お釈迦様の言葉 「接触」
世間には、様々な苦しみがあるが、それらは何を因とし、何によって生じ、何によって来たり、何によって起こるのであろうか。
それらの苦しみは、とらわれを因とし、とらわれによって生じ、来たり、起こる。
とらわれが有るが故に苦しみがあり、とらわれが無ければ苦しみは無い。
また、このとらわれは、何を因とし、何によって生じ、何によって来たり、何によって起こるのであろうか。
このとらわれは、渇愛を因とし、渇愛によって生じ、来たり、起こる。
渇愛有るが故にとらわれがあり、渇愛が無ければとらわれも無い。
また、この渇愛は、何を因とし、何によって生じ、何によって来たり、何によって起こるのであろうか。
世間において愛しく好ましく思われるもの、それが生じるとき、渇愛は生じる。
では、この世間で愛しく好ましく思われるものは何であろうか。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、そして意識において感じられる対象こそが、この世間で愛しく好ましく思われるものである。
これら世間において愛しく好ましく思われるものを、永遠であると見、楽であると見、実体があると見、健全で安全であると見る者には、渇愛はいっそう増大する。
渇愛が増大すると、とらわれも増大する。
とらわれが増大すると、苦しみも増大する。
こうして衆生は、生、老、死、愁、悲、苦、憂、悩から解脱する事ができない。
例えばここに水があって、この水は麗しく、香りも味も良いが、毒が混じっている。
そこに、大変喉が渇いた者がやってきた。そこで人々は彼に言う。
「その水は麗しく、香りも味も良いが毒が混ざっているぞ。もし飲みたければ飲んでもよいが、飲めば死ぬか、死ぬほどの苦しみを受けねばならないぞ」と。
それでも、彼が注意する事なく、思慮する事なく、我慢できずにその水を飲んでしまったならば、彼はそのために死んでしまうか、死ぬほどの苦しみを受けねばならないだろう。
それと同様に、世間において愛しく好ましく思われるものを永遠であると見、楽であると見、実体があると見、健全で安全であると見る者には渇愛がいっそう増大する。
渇愛が増大すると、とらわれも増大する。
とらわれが増大すると、苦しみも増大する。
こうして衆生は、いまだ、生、老、死、愁、悲、苦、憂、悩から解脱する事ができない。
しかし、世間において愛しく好ましく思われるものを、無常であると見、苦しみであると見、実体がないと見、不健全で恐怖であると見る者は、渇愛を捨断する。
渇愛を捨断する者は、とらわれを捨断する。
とらわれを捨断する者は、苦しみを捨断し、生、老、死、愁、悲、苦、憂、悩から解脱するのである。
世間において愛しく好ましく思われるものを、無常であると見、苦しみであると見、実体がないと見、不健全で恐怖であると見る者は、渇愛を捨断する。
この世は無常である。
この世は苦しみである。
この世は実体がない。
この世は不健全で恐怖である。
世間において愛しく好ましく思われるものを、楽であると見、実体があると見、健全で安全であると見る者には、渇愛はいっそう増大する。
毒は電波ですかね😊
「説法」を説きたいのなら、まずは己の言葉で簡潔に語りましょう。
所詮この世は、諸行無常なのですよ。
>> この世は無常である。この世は苦しみである。
クリスチャンですが、仏教五大聖地を巡って同じ思いを抱いています🔔
(画像は、仏陀が悟りを開いたとされる菩提樹です…インド・ブッダガヤにて)
>> とんちゃん8282 さん
大変良い写真をお持ちですね。😃ここで、降魔成道されたのですね。😲😲😲🙏🙏🙏
私にはよくわかりません。
生きていれば嫌な事も良いこともあると感じる人が多いのではないでしょうか。
もし苦楽が裏表の存在なら、人生は苦ではなく苦楽であるという事になりませんか。
仏教は物事を悲観的に見る宗教だと感じています。
例えば至福1000年という考え方があります。キリスト生誕後1000年正しい幸福な世界が続くという考え方です。
仏教には釈迦滅後1000年で末法の世が訪れ、正しいことがすべて失われてしまうという考え方があります。
これは同じことを言っているのですが、なぜ仏教では末法が強調されるのでしょうか。
もしかすると、楽に溺れることなく、苦を克服しろという事なのでしょうか。
何れにしろ、言葉をそのまま解釈しても真実には至れないという事かもしれませんし、だとすれば宗教的な経験は個人的なもので私一人だけものなのかもしれません。