【掌編三昧】Mの見ていた菜の花
「もうちょっと真面目に描きなさい……!」
僕の座っていた場所から少し離れたところで担任の松岡先生の怒鳴り声が聞こえた。咄嗟に僕は "またか…" と思った。
小学校三年の時のことだ。
いつも春になると図画の時間には恒例のように街中を流れる渡良瀬川の堤防沿いに写生に出かけた。 春の堤防沿いは陽を浴びた若草の匂いと、一面を埋め尽くす菜の花で何とも華やいだ雰囲気に溢れている。遥か頭上には微かに聴こえる見えないヒバリの透き通った声だけが響き渡っている。
「そんなはずないだろう? よく見なさい」
こんどは先ほどの自分の大声を反省したのか、こころもち冷静さを取り戻した松岡先生の言葉が響いた。 すでに状況を察知してか、いたずらな連中がわれ先とMの周囲に集まってきている。
「こんなにいい天気なのに、そんな空はないぞ」
「……」
「菜の花だってあんなに綺麗じゃないか」
Mの画用紙には薄暗い空の下にくすんだオレンジ色の菜の花がびっしり描かれていた。
「菜の花は夜だって咲いてるよ。僕の部屋から見える菜の花は、夜にはオレンジ色になるんだ」
松岡先生の最後の言葉を聞いて、それまで黙っていたMがボソッと反論した。
「そんなことある訳ないじゃないか、他のみんなの描いてるのも少しは見てごらん……」
それがいつも繰り返される担任の締めくくりの言葉だということを、そこにいた誰もが知っていた。
松岡先生が呆れ顔で立ち去ると、Mは画板に留めていた描きかけの画用紙を何も言わずにビリビリに破り捨てた。
Mはそれから写生時間が終わるまで何もせずにずっと周囲の景色をボンヤリ眺めていた。ぴたりと絵筆を止めたまま、描き直すことはしなかった。
近所に住んでいたこともあって、僕は何故か気が合うMと放課後よく一緒に遊んだ仲間だった。
あの日から数日経ってMの家に行ってみると、Mの二階にある部屋の壁には、見たことのない他の沢山のスケッチと一緒に、意外にもあの時破り捨てられたのと同じ風景の絵がきちんと張ってあった。あの時と違っているのは画用紙の右上隅に明るく蒼白く輝く月が描き加えられていたのと、中心の菜の花が鮮やかなオレンジ色に浮き上がるように塗られていたことだった。
「あの時の絵と同じだね」
「うん、帰ってきてからもう一度描いたんだ」
「色、変えてないよね」
「夜はこの色で咲いてるんだ、夜の十二時過ぎた頃に見てみたら分るから……好きなんだ、あの菜の花」
そう言って窓際に僕を連れて行き、そこから見える裏の畑に咲いている、僕には黄色にみえる一面の菜の花を指差してみせた。夜の十二時過ぎまで起きていることなどなかったから、Mの言っていることが本当なのか嘘なのか僕には分らなかった。
しかし完成されたMの菜の花は、描き加えられた月影のもとで、昼間と違って、静かな春の夜の匂いを一杯に含んだ生気溢れる温かさを感じさせてくれた。
「これ、いいよな」
「そう?」
「おまえの絵ってさ、何か、いいよな」
「うん」
それからしばらくして、Mは父親の転勤でどこかへ転校してしまったが、僕は今も毎年春になって菜の花を見かけるたびに、真夜中のオレンジ色の菜の花を描いて見せてくれたMのことを思い出す。
<了>


