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(ビデオゲーム史)ファミコンとナムコのはなし(中編)

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前編はこちら
https://king.mineo.jp/reports/267943

前編でナムコの成り立ちから「ギャラクシアン」までの軌跡を書いたつもりです。
ナムコのベースはデパート屋上の遊技場、そしてゲームセンターだったわけです。

一方、ファミコンを発売した任天堂は、任天堂骨牌(山内房治郎商店)として花札の製造から始まりトランプ、かるたを製造…そして、おもちゃ製造の延長線上で家庭用ゲーム機を売り出していった…という印象じゃないでしょうか。

1982年に「ドンキーコング」をヒットさせた任天堂ですが、それでも業務用ではナムコの方が格上…と言っても過言ではないでしょう。
任天堂の宮本茂も「パックマン」の大ファンだって公言してますね。(でも、なぜかアクションゲームとして先輩であるはずのパックランドについてはあまり言及しないけど…)
ちなみに任天堂には、インベーダークローンゲーム、ブレイクアウトクローンゲームを稼働させてた黒歴史がありますね…
そしてファミコンで成功した任天堂は、業務用からは卒業してしまいます。

そんな2社の、運命が交差するのは1984年…ファミコン登場の1年後です…


【ファミコンの登場前夜】

ファミコン登場以前の日本にも、家庭用ゲーム市場は存在していた。
エポック社のカセットビジョンは十万台単位で出荷されていたし、1983年には低価格8bitパソコンMSXが発売される。

MSXにはナムコも参入しており「パックマン」や「ギャラクシアン」を移植している。
ソード/タカラが発売していたゲームパソコンM5にもソフトを展開していた。およそソフト一本に対して4000-8000本程度は売れていた。

だが、ナムコにとってはこれらの売上はイマイチだった。しかも性能的にも色々と制約が強かった。
業務用と比較したら色数は減らされるし、動かせるキャラの数も少なくなる。業務用は数十万円するマシン前提でつくることが可能だが、家庭用ゲーム機ではそれができないから何かを削る必要がある。

【家庭用ゲームでのナムコとアタリ】

ナムコはアタリにパックマンの権利の一部を貸したこともある。アタリのゲーム機VCSにパックマンも移植されたが、残念ながら劣悪な代物だった。
敵キャラは同時に4体表示できない為、とてもチラつき、心地よかった効果音は耳障りなノイズに変えられ、個性ある敵の思考パターンも放棄された。
面クリア後の寸劇(ショートムービー)も削除。

もともと低コストを狙い容量が少ないROMでつくられた…という理由もあるが、そもそもVCSはパックマンを移植できる性能を持ってなかった。
どうやっても劣化する無茶移植になる運命だった。(ちなみに続編のミズ・パックマンは見た目の劣化はともかく、ゲーム性自体は移植できている)

無茶移植なアタリ製パックマンだったが元のパックマン人気もあってとにかく売れまくった。
売れたのだが、そのひどい劣化移植がアタリショックの原因の一つにも挙げられるようになる。
当時、ナムコの目指すゲーム性は家庭用ゲーム機では実現が難しかった…のかもしれない。

【ファミコン登場】

モヤモヤしながら業務用ゲームを家庭用に移植していたナムコだったが…任天堂から発売されたファミコンは、当時の競合機種を一蹴できる性能を持っていた。
キャラを多数動かせるスプライト。縦横なめらかに動くハードウェアスクロール。鮮やかな色数。豊富なサウンド。
専用チップを積んだファミコンは(当時では)ずば抜けた性能を、驚くほどの低価格で実現した。

これにナムコの中村社長は目をつけた。「ファミコンを解析しろ!」と社長命令が飛んだ。
ナムコの技術陣は、この驚異のハードウェアに立ち向かった。

【ファミコンのCPUは?】

当時、ゲームでの主流はザイロク社のCPU、Z80だった。セガの出したSG-1000(SC-3000含む)も、ホビーパソコンMSXもZ80である。ナムコもギャラクシアンでZ80を使用していた。
任天堂のドンキーコング(業務用)もZ80である。

ファミコンもCPUをZ80にしようと考えてはいた…が、実際に採用したのはモステクノロジー社の6502である。
これは任天堂とファミコンを共同開発したリコーが、6502のライセンス取得の見通しが立っていたものの、Z80のライセンス取得の予定はなく、仮にどうしてもZ80を採用するとなると発売が1年後以上は遅れると…
それに、6502はZ80に比べてチップ面積を1/4にすることができるので低コスト、かつ国内で使用されてないので他社に真似されにくい。という理由でリコーは6502採用を推した。

任天堂は検討した結果、「面積をとるZ80より、音源電子回路と6502を一つのLSIに組み込んだカスタムLSIを採用することで低コスト化できる」
「新設計の画像表示用プロセッサとの相性が良い」と、6502を採用することになった。
こうして生まれたのがリコー2A03である。MOS 6502からBCD命令、メモリーマップ機能を除き、PSGに似た音源やDMA機能を追加。映像出力方式はNTSC。

任天堂は自分たち以外のメーカーにファミコンソフトを作らせる気もなかった。
だから解析されない為にも、国内ではあまり採用例がないマイナーCPU採用というのは都合が良かった。
Z80などを採用して解析されてしまえば、そこから勝手にゲームが作られてしまうかもしれない。

任天堂はアタリショックの原因が、増えすぎた粗悪ゲームにあると考えていた…だからこそファミコンで出すゲームは吟味した任天堂製のみにする。サードパーティは遠慮してもらう。
これは任天堂独自の考え方ではなく、セガのSG-1000、エポック社のカセットビジョンにもサードパーティ製ソフトはないので、当時は主流の考え方だったようだ。

【交渉する前にゲームつくっちゃった】

ところがナムコの技術陣たちは、あっというまにマイナーCPU搭載機であるファミコンを丸裸にする。
ファミコンが6502採用の機種であることを突き止め、さらに移植作業が始まった。
ギャラクシアンを実際にファミコン上で動かし、どれほど違和感なく移植できるか検証。
出来上がったものは、ほとんどアーケード版との違いがわからないものだった。

ナムコは出来上がったギャラクシアンを持って、任天堂と交渉に入った。任天堂は驚く。
仕様開示もしてないのにナムコがファミコンのゲームをつくって、やって来た!解析されないと思ってたファミコンが、一年で解析されてしまった!

この時点で任天堂はサードパーティの存在を一切考慮していなかった。マニュアルも、契約書も、何もない。
一方ナムコは、任天堂と契約をしなくても、勝手に発売するつもり満々だったらしい(笑)
「任天堂」「ファミコン」といった用語を用いずに「なんだかよくわからない形状をしているけれどファミコンにぶっ指すとゲームが遊べる不思議な代物」として流通させてしまえば、売れるだろうと。
それが合法行為であるかは不明だが…任天堂はナムコの要求をはね除けた場合「もっと酷い事態になるのではないか」と恐れた。
それと同時に、ナムコほどのゲームメーカーならば、アタリショックの再来を起こすような駄ゲームを量産するはずもないだろう…そんな思惑もあり、ナムコと契約することになった。

サードパーティ契約する事になったわけだが、任天堂はサードパーティへのノウハウが存在しない。どうやって契約書をまとめればいいのか見当がつかなかった。
取り急ぎ一本あたり数十円(21円だったという説)のロイヤリティを課せることにした。
そして技術開示書を1000万でナムコに購入させた。(既にファミコンは何バージョンか存在してたんで、サードパーティには全てのファミコンで動作するゲームをつくらせないといけない)

契約書には契約期間が5年だと記述されていた。ファミコンがバージョンアップした場合、任天堂からナムコへ情報提供する旨も記載されていた。

ちなみにこのとき、ナムコのギャラクシアンのおかげで任天堂社内では「ファミコンの情報流出があったのではないか?」と、居るはずのない犯人捜しがはじまったらしい。
この犯人捜しは、後に別の会社からやってきたプログラマーが実際、どのように解析したか綺麗に説明した事により、「出来るところには出来てしまうものなのか…」と悟る事で終わった。

【ファミコン市場の拡大と、任天堂の懸念】

無事、サードパーティ契約に至ったナムコは、今まで業務用で出した名作ゲームを、次々にファミコンに移植する。
当時のナムコ人気は凄まじかったから、ゲームセンターで100円払って遊ぶゲームが5000円出せばやり放題になる…なんて事は、とんでもない事件だった。
ナムコはファミコンのサードパーティとして参入し、即ミリオンヒットを連発する化け物メーカーとなった。(正式名称はナムコットブランド)

ナムコは業務用ゲームメーカーだった為、自前でゲームカセットをつくる余裕があった。
ROMを焼いてくれる工場、プラスティックのカセットを製造する工場、それを収納するパッケージ工場。それぞれにつてがあった。
それらの工場に金を払う体力も存在した。しかし実際にこれらのゲームソフトを流通させる場をどうするかは、考えねばならなかった。

当時、ゲームソフトを流通させるのに一番有力な手段は任天堂の一次問屋「初心会」をつかう事だった。
初心会は、ファミコン本体を扱える唯一の問屋集団だった。他の問屋や小売に対して絶大な影響力を有していた。
同時期にはセガのお得意様である問屋ムーミンも存在する。ナムコはこうした家庭用の問屋には縁がなかった。

「直営のゲームセンターで売ってしまえばいいのでは?」という(珍)案もあったが、実現するに色々と問題も出そうであった。
そのため任天堂と正式に契約し、初心会のルートを使わせてもらう事になった。
(ただし、後年にはナムコも独自流通を模索し、メーカーの垣根を越えた協力組織CSG(コンシューマ・ソフトウェア・グループ)に参加した。この組織は後年CESAへと変わる。)

そうしてナムコというヒットメーカーの協力を得て、ファミコンは爆発的にヒットする。
83年には製造ミスの影響もあり45万台の出荷しかできなかったが、84年には生産体制の見直しもあって165万台を出荷。
ナムコとハドソンがその売上を支えたことは明白だった。ロードランナーとゼビウスが、200万台しか売れていないはずのファミコンで、ミリオンヒットになったからだ。

家庭用ゲーム機市場が拡大する一方で、任天堂は頭を抱えることになる…ナムコとの契約の穴に気付いてしまった。
ナムコとの契約書のどこにも「一年間に発売できるゲームの本数」は定められていなかった。これではナムコは無制限にファミコンゲームを発売できてしまう。
これはハドソンも同じだったが、そもそも企業体力が違いすぎたし、ハドソンは自前ではなく、任天堂に生産委託しないといけない契約だったので生産量をコントロールできた。
しかし、ナムコは自前の生産である。好き放題に生産でき、なんなら他社のゲームも自社ブランドで発売できる。

任天堂がしたかったファミコンのクオリティコントロールが、ナムコには及ばない…という事に気付いてしまった。
ファミコンの参入企業3番目はジャレコであったが、このとき任天堂は契約書を精査し、作り直している…ゲームの本数制限を年6本と定めた。

ナムコとハドソンのヒット連発で、多くのサードパーティがファミコンに押し寄せた。
任天堂の山内社長はファミコンが売れることを喜んでいたが、次第に不安になっていた。
異常事態が起きつつある…1985年に出荷したファミコン本体の台数、374万台。
累計200万台程度を見込んでいたが、それを遥かに超える数を単年度で出荷してしまった。異常なまでに加熱した市場は、些細な出来事で崩れ去る。
アタリショック…1000万台を出荷したゲーム機の市場が、簡単に崩壊してしまったじゃないか。

当時、ナムコに向けて山内社長は

『わけが分からないことが起こっている……作れるということと、作っていいということは別だ』

という、謎の理論を繰り出し牽制した。
あまり派手にソフトを出し過ぎないでくれ、という理屈だった。

しかし中村社長も、ナムコの開発陣も、全く意に介さなかった。ファミコンゲームを出しまくった。
「ドルアーガの塔」に「ドラゴンバスター」や「スカイキッド」と、業務用ゲーム人気作をゲーム性そのままにファミコンに移植して大好評を得る。
さらにはオリジナルタイトルである「ファミリースタジアム」や、「さんまの名探偵」といった作品も出し、これらもヒットした。
業務用でも「源平討魔伝」「ドラゴンスピリット」「ファイナルラップ」「妖怪道中記」とヒットを飛ばし続けた。
1986年以降のタイトルは次第にファミコンの性能では移植が難しくなってきたが、それでもナムコは削れる部分を削り、移植していった。

ちなみに「源平討魔伝」はそのままの移植は無理と諦め、ボードゲーム要素を組み込んだ同名の別作品となった。
まあ、そういう例外は若干あったものの、それでもナムコブランドは熱狂的なファンに支えられる事になった。


このへんで、今回は終わりにしたいと思います😅
めちゃくちゃ長くなりました😥
後編にするつもりが、中編になっちゃいました(笑)
この後、任天堂とナムコはバチバチになるんで、時間かけてでも、書いてみたいですね。

なお、解釈がおかしかったり間違ったりしてる部分もあるかもしれないです。お気付きでしたら、コメントで教えて頂けるとありがたいです。


7 件のコメント
1 - 7 / 7
こんにちは😃
ナムコ派です。

読み入ってしまいました😊
ファミコンではアーケード版の移植に限界があって、いろいろ工夫していたことを思い出しました。
ゼビウスではアンドアジェネシス?が地面固定だったこと。
ドルアーガの塔の44階ではウィザード系が同じ種類になること。
グラディウスのオプションが2つまでだったような?
レーザーが短かったような?
でも、熱狂しましたね。
当時、中学校でゲームセンターの利用が校則で禁止されてたりしました😅
源平討魔伝で三種の神器を知りました。
鎌倉に行きたくなります😁
ファミコンはグラフィック用のPPUが優秀でしたね(CPUもapple IIの倍速でしたが・・)
最初から縦横スクロールが出来てましたしスプライトの合成で3色の表現も出来てました(8枚横に並べられたような)
同時期のMSXだとスプライトの合成出来ないし、4枚まで出し、スクロール機能なしで、だいぶ貧弱でした
MSX2でスプライトは同等に並びましたがスクロールは縦しか出来ないと、それでもビハインドでしたね。背景のグラフィックはドットグラフィックにはなったので派手にはなりましたが・・・

>> Y. Daemon@ポリアモラス さん

業務用ゲームのファミコンへの移植は、ファミコンが家庭用ゲーム機として優れてたとはいえ、いろいろ苦労があったでしょうね。
でも、業務用→家庭用の移植って、むしろ家庭用の方が評価高いゲームも中にはありますよね。

グラディウスといえば、昔付き合ってた歳上の彼女が毎日1回クリアするのが日課になってたとか言ってました(笑)

>> pmaker さん

僕が最初に触ったパソコンは富士通FM-77なんですが、その頃にはTOWNSが出ててソフトも売ってないからベーマガ買ってプログラム打ち込んで遊んでましたが、MSXは必ずと言っていいほどプログラム掲載されてたから羨ましかったです(笑)
2 T
2 Tさん
レギュラー
面白い
当時ファミコンをプレイしていたが、CPUの決定にこんな事情があったなんて全く知らなかった
どうやってこのソースを仕入れるのか知りたい
NHKで最近放送されてた売れなかったゲーム機(何だったか忘れた)の黒歴史よりもためになりますね?
読み物としてもいい!
ぜひ続けて下さい

>> 2 T さん

けっこう頑張ってアチコチから引っ張ってきてます😅
後編はナムコVS任天堂なんで、そこに行きつくまでの某ゲームメーカーの扱い(なるべく解釈に偏りが無いようにしたい)を、どうするかで手間取ってます。
レトロゲーム裏事情は面白いので、なるべく続けるつもりです。
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