ケルンの思い出
ヨーロッパの大都市の鉄道の駅はどん詰まりの頭端式のものが多いがケルン駅は大都市であるにも関わらず通過式の駅である。
しかも6面のプラットホームがある。
ライン川が邪魔して頭端式に出来なかったのかもしれない。
駅を出るとゴシック式の壮大な二つの尖塔を持つケルン大聖堂が嫌でも目に入ってくる。
その横に観光案内所がある。
例によって市内地図を貰い音楽関係の公演情報を得る。
オペラが観られるようだ。
ホテルに関する情報はなかった。
夕方近かったのでホテルを探そうと案内所を出て駅横の通りを歩いた。
1軒の居酒屋がありその横の階段の入り口にガストホフと書かれた看板があった。
ドイツでは1階が食堂で上階が宿になっている建物をガストホフと呼んでいると聞いていたのでこれがそうかと階段を昇って行ったが受付とかの設備はなかった。
奥に声をかけるとおかみさんという感じの女性が出てきた。
ドイツ語しか喋れないようであった。
階段の踊り場での立ち話になった。
私は旅行し始めた頃は現地の言葉(1~10までの数字、挨拶、幾らか、高い、安くしてとかの言葉をカタカナのルビの付いた旅行会話の本で覚えていた)を30個位丸暗記して行っていたので(料金は)幾らかと訊いた。
おかみさんは指4本立てて何か呟いたのでそれまで泊まった部屋の相場から一泊40マルクと判断した。
まさか4マルクとか400マルクとかではないだろう。
料金は前払いか後払いか聞こうと思ったがそんな言葉は知らない。
だが不思議なことに咄嗟にイエッツト?と発していた。
どうして知らない単語を発したのか今でも不思議であるが「今」の意味であるのはうっすらとは分かっていた。
おかみさんが「ヤー」と頷いたので40マルク払うと部屋の鍵を渡し部屋の入り口にある郵便受けを指さした。
おそらくチェックアウトの時鍵をその箱に入れて帰ってくれとのことらしい。
ここではパスポートも宿帳も要らなかった。
そうこうする内に(おかみさんの娘と思われる英語を話せる)若い女性が階段を上って来たので彼女と交代した。
アメニティーグッズを持って部屋に案内する彼女にもう一つの重要な質問をした。
朝食は付くのかということである。
朝食は付かないが頼めば部屋に持ってくると言ったが丁重に断った。
木賃宿を想像していたが部屋は清潔で広かった。
疲れが溜まっているように感じたのでもう一泊することにした。
近くのスーパーでリンゴ3個、ジュース2本、パン8個、チーズ1個を買って部屋で食べた。
翌日はゆっくりと起きて
午前中にボンに行くことにした。
列車で20分程の近さである。
駅前の道を行くと直ぐに広場がありベートーヴェンの像が建っていた。
広場にはテント張りの露店が立ち並んでいて八百屋ではサクランボも売っていた。
500g3.5マルクの値札が付いていた。
500gは多いので半分にしてくれないかと頼んだがが頑として聞いてくれないので仕方なく500g買った。
この一件だけで判断するのは早計であるがドイツ人は世評通り厳格なんだなと思った。
広場のベンチに座って食べていると一人の少年がやって来た。
首から段ボール板をぶら提げていて何やら書いてあるが私には理解できない。
身形からして恐らく子供のbegger(日本語で書いたら例によって単語の検閲に引っかかった)で「何も食べていません」とか「お金を恵んで下さい」とか書いてあるものと思えた。
喜捨の精神は持ち合わせていないがサクランボが半分程あったのでそれを渡して立ち上がり広場を取り囲んでいる由緒ありそうな建物を見て回った。
後ベートーヴェンの生家等見物してケルンに戻った。
歌劇場で当日券を買い大聖堂の中とその横にあるローマ・ゲルマン博物館を見学して宿に帰り夕方まで休息。
歌劇場は伝統的な馬蹄形ではなく上階は30個ほどの椅子席を一つのユニットとして20個位が壁から場内に突き出ている斬新なデザインの劇場であった。
下から見ると空飛ぶ絨毯の大群のように見える。
演目はショスタコーヴィチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』というもので初めて観るオペラであった。
登場人物の相関関係も分からないが舞台は暗く殺人や身投げ、ベッド上での男女の絡みといった過激な演出や刺激的な音楽で観ていて気持ちがどんどん落ち込んでいく代物であった。
これが社会主義リアリズムというのかと思ったが帰国後調べてみると寧ろ逆であった。
このオペラを見たスターリンは途中で退席しその後共産党の機関紙である「プラウダ」で(平明さを欠く分かりにくい卑猥な音楽であり、社会主義リアリズムを欠くブルジョワ・形式主義的な音楽である)と糾弾されたという。
後に交響曲第5番を発表しこれぞ社会主義リアリズムと絶賛され名誉回復となったがこれもよく分からない。
要するに農民や労働者に分かりやすく革命的精神を鼓舞する作品が受け入れられたのだろう。
してみると中国の簡体字政策も社会主義リアリズムの実践であるともいえると思われる。
最初はオペラを見た後夜行列車で移動する予定であったが延泊したので疲れも取れて翌日元気に移動できた。
知らない国を旅して自分の世界がグンと広がった?
いつ頃のことでしょうか?
河沿いを歩くと昔の洪水の水位を示すプレートが貼ってある建物があった記憶があります
おもいでをありがとうございます
>> とうもりこん さん
現地の空気感が違いますね。歴史を肌で感じることで単なる知識ではなく確実に自分の財産になります。
コメントありがとうございます。
>> Yz925@CicottoGPT さん
30年程前の話です。当時はある国を出る時に現地通貨を使い切ることに腐心したものです。
私は紙幣は全部使い駅までの交通費だけを残し、更に残った小銭は干しブドウやキャンディー等の計り売りの店で「これで買えるだけ売ってくれ」と店主に渡して買い物をしていました。
コメントありがとうございます。