本能寺の変後の明智光秀の足跡を辿る
本能寺の変後の明智光秀の足跡を位置関係が良く分かるように辿って来た。
コメント欄に関連のある歌舞伎二題を紹介した。
本能寺跡の石碑①(丸内数字は巻頭地図の番号と同じ場所を示す)
本能寺の変とは天正10年6月2日(旧暦)本能寺に宿泊していた織田信長を家臣明智光秀が襲撃した事件である。
京都市役所近くの寺町御池にある現在の本能寺は事変の後建てられたもので本能寺の変の舞台となったのは2km程西の4条堀川の堀川高校の近くにある。
京都市が行った発掘調査により堀や石垣や土塁の跡と燃え焦げた瓦等が出土していて寺の規模や被害状況が確認されている。
山崎合戦古戦場碑②
名神高速道路と京都縦貫自動車道が交差する大山崎インターチェンジ近くにある天王山夢ほたる公園内に建つ石碑。後方の山が天王山
阪急電車の西山天王山駅から徒歩で向かったが分かりにくい場所にあった。
信長亡き後の朝廷や近隣武将との調停に時間をかけている内に備中から驚異的な速さで戻ってきた秀吉軍は天王山に陣を敷いて光秀軍と戦い3時間程で勝利を得た。
明智藪③
伏見の東側の丘陵に新旧の小栗栖街道が合流する場所に集落がある。
標識に沿って道路を上っていくと光秀終焉の地、明智藪に着く。
竹薮は標柱のある側だけで他は伐採され駐車場となっている。
光秀は近江の坂本に戻って態勢を立て直そうと僅かの家臣と共に山崎を発った。
伏見を過ぎ小栗栖の地に差し掛かった時傍らの竹薮に潜んでいた何者かに槍で刺された。
とっさに槍を切り払ったが力尽きて自分の死期を悟り自害した。
光秀の胴塚④
首は持ち帰ったが胴体は明智藪から1.5km程北へ行った小栗栖街道沿いの山科区勧修寺御所内町に埋葬された。
光秀の首塚⑤
首は豊臣方に渡り三条粟田口に晒されたが後に近くの白川沿いの現地に埋葬された。
2 件のコメント
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歌舞伎に「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」という演目がある。4世鶴屋南北には珍しい時代物である。
例によって太田晴信(織田信長)とか武智光秀(明智光秀)とか幕府を慮って名前を変えているが見る人には分かるような名付けである。
以下は信長、光秀と記載する。
劇の内容は度重なる信長の暴力や辱めを受けた光秀が謀反を決意するまでの経緯を描いている。
これは『仮名手本忠臣蔵』での高師直と塩冶判官の関係と全く同じ構図である。
〇信長は勅使饗応の役目を光秀に命じた
光秀は仕来り通り手筈を整えたが信長の不興を買い鉄扇で眉間を叩かれ傷を負った(上図参照)上に蟄居を命じられた
〇その後蟄居は許されたが満座の中、馬の足を洗う馬盥で酒を飲むのを強要された。
〇領地没収を仄めかされた(後に実現)
〇光秀の貰う予定の名刀は他の武将に渡された
〇光秀の浪人時代妻が自分の髪を切って売り生計を立てていた時代があったがその現物を晒された
ここに至り光秀は謀反の覚悟を決めるのであった
この芝居では光秀は本能寺襲撃時には現場にいなかった設定になっているが新史料の発見によりこの説を唱える学者も現れている。

歌舞伎に山崎の合戦の外伝というべき「小栗栖の長兵衛(おぐるすのちょうべえ)」という演目がある。岡本綺堂が明治になって書いた新歌舞伎の一つで、人の心はいとも簡単に翻るのを皮肉を込めて描いた喜劇である。
台詞も内容も現代劇に近く分かり易いので歌舞伎入門に持って来いの演目である。
京都伏見の小栗栖村に長兵衛という者がいて乱暴で悪行の限りを尽くすので簀巻きにして川に流そうとしている所へ豊臣方の武将が半分に折れた槍を持って現れた。
「昨夜光秀が討たれた(上図参照)武器は竹槍であるから農民の仕業に違いないと各村を回って詮議している。
この竹槍に思い当たる者はいないか」と尋ねると簀巻きにされている長兵衛が「それは確かに俺の槍だ。夕べ騎馬武者を刺したが柄を切られて逃してしまったのだ。家に半切れの槍があるから切り口を合わせてくれ」という。
調べてみると切り口はピタリと合い鼻つまみ者の長兵衛は一転して賊退治の英雄となって意気揚々と秀吉の陣へ赴くのであった。