じたか知らないが、まさか、世界に名を馳せている第一線のあの学者が、こんな学生のような感じの面影を残している女性だったとは、その時は夢にも思っていなかった…。
「おはよう、カフェ行かない?」 この時まで会話を交わしたのはオフィス全員の前で紹介された時と、一昨日の昼、カフェテリアで偶然レジの列に並び合わせたのを切っ掛けに、一緒に昼食を摂った時の二度だけだった。
何処かに共通点があるのか無いのか、お互いに言葉少ないままお世辞にも流暢ではないフランス語で自己紹介しあった。
どうしてここが分ったのだろう。おそらく総務部にある所員名簿の中から見つけたのだろう、それくらいのことしか思いつかなかった。疑問は残ったがそれを聞こうとは思わなかった。
「ちょうどよかった。今日は部屋の掃除日じゃないし……」 僕の冗談に、彼女の少し緊張気味の顔が一気に緩んだ。北欧人特有の真っ白な肌に、まだニキビの跡らしきものがうっすら残っている。目尻の少し下がった目にライトグリーンの瞳、アイボリーなサマーセーターにジーンズという姿はどう見ても著名なドクターだなんて微塵にも感じさせなかった。
階下に降りて通りに出ると、暇そうな店を見つけ、そこの大きな木陰になっているテラス席に座った。
「まだ友達いないんだ……」 彼女はポツリと言った。
デファンスの研究所では、僕は12階で彼女は19階にオフィスがあった。この広い研究所の中では異なるプロジェクトを担当していれば、その気になって約束などしない限り偶然にしても逢うことなど皆無に近い。偶然があるとすれば昼食の時のカフェテリアくらいなものだった。
あの日、彼女の突然の訪問以降、一、二度遠くに見かけることはあったものの、逢うこともなく一ヶ月ほどが過ぎ、僕は急な配属転換で南仏のトゥールーズの研究所に移ったこともあって、もう彼女と会うこともないと思っていた。
「 2 ]
翌年の夏、ヴァカンスに入ろうという直前の出来事だった。思えば一年前に逢ったときからその時まで、何か事ある毎に思い出してはいたが連絡を取ることも無かった。
「元気だった? 今度の週末、あいてる?」
ふと取り上げたオフィスの受話器からマイヤックの懐かしい声が聞こえてきた。三週間ほど前、彼女がこのトゥールーズの研究所に転勤して来るというようなことを風の噂に聞いていた。一年振りの再開ということもあって僕の心も弾んだ。しかし、ヴァカンスが近づくと、周囲の浮いた雰囲気に紛れていつの間にか忘れてしまっていたことだった。
約束した日は、朝から一日何をするでもなくブラブラと二人で彼女には初めての街中を散策して時間を潰した。着いたばかりの南仏十八世紀の歴史の匂いのするトゥールーズの街はパリ郊外の近代的なデファンスの街並みとは違って興味深い対象だったようだ。
しかし一年前と比べて幾分顔色が悪くなっているように見えた。
「元気にしてる…?」
「騒がしいのはイヤ、でも寂しいのはもっと嫌い……」
ダウンタウンのパブに落ち着いた席をみつけてから、彼女は、デファンスからここに回った理由を夜遅くなるまで話し続けた。物静かで口数も少なく、大勢の騒ぎに溶け込むことが苦手という性格は、社交的なパリの生活に溶け込むのはストレスだったらしい。 結局その夜、彼女は自分の部屋には帰らなかった。
翌日、彼女は朝早くから独り起き出して、下着のまま、何もない冷蔵庫に辛うじて残っていた、卵とハムで簡単な朝食を作ってくれた。
「ねぇ、海に行かない?」
「これから? 水着もってきた?」
「途中で買って行けばいいわ」
その短い会話で、その日の予定は埋まった。
コレイユと名づけられた急行列車で一時間程かけて地中海のナルボンヌ・プラージに着いた。
日本で見かける海の家など一つもない浜辺はバカンス・シーズンと言っても閑散としている。水着に着替えようにも、持って来たのはバスケットに詰めたチョッと大きめなバスタオル一枚だけだった。それを彼女に手渡そうとすると、彼女は首を横に振りながらニコッと笑った。
「私要らない、あなた、これ使って……」
そう言って僕にバスタオルを投げ返した。怪訝な顔をする僕を横目に、
「でも、そこに立っててね……」と、暫く離れた浜辺の通り側に僕を立たせて、照れる素振りも見せずにアッサリと水着に着替え始めた。宙を舞う僕の視線など全く気にする様子もない。
そのときから夕暮れまでの間は、バスタオル一枚、パラソル一本、エビアン4本と、クロネンブールのビール1ダース、それに途中のパティスリで買い込んだバゲットのSW・オー・レギューム。そして、ジブラルタル海峡から流れ込んでくる海水、僕にとっては信じられらいくらい冷たくても、彼女にとっては充分に暖かい海水のようで、思う存分戯れた。
一ヵ月後、長期ヴァカンスから戻った多くの仲間がオフィスに顔をそろえ始める頃、マイヤックが僕のオフィスに顔を出した。
「週末、ドライブに付き合ってくれる?……」
行き先の予定など打ち合わせもしてなかったが、約束どおりの時刻に、彼女は実家から持ってきているボルボをアパルトマンの前に停めた。何処に行くのか尋ねてみたが、笑っているだけで教えてはくれなかった。郊外に出るとビックリするほどにスピードを上げる。サスペンションの硬さが気になったが、車内に流れるミレイユ・マチゥの"追憶"という古い曲に気を奪われた。
二時間ほど走ってやっとピレネー山脈の麓の目的地に着くと、白い歯を見せながら彼女は子供っぽい笑顔を見せた。
「見せたいものがあるの」
そこには一面見渡す限り続く ひまわり畑があった。
「気に入った?」
黙って彼女の目の中を覗き込む僕に向かって
「静かでしょうー、ここって空気がきれいだから好き……三度目なの」
マイヤックは全部を言い終わらないうちに、早くも畑に続く斜面を駆け上がっていった。
「ここから見る方がもっと素敵よ……」
高台から見下ろすと、どこまでもどこまでも続く黄色い花の大群生と濃い緑の葉のコントラストが眩しかった。
「写真撮ろうよ」
彼女は小さな赤いショルダーバッグから小型のカメラを取り出して、僕に立つ位置を指示した。傍に生えている木の股にカメラを据え付け、タイマーをセットすると急いで走ってこっちへ戻ってきた。一枚目は目を瞑ってしまったと口を膨らませ、二枚目は戻る時に慌てて尻餅をついた。三枚目でやっとのことで満足した写真がとれたと言って、二人して大笑いしたことが鮮明な記憶に残っている。
サマータイムが終わる頃になって、そういえばカフェテリアでもマイヤックの姿を見かけなくなったことに気付いた。どうしているのだろう。きっと担当している研究が佳境にでも入って忙しくしているのだろうか。
そう思っていた矢先、オフィスの僕の机上にエアメールが届いた。マイヤックからだ。あの夏の ひまわりの大輪と二人一緒に写った写真が同封されていて、「楽しかった私たちの時間…ありがとう」とフランス語で書かれた綺麗な文字の一言が添えられていた。ああ、やっぱり…。
自分には近代的な都会のデファンスは似合わない…と会うたびに少ない言葉の中にも口癖のように言っていたことを思い出した。 あとでマイヤックの同僚から聞いた話によれば、ストックホルム大学の高等大学院に戻って研究を続けながら、学生の指導に当たることを選んだのだとという。
短い夏が過ぎ、一枚の写真を残して、故郷のストックホルムに帰っていった物静かなマイヤックの透き通るような白い肌、そして夏の陽光を目いっぱい吸収して斜面に咲き誇った ひまわりの畑。あっと言う間に通り過ぎた出来事だったはずなのに、その夏の光景は、忘れることのない瞬間として僕の心の奥深いところにシッカリと焼き付いたまま今も生き生きと残っている。
< 了 >


