掲示板

子供の頃観た映画

3,4歳の頃巡回映画というものがあった。
機材一式を車に積んで空き地にスクリーンを張り夜有料で上映していた。
昼間は太鼓やクラリネットを演奏しながら歩き回り宣伝をしていた。
家族そろって観に行った筈であるが全く覚えていない。

小学生の頃夏祭りの時公園で同じような形態で映画会があった。
こちらは無料で白蛇伝とか孫悟空とかのアニメを上映していた。

5,6歳の頃街の映画館に父親に連れられて行ったことがある。
私の入場料金を払う払わないで揉めたが父が強行突破したことを覚えている。
映画は戦争物でドイツのユンカース戦闘機の主翼が途中で折れ曲がって「ヘ」の字を逆様にしたような形が格好良かった。(逆ガルウィングというらしい)
この頃の映画は本編の他に予告編とニュース映画も上映していた。
ニュースといってもひと月位前の大相撲の取り組みや皇族や政治家の動向だったりしたが新聞や雑誌でしか見たことのない人物が大画面で動くという臨場感は感動ものであった。

小学校では年に3回位理科室でクラス単位で観る映画会があった。
子供向けの短編映画で教師が映写機の操作をしていた。

この他に年1回学年単位で町の映画館での鑑賞会もあった。
〇山本有三の『路傍の石』(1955)は道徳の時間に見るような映画で全く面白くなかった。
〇南極観測船のドキュメンタリー映画『日本南極地域観測隊の記録 南極大陸』(1957)では昭和基地の穏やかな時や暴風雪時の映像、氷に閉じ込められた宗谷がロシアの砕氷船オビ号に助けられて脱出する映像に引き寄せれられた。
〇東宝の1000本製作記念作品の『日本誕生』(1959年)は『古事記』が原作である。
『古事記』は何度も読んでいて自分の頭の中に思い描いていた情景以上の映像の連続で画面に釘付けになって観た。
主人公は素戔嗚尊と日本武尊であるが両者を三船敏郎が演じていた。
その他東宝の所属のオールスター総出演であった。
天岩戸から天照大神を誘い出す案を考えた思金神(オモイカネ)は落語家の柳家金語楼、天岩戸を開けた手力男命(タヂカラオノミコト)は横綱の (3代目)朝潮太郎が扮していた。
クライマックスは素戔嗚尊の八岐大蛇退治、日本武尊の死による火山の噴火や地震洪水といった天変地異のシーンで迫力満点であった。
特撮監督が円谷英二、音楽が伊福部昭であったと知ったのは大分後であった。

当時は新作を上映するロードショー館と古い映画を上映する映画館とがあって前者を封切館、後者を二番館と呼んでいた。
『日本誕生』も封切り館で上映されて半年後位に二番館に回ってきたので観に行った。
二番館は好きな時間に入退場でき、何時間でも居られたので何回も繰り返し見ることが出来たが『日本誕生』の上映時間は3時間で更にもう一編時代劇が併映されていたので2回観るのが精一杯であった。
入場料金は35円だった。
当時の小遣い額が1日5円で1週間分を前払いで貰いチケットを買ったので覚えている。

学校から観に行った映画の記憶はこの3本だけであるので毎年行っていた訳では無かったのかも知れない。




日本誕生.PNG

当時、東宝とライバル関係にあったのは大映である。
ここの社長永田 雅一は何かにつけ大口を叩くので永田ラッパと揶揄されていたが有言実行の人でもあった。
当時、世界に目を向けると『十戒』(1956年)『ベンハー』(1959年)といった大作、国内的には前記の『日本誕生』があり、これらに触発され対抗しようとして大映も70mm映画製作を画策した。
題材は自身が日蓮宗に帰依していたこともあって釈迦の一代記となった。
題名はそのものずばり『釈迦』(1961年)である。
釈迦役は本郷幸次郎、敵役のダイバダッタは勝新太郎、他大映のオールスターの出演であった。
釈迦の生涯であるからそれほど波風が立つ訳でなく物語は淡々と展開していくのみである。
最後に仏教徒を弾圧しようとしたダイバダッタの所業に対し仏陀の怒りが激しい地震を起こし大神殿は破壊されダイバダッタは地割れに飲み混まれていくという取って付けたようなスペクタルシーンはあったものの70mmに拘るほどの作品ではなかったように思う。

翌年、大映の創立二十周年記念作品としてして同じ70mmで『秦・始皇帝』(1962年)が製作された。
始皇帝役は勝新太郎。
撮影の一部は台湾で行われ戦闘シーンでは中華民国陸軍が参加するなどして見所はそれなりにあったがエピソードの継ぎ接ぎが目立ちこれも70mmで撮る必要があったのかと思う。
因みに日本で製作された70mm映画はこの2本だけである。

日本映画の最盛期は観客動員数でいうと1958年がピークで11億3千万人であった。
それがテレビの普及に連れて1965年には3億7千万人、1970年には2億5千万人と激減していく。
『釈迦』と『秦・始皇帝』は映画最盛期の最後を告げる大輪の仇花であったと言える。


始皇帝.PNG


おまけ

パートカラー
白黒の画面で話は進んでいくがお兄さんとお姉さんが服を脱ぎ始めると画面はカラーに変わり、ことが終わりお兄さんがタバコを吸い始めると又白黒画面に戻る映画があった。
このような映画をパートカラーと呼んでいた。
カラーのフィルムが高価であったので予算の少ない弱小お色気映画製作会社の苦肉の策であったようだ。
れっきとした成人映画であるので中学生が観ることはできないのだが何故か2回程観たことがある。
大目に見てくれていたのだろう。
良い時代だった。




4 件のコメント
1 - 4 / 4
そうでしたね。

田舎なので小学校近くの寺で花祭り上映会がありました。

観たのは「ゴジラ」🙀

めっちゃ怖かったです!
夢にゴジラが出てきて驚いて目覚めた。

テレビの無い時代、私たちは映像慣れしてなかった。
> パートカラー
白黒の画面で話は進んでいくがお兄さんとお姉さんが服を脱ぎ始めると画面はカラーに変わり、ことが終わりお兄さんがタバコを吸い始めると又白黒画面に戻る映画があった。

フランス映画「男と女」もそうでしたね。
フルカラーにする予算が無かった。
それが結果的に名作となった。
一番好きな映画です。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
エース
ご覧いただき有難うございます。

それまでは幻灯機で映す静止画しか見てなかったので映画を始めてみた時の衝撃は大きかったですね。
「男と女」は音楽は有名ですがパートカラーだとは知りませんでした。

 ありがとうございました。
映画名は知らないですけど、大阪梅田のシネラマで上映された海の洋画だった事だけ覚えています。
コメントするには、ログインまたはメンバー登録(無料)が必要です。