阪神・淡路大震災からきょうで23年
阪神・淡路大震災からきょうで23年 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180117/k10011291461000.html
私は当時、関東にいたので、あのニュースをテレビで知ったわけですが、あの映像がSFのように実感がわかず、それ故恐ろしかったのを思い出します。
湾岸戦争の映像もそんな感じだったな…。
25 件のコメント
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あとは、それぞれの心の中で…
おぼえています。
特に日本では災害が多いですから、助け合いの精神は、綺麗事でなく大事。いつ助けてもらう側になるかわかりませんから。熊本や中越のこともあります。東京だって。
あんな風になるって想像もしませんでしたから。
今のように皆が携帯を持っていなかったので、親戚などに安否確認は家電話のみ。直後は繋がったのですが、数時間して基地局(?)が不調で、あの日1日誰にも連絡できず。
休暇をとると言っていたのですが職場にも連絡できなかったですね。
そういえば、あのとき高速か電車の陸橋の橋脚が設計が杜撰で強度不足が指摘されていたような…。
(姉歯問題みたいなやつ)
🐰食いしん坊
とんでもないことが起きたことを今でも鮮明に覚えています。。御冥福をお祈りいたします。
友人を亡くしました。
永遠のベストフレンド
🐰食いしん坊
設計もそうですが、たしが材料にも問題があったのでは…?
各地点検して塩分を含む砂が使われていたのがわかったような…?
被災された方は大変な想いをされたと思います。
悲惨な経験から今があると思います。人命救助、被災後の生活支援、防災対策、いろんな技術が進みました。
自然災害なのでどうすることもできないこともありますが、色んな知恵を出し合って、命繋げられるといいですね。
防災の具体的な知恵は是非こちら👇を参考にしてください。
地震だけではないです。
https://king.mineo.jp/my/c92a0045e981d51d/reports/12205
阪神も東日本も真冬の大型地震でしたね。
夏ならまだしも、この時期に住処を失うのは本当に大変だとしか言いようがありません…
その後地震が収まり、通勤のために草津駅へ行きましたが電車🚃が走っていないと分かりました!
神戸方面での震災を知り、
テレビで各地の火災を見ていましたが大変な災害だと思いました。
救急の常備品は、
備えていますが、賞味期限切れでうまく更新ができません。
困ったもんですね!
拙宅も震災用品を準備していますが、東日本後に購入した食品類がちょうど期限切れになりつつあります。
食品類は夜食として消費していますが、そろそろ買い直そうと思っています。
生き残ったわれわれは震災後に生まれた世代に語り継いでいくことが必要でしょう。
みなさんには、ぜひともHAT神戸近くにある「人と防災未来センター」を訪問されることをおすすめします。
本日17日は入場無料です。
http://www.dri.ne.jp
職場の仲間の死 忘れません。
地下からの物凄い突き上げに、その瞬間の大きな揺れ。
忘れかけていたものが、蘇りました。
テレビをつけたら、信じられないような光景が目に飛び込んできて、それからは連日朝から晩まで地震の報道だったような気がします。
街は復興したけど、被害に遭われた方々の心の痛手はまだ癒されてないのでしょうね。
あらためてご冥福をお祈りいたします。
電車が暫く不通で2~3駅歩きましたが、以前の街並みが思い出せないほど無残な状況を目の当たりにして声も出なかったです。
ボランティア元年とも言われ色々な事が始まった年でもありますが、あまりにも代償が大きかった。
震災翌年の2月に、姫路に大学入試のために行きましたが、その時分でも屋根にブルーシートがかかっている光景を見て、痛ましい気持ちになりました。
また、1/3の初詣...ついでにオフ会の際に、某マイネ王ユーザーから阪神大震災当時の三宮の惨状を道中で拝聴しました。
今朝の産経新聞に掲載されていましたが、神戸市の職員のうち半数以上が「阪神大震災」後の入庁とありました。
これも時代の流れなのか...なんて思っていますが、決して忘れてはいけない事柄です。
阪神大震災で犠牲を被った方々に哀悼するとともに、ご冥福をお祈りいたしますm(_ _)m
神戸の中央市民病院に入院中でした。
9階の窓際のベッドだった私。ストッパーがかかったまま入り口までベッドが動き・・・
斜めに開く部屋の窓は鍵がかかったまま全て開き、病棟のスプリンクラーは回り続け、薬品も散乱し酷い状態でした。
中央市民病院は東西南北が見渡せる造りになっていて西の方を見ると長田の辺りが燃えているのが見え、いったい何がおこったのか理解できず。
犠牲になった方々の事を思うと今でも心が痛みます。
忘れてはいけませんね。
亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りします。
1月17日の朝は学生寮で寝てて地震で目を覚まし、時間を見て寝ようとしたけど妙に胸騒ぎがしてテレビを点けたらめざましテレビが始まってました
最初の数分間は普通に放送していたけど、そのうち震災の報道に切り替わって…
そのあと一週間は全て震災の報道だけでしたね
父親の実家が尼崎に有り、周辺に親戚が多数住んでいたので連絡が必要かな?と思いましたが四国の実家にさえ通話が出来ない状態で連絡が取れたのは夕方
父親の実家は半壊したけど全員無事という連絡が有り安心したのを覚えています。
ただ、実家はその時点で築70年の老朽化した建物だったので震災後に建て直したのですが、その後の災害対策の区画整理に引っ掛かって築3年程度で取り壊されました。
Googleマップで見たら今は交差点になってましたね
あれから様々な点で防災対応は進化しましたが、一番大事なのは、あの惨事を忘れない事、です。
災厄はいつかまたやってきます。
こういう機会を捉えてその時だけでも、小さくてもいいから、出来る事を積み重ねて備える事で、次の犠牲者が少しでも減ればいいと、そう願っています。
自分が助かって、家族が助かれば、誰かを助ける側にも回れます。
だから、何かあっても、まずは生き延びましょう。家族と共に助かりましょう。
少しだけ、備えを厚くしてみましょう。
忘れない事、思い出す事、そうしてそれに備える事。それが、犠牲になった方々への手向けだと、私はそう信じています。
この次は、誰かを助けられる自分で有りたい、そう思います。
ちょうどその2ヶ月後位に三宮へ行きましたが、駅前大通はそれなりに片付けてありましたけど、一歩裏に入ったらまだ手付かず。三宮まで向かう阪神国道の代行バス乗車中も途中区間でバス停車時に窓を開けて環境音を聞いたときの「人の生活音がしない」状況に背筋が震え上がりました。普段の生活と違う状況があれほど恐ろしいと思ったことは無かったですね。
しかも夜行高速バスで帰京したその日が地下鉄サリン事件。新宿へ戻ってきたので、朝ごはんでも食べてから自宅に帰るのが30分遅かったら確実に巻き込まれていました。(丸ノ内線を使うので)
改めて 1997年はえらい事件・災害が、と感じるものが多かった様に思い出しました。
建物の倒壊は免れました。
寝ていた布団の上にタンスが倒れて
きて何が起こったのか分かりませんでした。
姫路市に住んでいた弟に親戚の誰かに
全員無事だと伝えて、と電話した後
何処にも連絡出来なくなり、電気だけ通じていました。
食料の確保が出来ず大変でした。
被災してこれまでの便利な生活が有難いモノなんだと実感しました。
お亡くなりになった方々のご冥福を
お祈り申し上げます。