北極星の仰角
北海道に行った最終日の夕方札幌駅で2時間程の空き時間があった。
何をして時間を過ごそうかと思い地図を見ると駅の北方に略隣接するように北海道大学があった。
甥っ子が出た学校であるのでどんな雰囲気の場所であるか確かめたくて行ってみた。
構内に入ると直ぐにクラーク像の案内板があった。
それに従って行くと緑の木々の間を小川が流れる心の癒されるような場所がありその近くのようであったが小さな胸像があるだけで他には何も見当たらない。
よく見るとその像がクラーク像であった。
観光写真等で見るコートを着て片手を横方向に差し出している全身像を想像していたがそれは別の場所にあるらしい。
ちょっとがっかりしたが気を取り直して甥っ子が住んでいて刑務所みたいな所と言っていた恵迪(けいてき)寮に行くことにした。
林の中の道を1km程歩くと寮に着いた。
大きすぎて全体像は分からないが平面図を見ると中央に管理棟がありそこから6棟の寮舎が放射状に延びていて確かに刑務所のような建物の配置であった。(画像はGoogleマップの航空写真)
恵迪寮の寮歌に「都ぞ弥生」がある。
この曲は1912年度の寮歌として作られた。
当時の農科大学の寮歌に相応しく北海道の広大な自然、季節の移ろい、豊かな農耕牧畜の様子が描かれている。
その中に「北極星を仰ぐかな」という一節がある。
話は変わって鹿児島に移る。
鹿児島には旧制第七高等学校があった。
今の鹿児島大学の前身である。
母の実家が大学の近くにあり学生が下宿していたこともあり学園祭には小学生の頃から通っていた。
今は記憶も薄れているが医学部のブースで兎の腹部を直径数センチ切り取り代わりに透明なガラスを張り付けて内蔵の動きが見られるようなった展示があったのは覚えている。
他に応援団の演舞や寮歌の斉唱もあった。
歌には巻頭言も付いていて、その朗唱の後「北辰斜めに指すところ」と始まる。
北辰とは北極星の事である。
この曲は1915年の第14回記念祭のために作られた寮歌である。
この二つの寮歌にはどちらにも北極星が出てくるが札幌では「北極星を仰ぐかな」鹿児島では「北辰斜めに指すところ」(註)と表現されている。
仰ぐというのは意識して上方を見ることであり斜めというのはちょっと目線を上げるという位の違いがある。
ここで北極星の仰角を調べると札幌では43°、鹿児島では33°であり歌詞は何れも正しい表現をしている。
(北極星の仰角は観測地の緯度と同じであるので調べるのは簡単である)
また歌詞には楡(エルム)、水芭蕉、桂など北国の植生、橄攬、樟とかの南国の植生と書き分けられていて
自然に対しての観察眼が優れていて単に古典の美辞麗句を並べたありきたりの歌詞とは明らかに違う。
毎年の寮祭毎に作られた多くの歌の中で今日まで生き長らえてきたのもむべなるかな、である。
註
ウィキペディアでは「北辰斜にさすところとは、学校の所在地である鹿児島が、北辰 (北極星) を頭上高く仰ぐ地ではなく、低く斜めに見る南の地であることを、やや大袈裟に表現したものである。」とあるが典拠については触れられてない。
この二つの寮歌は3年の時間差で発表されたものであるが、後発の七高の作詞者は恵迪寮の歌詞を知っていたのかどうか興味ある所である。
上記のウィキペディアの解説によると恵迪寮の歌詞を意識しているようにも思えるが如何であろうか。
当時の寮歌は毎年恒例の寮祭に際し新しい寮歌を公募して選んだものでその年限りの限定的な歌であったこと。
当時の恵迪寮は正式には北海道大学の前身となる東北帝国大学農科大学の予修科(予科)の学生寮であり地方の
1分校でしかなかったこと。
当時の通信事情を考えると寮歌の新作発表というそれほど重要でもない情報はラジオや新聞で取り上げられたとしてもその報道は狭い範囲に限られ札幌鹿児島間を伝搬することはなかったと推測されること。
後は人伝による拡散であるがこれもある程度評価されてからのものであるので発表されてすぐに広まるとは思えない。
以上の事から七高の歌詞は恵迪寮の歌詞を意識したものではないと愚考する。
現在寮歌を毎年公募しているのは恵迪寮だけである。
この中で大正14年と昭和48年の寮歌で北極星が歌詞に使われている。
美瑛 青い池
札幌郊外の霊園
実物大のモアイ像が並んでいて観光地化している
同上
頭だけが露出している大仏
道産子なので、両手で数えるくらいの回数は訪れているはずなのですが、当該像は記憶に残っていません。
>> とみぞ さん
そのようですね。私も後で知りました。
何事も事前の用意は必要ですね。
コメントありがとうございました。