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2020年にすべての一般向けサービスが終了するPHS(Personal Handy-phone System)。1995年に生まれ、25年でその歴史を閉じることとなりました。「ピッチ」という通称は、「アムラー」「ガングロ」「コギャル」などと合わせて、90年代後半の女子高生を象徴するキーワードと言えるでしょう。
今ではほとんど見かけなくなりましたが、一体どんなものだったのでしょうか。どういった人が使っていたのか、携帯電話(ケータイ)との違いは何なのか、デジタルライターのコヤマタカヒロさんに話を聞きました。
<プロフィール>
コヤマタカヒロ
ファッション&カルチャー誌でライターとしてデビューした後、現在は最新のデジタル機器やPC、AV機器、白物家電など、デジタル機器と家電領域を専門分野として執筆するデジタル&家電ライターとして活動。モノ雑誌やファッション誌、ニュースサイト、メーカーサイト、オウンドメディアなどに寄稿。執筆以外にコンサルティング活動なども行う。
――1995年というと、すでにケータイがあったかと思いますが、PHSが生まれた経緯を教えてください。
当時のケータイは、通信速度が今より遅く、ほぼ音声通話サービスのみの状態。また、当時は現在のように、4Gの次は5Gへなどといった通信規格の世界的な道筋は決まっておらず、各社がさまざまな技術を開発していました。そんななか、総務省によってPHSが採用され、簡易型ケータイとして実用化されたのです。
最初にサービスを開始したのは、DDIポケット(後にウィルコムを経て、現ソフトバンク)とNTTパーソナル。ほかにアステルという会社も出てきました。
その時のケータイは料金が高く、若い世代には手の届かないアイテムでした。PHSは月額3~4,000円程度と、主にポケベルを使っていた当時の女子高生が、お小遣いの範囲で持てたこともあり、若者の利用が広がったのです。
――月額利用料が安く、若者でも利用できたとのことですが、最近ではスマホの新機種を買うのに数万円、へたをすると十数万円します。PHSの端末は、いくらくらいだったのでしょうか。
当時は1円や0円で端末が手に入った時代なんです。ケータイ端末も今と違って端末代が安く、0円での販売も珍しくありませんでした。なので、PHSとケータイのどちらも持つ「2台持ち」の人もいましたね。
――当時のケータイとPHSでは、どのような違いがあるのでしょうか。
月額利用料以外で言うと、基地局のアンテナから発する電波の範囲が、ケータイよりも狭いのがPHSの特徴でした。たとえば、ケータイなら1個のアンテナを設置すれば済む範囲に、PHSなら20個のアンテナを置く必要がある、といったイメージですね。その代わり設置コストは圧倒的に安かった。
平たく言うと、PHSの通信の仕組みはコードレス電話機に近いんです。会社で支給され、携帯すると同時に、内線電話のような使い方をしているところも多かったので、ある年齢以上のビジネスパーソンの間では、利用したことのある人も多いのではないでしょうか。
対応範囲が狭い反面、PHSのアンテナはケータイと比べて手軽に設置できました。自分のお店や事務所に電波が入りづらければ、室内に設置することもできたのです。
また昔は、2Gや3Gのケータイは周波数の問題で、地下だと電波が入りづらかったんです。でも、PHSの周波数は地下にも入り込むことができたので、ケータイとの差別化ができていました。
ただ、ケータイが4Gという高速な通信規格へと変わったことにより、PHSの特長も失われていきます。キャリアの努力により、ケータイは地下でも電波が届きやすくなり、それまであった速度や電波の問題も解消しました。
――そのほか、昔は病院でケータイは禁止、PHSなら使ってOKというのもありましたね。
2G時代のケータイは医療機器に影響したので、病院での利用が禁止されていました。医師が院内でPHSを使う姿をよく見ましたね。でも、3G以降は影響がほとんどなく、使っても問題ないです。
――サービス開始当初、ピッチを持つのは女子高生の印象が強かったですが、ユーザー層はその後、変化したのでしょうか。
最初は高校生がユーザー層の中心でしたが、徐々にビジネスパーソンが使うものへと変化します。
1999年にNTTドコモからiモードが登場。2001年には、通信規格も2Gから3Gに変わって、通信速度がアップし、これまでより積極的にデータ通信が行われるようになりました。しかし、ケータイでのデータ通信は「パケ死」という言葉が生まれたように、パケット通信量の上限がシビアな時代。パソコンでインターネットに接続する場合は別途料金がかかるなど、仕事でデータ通信を行うにはまだまだ厳しい状況でした。
そこで使われていたのが、ケータイ型やカード型、USB型のデータ通信用PHS。今ではカフェなどで作業する人たちを「ノマド」と呼びますが、当時は「モバイラー」という呼称がありました。電話はケータイを使い、仕事のデータ通信用にPHSを持つというビジネスパーソンも出てきたんです。
また業界では2000年にアステルが低迷し、業界内の競争が減りました。このことがデータ通信中心へ移行したきっかけになります。対PHSキャリア同士の競争ではなく、ケータイと差別化を図る必要が生まれてきました。
――データ通信用のPHSといえば「AirH"(エアーエッジ・後に「AIR-EDGE」に)」というサービスが有名でしたね。
エアーエッジは2001年に登場しました。この頃からPHSは若者が持つ「ピッチ」ではなくなり、ビジネスパーソン愛用のアイテムになります。かつてはケータイを持っているとおじさん扱いされていたのですが、立場が逆転していきました。
エアーエッジは使い放題ですが、通信速度は128kbps。その後、256kbpsのプランも登場しますが、現在ソフトバンクの4G LTEでiPhoneXを使った場合、下り最大187.5Mbpsということを考えれば、どれだけ速度が遅いかわかります。そこまでいかなくても、3Gになった時点で使い放題の必要がない人たちや必要な時だけ使えればいい人たちは、PHSから離れていきました。
――たしかに、今の通信速度に慣れていると、PHSのデータ速度は厳しい気がします。それ以外にも、若者たちがPHSから離れた要因はありますか。
時期を同じくして、J-PHONE(現ソフトバンク)の「写メール」も登場しています。当時はケータイで写真を撮ることを「写メ」って言っていましたよね。3G時代に入ったことで、ケータイ自体もマルチメディア化しはじめたのです。J-Phoneは若者向けのプランを出していたので、PHSのユーザーがどんどんケータイに流れていきました。
――2020年にはPHSの一般向けサービスが終了します。PHSは一時期はかなりの利用者がいましたが、どのあたりがきっかけで終了に向かったのでしょうか?
PHSからケータイに移行していったのは、ケータイの通信速度がアップしたことと、基地局が増えて地下でもつながるようになり、PHSの優位性が失われたことが挙げられます。なにより、ケータイの利用料金も安くなり、価格面でも優位でなくなったことも影響しているのではないでしょうか。
ただ、PHS離れの原因として一番大きいのは、2008年のiPhoneの登場だと思います。iPhone 3Gが日本に上陸し、PHSのみならず、ガラケーからスマホへユーザーが一気に流れていきました。また、ケータイのデータ通信も定額になったのも、この頃。同時にアンドロイド端末も登場し、スマホの時代が訪れました。
――PHSのキャリアは、新しい端末やデータ通信に対抗するような動きをしなかったのでしょうか。
実はウィルコムは、機能面でみればiPhoneより上とも言われていたW-ZERO3シリーズを出していたんです。しかし、販売面でiPhoneにかなわず……。結果的に、PHS端末として大々的に発売されたのは、このシリーズが最後になりましたね。
2000年代半ばになると、高速データ通信のできるものが増えて、PHSでのデータ通信の利点も損なわれていきます。新しいデータ通信規格である「WiMAX」のサービス提供も始まり、価格や通信速度、電波など優位性も完全に失われていきました。
そして、ニュースなどで言われている通り、ソフトバンクと同系列のウィルコム沖縄が2020年にサービスを終了させ、一般向けPHSサービスはすべて終了します。
――2000年代半ばまでは、PHSあり、3Gあり、WiMAXあり……といろいろなネットワークの種類が出ていましたが、今後、競合するようなネットワークが出てくる可能性はありますか?
PHSが生まれた1995年は、通信がこの先どうなっていくか不透明な時代でした。インターネットもまだ始まったばかりだったんです。だからこそ、いろいろなアイデアの中でPHSが生まれました。しかし現在は、5Gという規格に向かって統一的に動いています。ネットワークの種類について、今後競合するようなものは生まれないでしょう。
当時女子高生たちが夢中になった安室奈美恵さんが引退する2018年に、サービス終了が発表されたPHS。90年代後半を象徴するものが、またひとつ消えていくさみしさを感じます。でも、その時代を生きた人にとっては、忘れられないツールのひとつとして、記憶に残り続けることでしょう。
みなさんはPHSを使っていましたか? 使っていた当時の思い出があれば、ぜひ教えてください。
(編集:ノオト )
きたものなので、どの様なものだったのか纏められてて良い記事だと
思いました。
ただ、この分野はmineoを運営されているケイ・オプティコムも関係があり、
アステル関西がケイ・オプティコムさんに譲渡され、その後2001/6/1から
関西エリアで基地局整備に自社の光回線網を活用し、PHSで64kbpsながら
月額3150円で使い放題という当時としては画期的な通信サービスを提供
されていた事が入っていればさらに良かったのに、とは感じました。(^^
その名残で電波暗室があることが第1回mineoファンの集いで出てましたが、
あれは新社屋に移したのだろうかとは少し気になりました。(^^ゞ
https://mineo.jp/pdf/tsudoi1607_01.pdf#page=33
名残惜しいです。
2020年7月で終了のようですから、あと1年7ケ月ですか。
意外と時間がないですね...σ(^_^;)
懐かしいはなしです。
「おっさん」の顔写真いる?
必要の無い写真では?
ナルシスト?
esもes advancedもかって使い倒してました!
そういえば…ずいぶん前ですが、小霊通みたいな名前で大陸デビューしてましたネ!
当時のコードレス子機と比べると体積も重量も半分以下で電波の飛びも良くてピッチと固定電話のダブル待ち受けで重宝しました。今で言うDSDSでしょうかw
固定電話の子機機能もあったのでコードレスフォンとしても使っていました。使いやすかったです。
あと自分的に重要だったのは、コミケで繋がるんですよw
当時のコミケで連絡を取るのに流行ってたのは「パーソナル無線機」でしたが、チャンネルの奪い合いもありつつ、使い勝手はまあまあ悪かったです。
携帯電話が普及しだしたことで主流が移りましたが、晴海/ビックサイトを通常カバーするアンテナでは全然足りなくて、繋がらないことが多かったです。
そんなときPHSはユーザー数が当時比較的少なかったり、アンテナ数が多いのか、とりあえず発信をキャッチしてくれれば繋がる可能性が高い(ベルが鳴ってくれる)ので、PHSが有利だった記憶があります。
友人の高い携帯電話では混雑でコールもできないのに、自分のピッチはなんなく繋がってずるい!って言われたことがありましたw
(まあ、その一年後は携帯電話とさして変わらなくなっていくんですけどw)
懐かしい記憶です(昔過ぎて晴海かビックサイトか記憶あいまいですけど・・・w)
子に連絡用に持ってと本体プレゼントされ持ちました。
当時、子は携帯持ちでPHSからの通話料が
高いので一年使用したか、しないか位で
携帯に持ち替えましたね。
現在も使用中なんですよ。
オリンピックが始まる直前まで、目一杯使って行きます。
懐かしい思い出です。
1G(NTTドコモ社はHICAP方式のアナログ)では“MOVA“なんていう二つ折りケータイでした。
1GはFM変調でしたので、他人の電話の会話を聞くことができました。
私も聞いていました。
2G(デジタルに進化)では、“デジタルMOVA“となり、π/4シフトQPSK変調でしたので、聞くことができなくなりました。
今で言うMNOが数社存在していました。
少し遅れて2.5G(PHS)がサービスを開始しました。
2Gと2.5Gは、どちらもπ/4シフトQPSK変調を使用していましたが、2GはFDD、2.5GはTDDという違いがありました。
2.5Gは当初、ハンドオーバーができませんでしたが、すぐにできるようになりましたが、ハンドオーバーするときに間が空いてしまうような、少々お粗末なところもありました。
3Gでは、日本方式のW-CDMAとEU方式のWCDMA、そして米国方式のcdma-Oneがバトルしましたが、日本方式は標準化て負けてしまい、EU圏と日本はWCDM方式を、米国圏ではcdma-One方式となりました。
日本国内では、WCDMA方式とcdma-One方式が混在しているのは、米国の政治的な圧力で、1Gのころからモトローラ社のJ-TACS方式で入り込んでいたものの流れです。
そんなこともあり、今後の5G展開も睨んでKDDIはcdma-one,1x,winを、サッサと掃き出したいわけです。
PHSはマージンが安かったので熱心にはなれませんでしたが、当時高校生の娘に持たせる名目で使った見ました
デジタルなので音がとても明瞭でビックリしたことと、車で移動して通話してると、1秒くらいの断絶がよく発生してたのがケータイとの違いでした
後にPCに取り付けるカードが発売され、持っていましたが、メールに使うくらいのオモチャに近かったと思います
携帯電話よりも技術的に優位な点が多かったのですが、大部分は追いつかれて追い抜かれてしまったので、仕方ないですね。
ただ、音声通話の品質の良さは、未だに凌駕されてませんね。
私はiPhoneも3GS時代から使ってますが、音声通話の為だけにPHSも使い続けていました。
携帯電話の音声通話品質もVoLTEでだいぶ良くなったようですが、PHS使ってた私に言わせれば、まだまだどうしようもないレベルです。
残念。
って歌がありましたね(´・ω・`)
2Gの携帯の帯域が9600bpsだったのに対して、64kbpsという『高速通信』が魅力でした。パケット単価も段違いでしたし。
アメリカ出張時に、PCにPCカード(なんて覚えている人いるかな??)型を挿しっぱなしでミーティングしてたら、ナードな兄ちゃんに「見せろ見せろ」と迫られたことがありました。
見た目は単なるPCカードなのに…
-H" とか結構好きでした
音質が良いと言うか、それが普通だと思っていたので、
J-PHONEで番号指定のカケホーダイができて乗り換えたときに愕然としましたね
Airepx-in-峰尾 さん
こういう記事になぜか必ず差し込まれる、聞き手単独の写真がないだけマシですよ
あれはなんのためにあるんでしょうかね...w
よく使って居ましたよ。
記事内で128Kbps使い放題とありますが、私が最初に持った時には32Kbpsで今とは違いwebも軽かったものの、メールですらやり取りに時間が掛かったなあとそんな記憶が(;´∀`)
これでも当時としては実用的と考えられていたものでした……
無くなってしまうのは寂しいことですが、何処から考えても当時より現在のほうが恵まれていますので仕方ないなあと(・・;
ただ、今でもW-ZERO3は保管していて、思い出も多々あるので恐らくこれは捨てられないでしょうね。
副回線(当時、副回線は基本料無料キャンペーンで追加契約出来た)は一番安いプランにしてイエデンワの回線として今も残してあります。
17年位前でしょうか、家庭のインターネット回線がアナログモデムやISDN が主流でADSLも高額だった頃(光回線なんてなかった)に、つなぎ放題で月額約3000円が魅力的で使ってました。
当時はADSL回線を引くには、NTT 電話加入権の購入(何万円かしてた)が必要で、月々の支払いは電話の基本料金+ADSLの料金だったので、固定電話を引いてなかった私にはかなりリーズナブルでした。
でも、しばらくすると、yahooが電話加入権をタダでくれて月学2000円位のADSLサービスを提供しはじめて乗り変えました。
確かに速度は遅かったけど、AirH"のカードが一枚あれば、自宅のデスクトップも出先のノートパソコンでも通信できて便利でした。
コードレス電話の子機以外にもトランシーバ機能があり、ある家電店ではトランシーバ登録を代行するサービスを行っていた。
その端末からトランシーバ発信すると、同様に登録した見ず知らずの人の端末に繋がる事があり、一部では暇つぶしのおしゃべりツールやプチナンパ的な使い方が流行った事も。
記事は、格安SIMの掲示板に久しぶりに合っている内容で良かったのに。
PHSの端末の写真を載せるならわかる。
記者さんの顔を1回ならわかるが、何で今回、多いの?
不思議に思ったよ。
誰もこのような事に気にしないみたいだけど、自分もおっさんだが、自分なら歴々の端末機の写真を載せる方が記事が面白いと思うが。
例えば、PHSでドラえもんの型をしたのとかを載せる方が記事としても面白さが出たと思って。
スライドキーボードとか、使いやすかったですね。
データ通信用のUSB端末も持っていました。出張でも重宝したし、東日本大震災のときには、途切れてしまったauひかりの代替としてカミさんのPCメール回線に役立ちました!ホントにPHSにはお世話になりました。。
個人的にもW-ZERO3を歴代買っていきましたが時代が付いてこなかったですね
モノクロ画面ストレート端末でしたが、使用一年位でフリーペーパーのカラー液晶画面の折り畳み端末プレゼントに応募したら当選したので、それに換えました。
音質は携帯より良かったですね。
ドッチーモ(だっけ?)とかもあったよね
スマートホンという言葉が最初に使われたのは、W-03か富士通から出た小さい携帯機器だったような記憶もあります。
今さらこのような記事で何をどうしようというのか、真意は測りかねますが、そうしたことを実際に通り抜けてきた世代にとっては、今更感いっぱいです。
携帯通信機器の歴史的なお話としては、まだ近すぎてな生煮え的な話題でしかありません。
バイク運転中など通話が途切れて使えなかったけど、地下で入るのは良かったなぁ。
この歌のことですね笑