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鳥羽伏見の戦跡を歩く

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1u4FUAvmtMHvfdBL7Rw-tbpnzfC7p8mQ&ll=34.96848716893001,135.76996662783026&z=13

3月4,5日を利用して戊辰戦争の始まりとなった鳥羽伏見の戦いの跡を歩いてきた。

伏見の街は史跡よりも酒蔵が目立ち独特の雰囲気のある街並みを形成している。
案内板も酒造会社のものが多く酒造りの街として売り出しているようである。
春を先取りする花も咲き凄惨な戦いがあったとは思えない街の佇みであった。



城南宮椿1.jpg

淀河津桜1.jpg

以下箇条書きで大政奉還前日から大阪城摂取までの様子を時系列に沿って記す。
(添付の地図にも簡単な説明有り)

〇慶応3(1867)年10月13日(旧暦、以下同じ) 薩摩と長州に徳川慶喜、会津、桑名討伐の密勅が下だる。

〇10月14日 15代将軍の慶喜は大政奉還を行う。

〇12月9日 朝廷側は王政復古の大号令を発し朝廷による政権運営を目指す。

〇同日夜 小御所会議が開かれ慶喜の辞官納地を議決。
〇12月13日 慶喜大坂城に入る。

〇この頃江戸では薩摩藩主導の浪士による略奪強盗放火が相次いだため庄内藩士によって江戸薩摩藩邸は焼き討ちされる。

〇 12月28日 大坂城に江戸での一連の事件の報告が届く。

〇慶応4年(1868年)元日 「討薩表」を作成し大坂城にて1万5000人の兵で挙兵。

〇1月2日 大阪城を出た旧幕府軍は淀城で陣形を整え鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれて進軍。

〇1月3日 鳥羽街道を進んでいた旧幕府軍は小枝橋付近に陣取っていた薩摩兵と遭遇。
「通せ」「通さぬ」の押し問答が交わされたが夕方になり旧幕府軍は強行突破を試みた。
これを見た薩摩兵は城南宮前に配置していた大砲を撃ち兵士も鉄砲で応戦した。

鳥羽伏見の戦いの幕開けである。

旧幕府軍は戦いになるとは想定していなかったので2列縦隊で行進していて鉄砲に弾丸も込めていなかったので総崩れとなり退却した。

同じ頃伏見でも伏見奉行所を本陣に据えて軍を展開する旧幕府軍と御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖していた新政府軍の間で通る通さないの押し問答が繰り広げられていた。
鳥羽での砲声を聞いて両軍の戦いが始まる。
御香宮や龍雲寺に据えていた新政府軍の砲撃によって伏見奉行所は弾薬庫を爆破され撤退を余儀なくされた。

〇1月4日 仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され錦の御旗と節刀が付与される。
薩摩軍が本営としていた東寺に入る。
戦いは旧幕府軍も持ち直して一進一退の状況であった。

〇1月5日 早朝征討将軍仁和寺宮嘉彰親王は東寺の本陣から戦場の視察に出発した。
錦の御旗二旒を立てて鳥羽街道を南下して戦況を視察した。
この時初めて戦場に錦の御旗が翻ったのである。
薩長軍は官軍となり旧幕府軍は朝敵となった。
前線兵士の士気は高まり勢いづいた。
又それまで今回の戦いは薩長と幕府との私闘と捉え様子見をしていた諸藩も新政府軍に加担していった。
更に慶喜は伝統的に尊皇精神を持つ水戸藩で生まれ育ったのでその衝撃と落胆は尋常でなかった。

〇1月6日 慶喜は表向きでは反転攻勢を仕掛けると家臣団を鼓舞したがその日の夜数名の側近を従えただけで大阪城を出て翌日幕府の軍艦開陽丸に乗って江戸へ帰った。
総大将のいなくなった大阪城は混乱に陥ったがそれぞれ城を去っていった。

〇1月7日 朝廷は徳川慶喜追討令を出し旧幕府が正式に朝敵となった。

〇1月9日 長州軍が空になった大坂城を接収して京阪での戦いは終わった。


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