掲示板

私の「団塊の世代」



団塊の世代は人が多すぎて競争意識が強いとか言われているが、その中にいる者にとってはそれが普通の状態であるから大変だったとか苦しかったとかの感想は一切ない。
単に私が鈍感だっただけなのかも知れない。
しかし人が多かったのは事実であるから当時の事を思い出してみる。

小学校に入学した時は1クラス60人で5組まであった。
さすがに多すぎるというので5月の連休明けにクラス替えがあり、1クラス50人で6組に変わった。

団塊1.PNG

中学校は1学年13組まであったが、隣の校区では24組まであった。

高校は今のままでは収容しきれないとのことで新たに学校を造ることになった。
高校は私の家から徒歩10分ほどの所にあり、二人の兄も通っていたので私もそこを受験する予定であった。
しかし、その学校は遠く離れた所に新しく建てられた校舎に移り、残された校舎が名前を変えて新設校として誕生することとなった。
我が家の兄弟はみんな同じ校舎に通ったが校名は上2人と下2人で違う。

私らは新設校の3期生として入学し全学年が揃い、学校としての体裁は出来上がった。
校名を広く周知させるための方法としてスポーツ選手を全国から集め好成績を出し名前を売るという方法もあるが、普通科の学校であったので校長が採ったのは大学合格者を大勢出すという手法であった。
クラス編成は成績上位者を集めた男子だけのクラスひとつ、次位の男子と成績上位の女子を集めたクラスひとつとその他大勢組のクラス七つという構成であった。
成績上位のクラスは特別クラスと呼ばれ、通常の時間割の前後に補習授業があり特別待遇を得ていた。
教員は手弁当での奉仕であったが学校の評判を上げようと必死であった。

昼食時間も惜しんで勉強しろと発破を掛けられる。
この頃詠んだ戯作である。

悄然見学校 (げんなりとして学校を見る)
疑是則人道 (これが人の道であろうか)
挙頭望時計 (頭を上げて時計を見ると時間がない) 
低頭喰弁当 (頭を下げて急いで弁当をかっ食らう)

そのような努力をしても一期生の合格者は既存の普通科高校よりも少なかった。

私は勿論その他大勢組で勉強よりもクラブを創ることに没頭していた。
アマチュア無線をやりたかったので同志を集めてクラブ創設を学校に諮ったが、単一の趣味的なものは認められないと言われ放送部として出発することとなった。
朝礼や集会の時放送機器の操作をするのも活動の一部で生徒の列に並ばなくて済んだのはありがたかった。
レコードコンサートを開こうと計画し、ポスターを作って貼ったりしたが誰も来なくて部員だけで寂しく聴いたこともあった。
アマチュア無線の資格を取るため隣の県まで受験しに行ったこともあった。
無線機器購入の予算は降りず顧問の先生が自腹を切って買ってくれた。
完成品は高いので100点以上の部品を半田付けするキット品を購入し一週間程かけて作り、一発で作動したときは感動した。
送信機はトリオの9R59Dであった。

団塊9R59D.PNG

放課後は部室に入り浸りで「CQ、CQ、こちらはJA6ABC(相手が聞き取りやすいようアラバマ、ボストン、シカゴとか言っていた) QSOお願いします」などと交信相手を探しては他愛のない話に夢中になっていた。

そんなこんなで勉強に本腰を入れたのは3年生になったからであったが、何とか志望校に滑り込むことができた。

大学生になって初めて親元を離れて一人暮らしをすることになった。
布団袋と服や日用品を詰めた柳行李は国鉄のチッキを利用して運んだ。


compile-image_1732798612782.png

チッキとは乗車券を持って荷物預かりの窓口に荷物を持っていくと渡してくれる預り票のことで行き先の駅まで別便で運んでくれるサービスであった。

学生生活が始まり前途は明るい筈だったがそうでもなかった。
仕送りは無かったので収入は奨学金だけであった。
当時の奨学金は月8000円で生協の食堂の定食券1ヵ月分と略同じでエンゲル係数は100%であった。

1学期は入学祝い金などで凌いだが先行き心許ないので帰省した時ビアガーデンのボーイのアルバイトをした。
まだ髪を伸ばし始めた頃でぼさぼさ頭で面接に行ったら「山から降りてきたような恰好じゃ駄目だ」と言われたが丹頂のチックを塗りたくって雇って貰えた。

団塊チック.PNG

ビアガーデンは料理は食券と引き換えに出していたがビールは忙しいので口頭で大2杯とか言うだけで出していた。
高校時代の教員とか来た時には注文数以上のビールをどんどん持って行ったりした。

休みが終わり大学に帰ったが学生運動の激化で授業どころでなくノンポリの私は心置きなくバイトに精を出すことが出来た。


6 件のコメント
1 - 6 / 6
昨今、著名人が75歳前後で亡くなっているのが目立ちますが、人口が多いから目立つとのこと。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> 伊勢爺い さん

そうですね、
しかも現役で活躍中の方が亡くなられるのは切ないですね。

コメントありがとうございました。
同じく〜学生運動の激化で授業どころでなく教授の吊るし上げとか終いにはロックアウトで締め出されてしましました〜ノンポリの私も心置きなくバイトに精を出した〜迄はよかったが暫くしてロックアウトで校内試験実施不可能ゆえ学部科目ごと試験の課題と回答用紙の小包がアパートに届いたのが記憶に有る某大学であった。
この投稿は、かなりの力作ですね!
僕はこの先、半生を振り返る文章を書くことは恐らく無いので、羨ましいような気もします。

自腹切って無線機買ってくれた顧問の先生、偉いですね。イイ話ですね。
僕がアマチュア無線やってた時代は、無線部は形骸化しており15人ほど部員がいるのに僕以外は全員が幽霊部員でした(笑)
完全に部を私物化できたのは痛快でしたが、寂しくもありました…

衝動的に大会(夜中もやる)に参加したいって言ったら、顧問にも副顧問にも反対(突然の残業ですから…)されたんですが、国語の先生が「生徒がやる気出してるのに、なんで協力しないんですか!?」ってブチぎれて、しぶしぶ副顧問が夜中まで付き合ってくれましたね(笑)

ちなみに僕の時代のABCD…はアルファ、ブラボー、チャーリー、デルタ、エコー、フォックス…みたいな感じでした😅
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> アリタリア さん

当時の国内の大学は程度の差はあれ同じような状況でしたね。
私の所は全学ストライキから全共闘による構内占拠が続いていましたが機動隊導入で排除されようやく正常に戻りました。
その後校内で試験が実施されたので郵送による試験とかはありませんでした。

コメントありがとうございました。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> スパイシーニョ@旧しっかり八兵衛 さん

後期高齢者になり記憶の確かな内に過去を振り返ろうと
短文に纏め時々投稿しています。

アマチュア無線やってたのですね。
アマチュア無線やってたという人には中々出会ったことがありませんでしたので同好の士がいらしたと知り嬉しい限りです。

自分から電波を飛ばしその電波を偶々拾った見ず知らずの人と交信するというのは今思えば奇妙な出会いだったと思いますが、一期一会の短い会話は自分の世界を少しは広がらせることに役立っていたと思っています。

コメントありがとうございました。
コメントするには、ログインまたはメンバー登録(無料)が必要です。