【掌編三昧】アールグレーな朝
朝日を浴びながら気持ちよく起きて今日はこれから何をしようかと考える。ここに越してきてから三日目だというのに、荷物はまだひとつも解いてはいない。普段なら落ち着かないはずのこんな雑然とした中なのに今の開放感はなんだろう。
得ることばかりに気が向いて、失うことに気づかなかったあの頃の強気な自分の顔が浮かぶ。もうどうなってもいい、すべてを失っても構わないと思うようになってから、皮肉にも私は大切なものの意味が少しずつ分かってきたような気がした。今日はちょうど六回目の結婚記念日になるはずだった。
何にしようかな……今からつくる朝食は私一人のためだけなのだと思うと何故かホッとする。作ったものを喜んでくれる楽しみなんて長く続かないこと、知らなかった。スクランブルエッグはいらない、サラダがあればそれでいい。そのあとの空白の時間なんて誰のものでもない、私だけのもの。鏡を見なくたってわかってる。鏡に映せば私の顔には微笑が溢れてるにきまってるんだから。目尻に少し小皺は増えたかな。
夕べは深夜過ぎに、新しく契約したばかりのケイタイに友人から電話が入った。番号を変えてからまだ間もない。どうしようか迷っていて誰にも知らせてはいなかったのに、万が一のためにと実家の母だけには知らせておいたものだ。それが糸口になった。本当に一人きりになりたいなら母親にすら電話番号なんか教えてはいけないんだと改めて思った。
以前ならとっくに寝ている時間帯なのに夕べは結局二時間以上も他愛ないおしゃべりをして過ごしてしまった。友人の甲高い声があれこれ話題を変えていくので飽きなかった。
こんなことしてていいの……? なんとかここまで着いて来た三日前までの私の心が上目遣いに眉をひそめる。部屋の隅っこで小さくなりながらも膝を抱えて小声で呟いた。
当たり前だよ……もう誰にも遠慮なんていらないんだから。今日の私が眠い目をこすりながらも胸を張る。
お互いに楽しまなくちゃね……夕べ 長いケイタイの切れる前、バツイチ二年目の彼女の言葉が胸に響いた。
今日からまた一人歩きに慣れなくちゃいけない。まずはダンボール箱の隅っこからから取り出したマグカップにお気に入りの紅茶を満たすことから始めよう。
< 了 >


