葵祭(加茂祭り)斎院の足跡を辿る
①上賀茂神社
②下鴨神社
③雲林院
④加茂社斎院跡(現櫟谷七野神社)
⑤知足院(現常徳寺)
⑥一条大宮
⑦内裏(大極殿跡)
⑧京都御所
5月15日は葵祭の日であった。
初めて観てから半世紀以上経つが延喜式の有職故実に則った祭りの祖ともいうべきもので参列者の衣服持ち物牛馬に至るまで役割と意味があり単なる観光客向けではない格別な祭りとの認識は今も変わらない。
今年は祭り前日にホテルが取れたので平安時代の葵祭り(特に斎院について)に関係する場所を巡り往時の祭りに思いを馳せることができた。
京阪電車の出町柳駅を起点に⑦内裏(大極殿跡)までの約20000歩の強行軍であった(②下鴨神社~①上賀茂神社のみバス利用)。
①上賀茂神社
②下鴨神社
③雲林院
皇室の離宮として造営されたが9世紀後半ば遍照によって寺となった。
今は大徳寺の一塔頭となり存在感は薄い。
④加茂社斎院跡(現櫟谷七野神社)
加茂斎院の跡地。
紫野の地にあったので紫野斎院とも呼ばれていた。
⑤知足院(現常徳寺)
知足院の名は今は常徳寺の山号に名前を留めている。
ここは源義経生まれた場所でもあり最近のものと思われる可愛い石像も立っていた。
町名も牛若町である。
⑥一条大宮
左右に走る通りが一条通
縦に走るのが大宮通、一条通を境に道幅が3倍程違う。
⑦内裏(大極殿跡)
平安時代の内裏は町屋に埋没していてあちこちに石碑が建っているだけである。
⑧京都御所(ここだけ葵祭り当日に撮影、他は前日14日の撮影)
建礼門近くの築地塀
駒女が出発に備え待機している。
古来伊勢神宮の祭祀を主催する斎宮制度があったが平安遷都に伴い賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社を併せて加茂社と記す・以下同じ)にも斎宮を置き祭祀を主催することになった。
加茂社の場合役所(建物)名としては斎院、役職名としては斎院とか斎王と呼んでいた。
斎院は基本的には天皇の代替わりの際内親王や皇族の未婚の女王から占いによって選ばれた。
新斎院は2年間内裏にある初斎院で潔斎し3年目の4月葵祭の前儀である「初斎院御禊」で鴨川で禊を行いその後初めて斎院に入った。
この時は新斎院のお披露目であるので例年より華やかな行列になった。
この時のコースは冒頭の地図の
⑦内裏内の初斎院
を出発して
⑥一条大宮を東行し鴨川の本流の一条大路から二条大路の間の占いで決まった場所で禊をして帰路は往路を逆行し
⑥一条大宮を右折して
④紫野斎院(現櫟谷七野神社)へ向かい
ここで初めて斎院に入ることになる。
翌年からは通常の「尋常四月御禊」となり
④紫野斎院発着となる。
※現在斎院制度はないのでこの儀式はないが一般の未婚女性を斎王代として選んで5月4日に加茂社内の小川で「斎王代御禊の儀」として執り行っている。
葵祭のメインの行事である路頭の儀は旧暦4月の酉の日に行われた。
現在は5月15日に催行され蔡列の出発地は現在の
⑧京都御所建礼門前であるがこの御所は14世紀半ばに建てられたものであるから平安時代には存在していない。
平安時代の路頭の儀は
斎院の行列は
④紫野斎院(現櫟谷七野神社)を南下し
勅使の行列は
⑦内裏(大極殿跡)を出て内裏の北辺の
⑥一条大宮で合流し
②下鴨神社
①上賀茂神社
と進み各社で勅使が御祭文を奏上し御幣物を奉納し御馬の牽き回しや舞人による舞が奉納される社頭の儀が執り行われた。
現在の葵祭はここで終わりであるが平安時代は、斎院は路頭の儀の夜上賀茂神社の神館に泊まり翌日紫野斎院へ帰って行った。
この時の祭列を還立の儀というが一般的には「祭りの帰さ」と呼んでいた。
要するに「家(斎院)に帰るまでが祭りですよ」という訳である。
清少納言はこの祭列が好きだったようで「祭りのかへさいとをかし」と『枕草子』に記している。
そしてその祭列を観るには雨林院や知足院付近が良いとも記しているので「祭りのかへさ」のコースも推定できる。
冒頭の地図でいえば
①上賀茂神社
⑤千石院(現常徳寺)
③雲林院
④紫野斎院(現櫟谷七野神社)
の順になり上賀茂神社から大宮通の一筋西側の大徳寺通を南下しているのが分かる。
下記の2編は特に参考になった。
賀茂斎院原文資料
http://kamosaiin.net/aoi-genbun.html#engisiki
賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論
http://kamosaiin.net/report/genji-tosidate-2b.html











「新斎院御禊の日」が舞台である。
桐壺帝が譲位して朱雀帝に代替わりした。
賀茂の新斎院には桐壺帝の妹である女三宮がなった。
4月になり加茂の祭りの前儀である「新斎院御禊」が執り行われることとなった。
新しい斎院のお披露目でもあるのでいつもより華やかにと例年なら参加しない勅使も参加することになりその人選も容姿端麗を重視したので光源氏も勅使の一人として選ばれた。
祭りの日は光源氏を一目見ようと混雑を極めた。
光源氏の恋人の六条御息所も最近間遠くなっているのでお忍びで網代車に乗って出かけた。
光源氏の正妻である葵上は懐妊中であったため行く予定はなかったが侍女達が行きたいとせがむので遅ればせながら出かけた。
葵上が見物場所に着くと人や車も一杯であったが左大臣の娘であることを嵩に着て強引に割り込んでいった。
近くの車に六条御息所が乗っていることが分かると光源氏を頼みの綱としようとしているようだがこちらは正妻である早く場所を開けろと車を壊し奥に追いやった。
その内祭列が来て光源氏は葵上の車には目をやったが六条御息所の車には気付かずに通り過ぎて行った。
御息所は身分がばれたことや車を壊されたことにショックを受け葵上を恨むようになり生霊となって葵上に取り付き葵上は出産後亡くなってしまった。
以上は勿論創作であるが加茂の祭りの当日に車争いは実際にあった。
長徳3年(997年)
藤原道長の屋敷から公任と斉信は同じ牛車に乗って帰る
途中花山法皇の屋敷から出てきた使用人に襲われるという事件があった。
当然問題になり道長や検非違使が事件の解決にあたった。
この時の検非違使のNo3が橘則光であり清少納言の最初の夫でもあった。
又、道長が紫式部に言い寄ったとか宮中は意外と狭い範囲で輻輳していたようである。
この事件は紫式部が『源氏物語』を執筆する数年前の出来事であるので「車争い」の場面の執筆の際この事件が念頭にあったことは容易に想像できる。
紫式部は「新斎院御禊の日」を舞台として光源氏を勅使として登場させその見物に源氏を巡る葵上と六条御息所という確執のある二人を行かせちょっと前に起きた車争いという形で二人の関係を具象化するという手法は見事と言うほかない。