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要約「蜘蛛の糸」

ふと「蜘蛛の糸」を思い出しました。

「カンダタ」は生きていたときに悪事ばかりを働き、地獄に落ちました。
ある日、お釈迦様が地獄に落ちたカンダタを見て、一度だけ踏みそうになった蜘蛛を助けたことを思い出しました。

そして天国から一本の蜘蛛の糸を垂らしました。
それを見つけたカンダタは、蜘蛛の糸に飛びつきます。
それに気づいた他の亡者達が一斉に群がります。
糸が切れる事を心配したカンダタは、自分に続いて登って来る亡者達を蹴落とします。

それを見たお釈迦様は、蜘蛛の糸から手を放して、残念そうにその場を立ち去りました。

カンダタは唯一のチャンスを逃して、本当の地獄に落ちた訳ですね。

終わり。


14 件のコメント
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ふと「蜘蛛の糸」を思い出した、そのきっかけが気になったりします🤔😏

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>> とろみ さん

>ふと「蜘蛛の糸」を思い出した、そのきっかけが気になったりします

ドラクエやってたんですかね?(笑)

>> うまちゃん@平常運転 さん

あれ?ワタシの正体が実は「カンダタのマスク」だってこと、バレてました?(違w
つまり蹴落とさなければ
糸は切れずに助かった、

んですね。

で登ってきた他の亡者は
天国目前で落とされると。

お釈迦様、かなりSなのでは😁
そしてお釈迦さまは、、、
閻魔大王が地獄に落した罪人を勝手に極楽に上げた越権行為で糾弾される...と。
揖保の糸。
切れないので細くなりますね。😆

蜘蛛の糸は一人づつ登ればみんなが天国に上がって来て、地獄に変わったのでしょうか?🤔
蜘蛛を踏まなかったくらいで生前の悪事が帳消しになったんでは、他の地獄の罪人たちも納得がいかないですよね。
それにカンダタが地獄に落ちてもその人間性は何ら変わっていないので、蜘蛛の糸は切れるべくして切れたということです。
芥川の小説には、“因果応報“と、人間の地獄が内側から来るものだと言った“傲慢“ を描いたのが多いですね。

カンダタの場合には、たった一つの無意識の善行ですら、罪の重さから本人を救ってない。

同じ作者の「地獄変」も怖い話です。
主人公の絵師は腕は良いけど非常に傲慢な人間で、その娘も姿は美しいのに他人の情けを理解しません。親子は傲慢によって引き寄せた結末で自らを滅ぼしてしまう。
このお話でも「蜘蛛の糸」のお釈迦様と同じく、周囲は人間の内なる地獄を止めることは出来ません。

傍観者は主人達が起こす狂気を予感しつつも止めることが出来ないってところが川端文学の恐ろしさなのかもなー
自らが生み出した地獄を止めることが出来るのは本人だけ
星新一だったかなあ

カンタダ(に相当する人かも)が、後ろから続いて登ってくる亡者に気がついたが、何も喋らず急いで登り始めた。
お釈迦様は、多くの人が天界へ来られるのは困ると思い、カンタダだけを引き上げようとしたところ、カンタダに強く引かれすぎ、カンタダと入れ替えに地獄へ落ちた。
そのまま多くの亡者が天界で暮らしていた。
そうしているうちに、皆ふっくらと太り、表情も優しくなり、まるでお釈迦様のようになってきていた。
カンタダが、ふと下を見ると、お釈迦様が地獄で苦しんでいた。
情けをかけ、蜘蛛の糸を垂らしてお釈迦様を助けようとしたところ、地獄の鬼たちがお釈迦様に続いて登ってきた。
お釈迦様はそれに気が付き、鬼たちは上がってくるなと言うようなことを叫んだ。
それを見たカンタダが糸を切った。
といったパロディショートがあったのを覚えています。

>> ヨッシーセブン@北京 さん

環境の違いが
人を変える、んですねー^_^
初めて読んだときに、これって単なるお釈迦様の暇つぶしじゃね?お釈迦様って結構意地悪だなと思いましたσ(^_^;
このお話ではカンダタは人をあやめたり放火や強盗をして地獄に落ちたんです。蜘蛛を助けたのは気紛れですが、自分に利害が無かったからでしょうね。
これと似たお話は、捨て猫の命は助けたいが、ホームレスの人間はと言った例の話題そっくりかなぁ?

そして、お釈迦様が糸を切ったのではなくて罪の重さで糸が切れたんだと思います。
地獄の入り口では罪の衣の重さで亡者の行く地獄を決めているの、日本のお寺さんの屏風画になってます。
だから糸はカンダタの罪の重さで遂に切れたのだと思います。

序でに、仏教的な世界観で、罪の重さや懲罰を決めているは閻魔になりますね。閻魔の横にある浄玻璃鏡という鏡に全ての罪が映し出され、閻魔はそれで生前の罪を見透します。お話に出てくる蓮の池はその浄玻璃鏡を思わせます。
釈迦は悟りを開き目覚めた者なので、実際には誰も捌いていない筋書きになってます。だから立ち去る時に残念なお顔で去っていきます。
短編だけど深いなぁ〜って感じ?寓話は多面的だなぁ〜
お釈迦さまというのは、蜘蛛を助けたことくらいで地獄から助けだそうだなんて気持ちには到底なれない人間などとは比べる事の出来ない全く別の存在。

散歩の途中で池の中を覘いてみたのも「カンダタ」を選んだのも偶々というかなんというか...そもそも「(我々人間からすると助ける価値がないように見える)カンダタ」を助けようとした事自体、カンダタが蜘蛛を殺さずに思いとどまったのと大差ない位の理由(偶々?!)であるようにも思える(お釈迦さまには人間の生き死にに対する執着などない)。


蜘蛛は、”縁”と糸という舞台装置を持ちだすために用意されたものであると同時に、[お釈迦さま⇔人間]と[カンダタ⇔虫]という風に、助ける側と助けられる側といった、揺るぐ事のない立場の違いを対比させる構造にするために用いられただけのように思う。


そしてお釈迦さまはこれからもまたふと思い出したように糸を垂らす。。。
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