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食い違う?

家内は「人はみんな生かされてるんだ。」という言葉に漬かってる。
私は「人はみんな生きてるんだ。その上でどう人と関わるかだ。」

家内曰く「言い方が違うだけで言ってることは同じだ。」
私:「いいや違う。原点が違う。自分の脚で立たないともたれ合う関係になる。」

ここで話は終わった。


私は少数派の方々を切り捨てる考えではありません。
弱っている人も「生きてる」。
必要なら手を差しのべるべきだ。

人と関われない人もいる。
自分はどうなりたいですか?
関わりたいと思うなら関わる方向に。
関わりたくないならそれでもいいと思う。
自分なりの選択肢だと思うし、途中で方向転換しても良い。

関わりたい人は、まず関われる人探しなんてどうでしょう?
関わりたくない人は、長期間誰とも関わらない場合は本当に孤立することもある。
何らかのチャンネルは生かしておいた方が良いと思う。

どちらなのか分からない人は、とりあえず「関わる方」を試してみてはいかがだろう。


そしていつか自分の脚で立つ日を目指そう。
自分の脚で立ったらサヨナラではない。
その先もどう関わるかだ。


「生かされている」という言葉はこれに当てはまらない。
哲学問答をするつもりもない。
ずっと「生かされている」と思っていて、その人がいなくなった時どうするのだ?


この強さは護るためにある。


4 件のコメント
1 - 4 / 4
奥様に座布団1枚です。「人はみんな生かされているんだ」とはおそらく自分の意志とは無関係に、周囲の環境、人々、自然の摂理(空気、太陽など)によって命が支えられているという気づきや、その事実に感謝する心の持ちようを指します。独りよがりではなく、目に見えない大きな力や繋がりの中で生かされていると認識し、謙虚に精進する生き方を意味していると捉えるのが無難だと思います。
いや人生観=哲学の話を延々と…

相手と話さないだけの独白は、自分の方が正しいと共感を得たいのか?

聴くに堪えない内容でもないし勿論、人生観なんて人それぞれで正解は無い。
こんにちは😄

言外の意味を汲み取る必要があるのでしょうね。
わたしはストレートに言って欲しい派です。
人に生かされているなら、死んだら人に殺されたのだから。警察を呼んで。これは殺人事件だ!
「神は死んだ」
なぜニーチェはこのような言葉を残したのだろう。

「生かされている」
一体誰に?

中世の欧州ではキリスト教によって思想が固定化されていた。
宗教により形作られた世界の中で、安穏と暮らすことが幸せだと信じられていた。
「生かされている」ことが幸せだと。

しかしそこに意識はあるのか?
意識を持つことを放棄した生き方。
スレ主の言う「生かされている」というのはそういうことではないか?

時代を現代に置き換えてみよう。
宗教ではなく情報というものによって形作られた世界の中で、安穏と暮らすことが幸せ?
悪意を隠したさまざまな媒体が垂れ流す情報の洪水の中で「これが幸せ」だと思わされているだけのことではないのか。

そういう意味では中世も現代も同じように「意識のない人々」で溢れているのかも。

(形而上の)「神」という存在によって「生かされている」と捉えるのではなく、自分自身の「意識」というものに気づくべきだ。
そしてその「意識」を指針として生きるべきだ。
ニーチェの言葉にはそのような意味が含まれていたのではないかと考えている。

スレ主の言う「人はみんな生きてるんだ」は、現代社会における「意識のない」生き方に対する警鐘ではないだろうか。

そのためにまず一歩を踏み出そう。
それが「人との関わり」ということなのだろう。
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