2025.4.20(日)■広島平和記念資料館 原爆ドーム
広島平和記念資料館
https://hpmmuseum.jp/
この日は、雨でした。
外国人観光客がほとんどでした。
ここでは、たまたまなのか不思議と「中国語」「韓国語」は聴こえてきませんでした。
「英語圏」と「東南アジア」の言葉しか入っていませんでした。
特攻に駆り立てた「一撃講和論」 採用された背景にあったものとは
https://gendai.media/articles/-/69806?imp=0
原爆ドーム
https://dive-hiroshima.com/feature/world-heritage-dome/
平成8年(1996年)12月、原爆ドームは、「人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝え、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑」として、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
平和の灯
https://peace-tourism.com/spot/entry-47.html
公益財団法人 長崎平和推進協会のチャンネル
7 件のコメント
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https://king.mineo.jp/upimages/view/content_section_image/333589/fullsize
このときも、欧米人がカナリ多かったですね。
しかしながら、このときの写真はiPhone 8 Plusの突然死によりほとんど消えてしまいましたが。
https://gendai.media/articles/-/66484?page=8
https://peace-tourism.com/story/a-bombdome.html
元々の名称が何だかと思い出したいときがある。
物産陳列館は、
1921年(大正10年)に広島県立商品陳列所に名前を変え、
同年4月に第4回全国菓子飴大品評会(現在の全国菓子大博覧会)の会場となりました。
さらに1933年(昭和8年)からは広島県産業奨励館と名前を変え、昭和初期に、館の活動は最盛期を迎えました。
1915年に「広島県物産陳列館」として開場、
1921年に「広島県商品陳列所」に改称、
1933年に産業奨励館に改称した。
バウムクーヘンの「聖地」似島
瀬戸内に浮かぶ小さな島、似島。さかのぼること百余年、似島には第一次大戦下で捕虜となっていた多くのドイツ人が暮らしていました。
その中にいたのが「バウムクーヘンの祖」と呼ばれるカール・ユーハイム氏。彼が似島での抑留中に他の捕虜に振る舞うために焼いたのがバウムクーヘンの発祥と言われています。
その後バウムクーヘンは広島県物産陳列館(のちの産業奨励館、現在の原爆ドーム)での催事に出展されたことから人気に火が付き、全国へと広がっていきました。
https://sisiyo.sakuraweb.com/4_walk/4003/4003_01.cgi?a=01
>> YASUHID さん
ありがとうございます_(._.)_>> 1953生まれ さん
シベリアに抑留した父親(昭和25年に、最後の船で日本(舞鶴港)に帰って来た)と、女学校で竹槍訓練や千人針を嫌というほどさせられた言っていた母に育てられました。「戦争中は食うものもなかった。」等→戦争を知らない私達に、「贅沢を言うな!贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」と毎日五月蝿く戦中のスローガンを言われて育ちました(¯―¯٥)腹が立ちました。「戦争中は…」「甘いものなんてなかった」と毎日毎日何回も言うから。
両親の戦中・戦後の食い物の恨みは、相当だったです。