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老老介護と高齢者延命

社会問題となっている老老介護。
老老介護の末緊急入院と言うパターンが結構あるそうです。
そして、嚥下機能低下でPICCやCVポートを身体に挿入し、高カロリー栄養を投与するある意味自然に逆らう延命措置。
かなり、自然に枯れたい高齢者にとっては苦痛なのは間違いない。
だが、家族が食べられない高齢者に輸液栄養を選択し、高齢者の終末を苦しめてしまう。
胃ろう、CVポートの状態で施設へ入所などおそらくは望んでいないだろうと考えます。


22 件のコメント
1 - 22 / 22
>ある意味自然に逆らう延命措置。

その医療技術を人間に授けたのも自然だと思ってます。
すくなくとも超常現象ではなく自然の中から人間が編み出したもの。

>家族が食べられない高齢者に輸液栄養を選択し、高齢者の終末を苦しめてしまう。

その時はね。その後、リハビリを経て自律できる生活に戻れた高齢者は幸福です。
動物だと、それが分からないから大変なんですよ、動物病院に連れてくのがw


下世話で申し訳ありませんが、日本のこれからは医療と防災だと思ってます。
日本総研の寺島先生の受け売りなんですが、彼の主張に一枚も二枚も乗らせて頂いておりますです。
短刀直入にいえば投資のハナシ。
げらげら。

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『鬼滅の刃』の冨岡義勇の名セリフ、
「生殺与奪の権を他人に握らせるな」

日本においては、「生殺与奪の権」を医療機関が握っている。

認知症専門病院入院中の87歳の父が肺炎となり、片肺が水没しており回復不能となった。
にもかかわらず、点滴を刺す場所が無くなり
中心静脈栄養法を実施をするので
私の許可が欲しいと。

法務局で保護責任者認定受けていたので、
拒否し後3回刺せる点滴も拒否。

父を3日早く死なせた。

死ぬ者を点滴針で痛い思いさせるに忍びない。
点滴の恐怖で血圧測定にも猛烈に抵抗、
どちらもゴムバンド巻くからな。
父にはその区別もつかなくなっており、
死ぬ者を恐れさせてまで血圧測定が必要かと、
それも停止させた。

歌、張り忘れた。

>社会問題となっている老老介護。

目覚めて最初に 見る顔が君
一日がはじまる
まどろむ前に 見るのも君さ
このやすらぎはエヴァー・グリーン

ゴダイゴのハピネスが出た時、二番めの歌詞で歌われてるエヴァーグリーンってなんじゃならほい?
ってな事だったんですが、日本語でいうと常緑、常盤。おめでたい言葉だったんですね。
常緑樹を指す事もあります。松とか縁起が良いので植樹したりしますね。

不老は無理だとしても老老介護の負担の軽減させる事は可能なのでわ?
自力で食べられなくても、流動栄養食・輸液はやりません。
自分で食べられないなら餓死してもらうしかないですよ。
どうぞ、食べるか死ぬか選んでください。
というような残酷なことを、当人を目の前にして言えますか?
ワンチャン体力が回復して助かるかもしれない、に賭けようというふうに考えてしまいますよ。
人生の終末期にどうして欲しいかの本人の意志を、事前に家族に伝えておく
「人生会議」
を厚労省や医師会が推し進めていますよね。
延命治療やめてとか、死に際はどう過ごしたいとか。終末期の選択を予め本人が決めるという事ですね。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02783.html

自然に死ぬか、精鋭の医療を受けるか人それぞれです。延命を選択した家族の事を、他人がとやかく言う必要も無いと思います。
もちろん「自分は個人的に望まない」と考えるのも自由です。

>> weqtio さん

高齢者にワンチャンはなく、幕を閉じる未来しかありません。
輸液でパンパンに浮腫んだ別人にして終わらせるのは虐待として世界的には通用しますが、日本人は少しばかり特殊な気もします。

>> がんばるじゃん@中世"JAP"ランド さん

自然に授かった技術は人間の死を変えて良いのかという疑問が残ります。

>> 伊勢爺い さん

早く死なせてあげるのは最大の愛情ですね。
人間は家族に生きていて欲しいと言う欲が優先して、死期が近い老人を苦しめてしまう。

>> さと さん

本人意思はとても大事です。
延命意思が想定外に苦しむ事を知らないままの延命意思はいざ死期がらきた老人へ家族が納得してできるかでしょう。
ブクブクに膨れ上がる身体はまるで別人に見え、結局は死んでいく。
知る限り、延命して良かったと言う家族に出会った事はなく、延命して後悔した家族にはたくさん出会いました。
世界的には、年寄りへの延命は虐待と言う認識がスタンダードかとは思います。
人それぞれの言葉ひとつで簡単に解決できる話ではないように思います。

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老人が食べられない状態で入院するとせん妄を発症する確率が高い。
この方は知り合いで、PICCと言う心臓近い静脈へカテーテルを入れて通常の点滴では補えないものをカテーテルで高カロリー輸液をするためにカテーテル手術しましたが、せん妄でカテーテルを抜いてしまい、手をミトンで拘束されてしまいました。
本人を守るために拘束はやも得ないのですが、見た目がとても悲しい。
これが老人介護医療の現実。
うちの親は「延命は要らない」と言っています。
今までの人生をそれなりに満足して余生を過ごしているんだろうな〜と思っていますし、希望に応え、兄妹で看取ることになると思います。

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>> 与作のラーメン さん

よいと思います。
画像は映画T2よりサラ・コナー、ボードに刻み込むの巻。

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>> weqtio さん

>ワンチャン体力が回復して助かるかもしれない、に賭けようというふうに考えてしまいますよ。

医者ってのは案外信用できない者だからね。
画像は削除された一部。
https://king.mineo.jp/reports/302164

https://jmjp.jp/ht/78165
>経口摂取に戻る可能性のある患者に、自院でも退院先でも嚥下機能訓練を実施しない医療機関は19%に上った。
生きることに執着しすぎて、余命宣告を受けてから

あと3日で死ぬ~いやだ~

あと60分!!

ああ5秒しかない!!

とか一々騒がれたら周囲が迷惑。


ぼけて自分が何者かわからない状態になってわけもわからず死ぬのも当人を苦しめずに死なす方法の一つ。
「本人の意思」も大切だけど、本当に生きることに執着するなら、元気な内から1日1日を大切にして、健康を心がけるしかない。

でも、健康に長生きをするために、「毎週運動するぞ!」なんて具合に本人が『意思』を持っていても、結局サボってしまうワケだし、
本人の意思というのは「健康に長生きするより、楽したい」ってのが「本人の意思」だったという事になる。
(自戒を込めてそう思う)

つまり、本人の意思なんてのは脆弱だし、意思に伴う行動力があって、初めて意思に強い価値が伴うのだと思う。

要するに「身体が元気に動くのに、何の行動をせずに意思だけあっても意味がない」のだし、
ましてや身体が動かないのに意思だけあっても、どうにもならないと思うんだよね。

いろいろやっても、山崎元さんのように、がんの告知を受けて、愛されながらこの世を去る人もいるけど、元さんの著書などを読む限り、死の間際まで悲観せず、人生に満足して短い命を終えた人もいる。

日々を豊かに過ごしていれば、山崎元さんのように死の淵に至って慌てることなく命を全うできるのだから、
「自分の意思」なんてものは、死の淵で自分や家族が考えるものではなく、日々、自分に問うべきものだと思うんだよね。
運動しすぎて関節擦り減らして人工関節を入れてしばらくしたら本当に歩けなくなっている人もいたりするわけで・・・
一時の感傷で延命させるのは高齢者も自分自身も苦しみます。

急変→延命処置せずはお咎めなし、
延命処置後にその処置をやめると殺人扱い。

北欧の社会福祉が手厚い国でも80歳以上の医療は積極的に行わないそうです。
それが自然&(敢えてこう言います)税金の無駄遣いをしないために。
少し前、『王の病室』という漫画が物議を醸しましたが、最初の4〜5話だけ皆さんに読んでもらいたいです(画像等は貼りません)。

濃厚な延命治療はいまの後期高齢者までが受けられる特権なのかもしれません。

複数の党が社会保障費問題の解決手段としての安楽死法制化を公約にしています。
今後の成り行きによっては、官僚が考え政治家が採決した法的基準を満たすと安楽死させられる可能性もあるということです。

>> 与作のラーメン さん

延命しなくて良かった、という家族もあんまりいないんですけどね。
簡単に死なせてしまったという後悔を言う家族ばっかりですよ。

>> (・∀・)♪ さん

分かります。
やる意思のある人はそう言うリスクを分った上で運動しますし、
やる意思の弱い人はそう言うリスクをイイワケにして、運動しないんですよね。

運動せずに健康を害するリスクと、気をつけて運動しても尚、健康を害するリスク、2つを天秤にかかれば単純な話なのに…

>> weqtio さん

老人はカンタンに死んでいくものなんです。
生まれたからには自然に食べなくなり、飲まなくなり死を準備しているのが自然かとは思います。医療が進み栄養さえ送り込めば誤嚥性肺炎のリスクがなくなり長く生きられますが、そこまでして生きている意味があるのでしょうか。
ほぼほぼ、家族の生かしたいの欲求のためではないでしょうか。

>> weqtio さん

「簡単に死なせてしまった」という後悔を言う家族ばかりかも知れませんけど、
「あと1ヶ月だけ延命すれば、後悔しなかった」みたいな改善の余地がある後悔なのでしょうか。

個人的な推測ですけど、
延命を終わらせるというのは「医者に回復の見込みがないことを告げられて血縁者に連絡するとかして、子供なんかは別れの挨拶をして…」という具合に、ある程度は心の整理を進めているのではないかと。

となると、お別れの挨拶を皆んなで終えたのに、ずっと生かし続けるというのも想像しにくいし、残された家族の時間や経済負担も踏まえてお別れをしたのだろうし、
「簡単に死なせた」と言いうのは『自分らを慰めるための言葉』であり、何だかんだで妥当なタイミングでお別れできているように思いますけど、
そのへん、現場を知るであろうweqtioさんはどのように考察しているのでしょうか。
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