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アルフレッド・アドラーこの名前を聞いた人もいると思います。ドラマにもなり、「嫌われる勇気」など、書物も多く出てますね。その中の一言…、 「 できない 」 のではなく、 「したくない」のだ。 「変わらない…」 そうでなく、 「変わりたくないのだ。」僕はこの言葉に言い当てられた気がして本当の気持ちを自分に聞き返しまた。(*´-`)
メンバーがいません。
嫌われる勇気(•ө•)♡
ドラマは面白かったです
主題歌のNEWS「EMMA」も好きです♪
心理学はわかりませんが
ドラマの中の「それは私の課題ではありません」という台詞は
「自分の課題ではないから私は知りませんよ」と言っているように感じました
課題を分離する事は良いと思うのですが、その後がねー・・・
>のではなく、
>「したくない」のだ。
あ、そうそう
他でも書いたかもしれませんが
以前、私が操作していた機械が壊れた時
「触っていたら壊れた」と言ったら
大阪出身の同僚が「それは、壊れたんやなくて、壊したんやろ」って言いました
私(横浜出身):普通の操作をしただけで、壊す操作をしたわけではないのだから「壊れた」
大阪出身の同僚:たとえそうであっても壊れるきっかけを作ったのだから「壊した」
この時、『関西って、「自分がxxxした」という言葉にする習慣があるのかな?』って思いました
地域的な物の考え方の違いなのでしょうか?
それとも、固有の考え方の違いなだけなのでしょうか?
何れにしても同僚はアドラー的な考え方だったんですかね
普段は仲がいいなら、アドラーあるいは哲学的、もしくは責任感が強すぎる方かも。
過去に「哲学と心理学の違い」がよく分からず、ググったのですが、「心理学は統計学」というコメントを見つけて、なんとなく納得した記憶があります。
アドラーは統計学というより、道理を考える性質が強いように感じるので「アドラーは哲学」という感覚は腑に落ちます。(素人考えです)
ただ忌憚のない方っぽいですね。
(本文とコメントからの印象ですが)無自覚に読むと勘違いしそうです。
自分との対話と自問自答の違いみたいな。
アドラーにしろ、哲学者にしろ、心理学者にしろ、その他の学者にしろ、学者は忌憚ない方が望ましいと思います。
学問は正しさを追求するものなのに、忖度しはじめたら正しさが歪みます。
まあ、人間社会の出来事なので、正しさをひたすら追うのは難しいのかも知れませんけどね。
映画「イミテーションゲーム」では、天才数学者チューリングがドイツの史上最強といわれた暗号装置エニグマに挑む様子が描かれているのですが、チューリングが正しさに向き合うことで周囲の学者たちと軋轢を産む姿が描かれています。
しかし、それが正論であっても"やらない""変えない"裁量が相手にあるときにそれを強制する事の是非というのもありますから難しいものです。
学問や研究の分野とか、宇宙開発みたいなクリティカルなケースでは"検討しない"事は罪ですが、普段の生活や一般的な仕事では個々のケースごとの事情も絡んできますので…
#ただ事実を提示して後はお任せも一つの考え方、但し相手に悪意がなく活用意志がある場合に限る