開陽丸のことなど
念願の江差行である。
6:48函館駅前を出発する江差行のバスに乗る。
路線バスであるので乗降客の有無に関わらずバス停毎に停まっていくので時間が掛かるがJR北斗駅を過ぎると江差域内までノンストップで行き江差には9時過ぎに着いた。
曇りで霧もうっすらとかかっていて長袖シャツでも寒いくらいである。
因みに天気予報では最高気温22℃とのことであった。
先ずは開陽丸記念館に行く。
ここには1990年(平成2年)原寸大に復元された開陽丸が停泊している。
内部には1975年以降の海底調査により発掘された遺物や建造までの資料等が展示されていてちょっとした博物館になっている。
この後今回の旅行の眼目である開陽丸が座礁沈没した現場を見に行く。
海岸沿いに国道227号線が走っているがこの道の山側に江戸時代に建てられた旧横山家住宅(上図左)と旧中村家住宅(上図右)が登り坂に沿って建っていることから国道の海寄りの辺りが当時の海岸線であったと考えられる。
これは当時の絵図面からも確認できる。
開陽丸の遺物は防波堤の内外から発見されているので海岸線から200m程沖合で座礁したことになる。
現場まで行きたかったが工事中で立ち入り出来なかった。
開陽丸が沈没した付近の海図である。
A地区B地区は発掘調査区の呼び名である
開陽丸の喫水深は前部5.70メートル後部6.40メートルである。
当時の絵図では開陽丸は鴎島より沖に停泊しているので北西の暴風に流され水深の浅い所で座礁したことが分かる。
※本文の絵図や数値は開陽丸内部の展示資料に拠るものである。
帰りはJR北斗駅のバス停で降りJRに乗換え函館に戻った。
40分程の時短になった。
開陽丸の略歴
〇文久2年(1862)オランダに開陽丸建造を発注。
〇慶応3年(1867)
(4月)
開陽丸横浜に到着。
榎本武揚軍艦頭並に任じられる。
〇慶応4年(1868)
(1月)
兵庫沖で薩摩の軍艦「春日」と交戦するもお互いに被弾なく足の速い「春日」に逃げられる。
鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の始まり。
徳川慶喜を乗せ江戸に帰る。
(8月)
江戸城無血開城の条件として幕府所有の艦船の引き渡しがあったがそれを無視して艦船ごと脱走し北海道へ向かう。
(10月)
内浦湾の鷲ノ木村に到着後進撃を開始。
(11月)
榎本武揚開陽丸で箱舘に入港後五稜郭に入る。
江差占拠の陸兵援護のため開陽丸江差沖に到着。
15日夜半暴風雪に流され座礁。
10日後に沈没。
日本での存在期間はわずか1年7ヶ月で目立つ活躍もなく言わばオウンゴールの失点で制海権を失ったのは旧幕府軍にとっては多大な痛手であった。
これに対して新政府軍は甲鉄艦(東艦、元々幕府が買取を約束していた艦である)を購入したりで彼我の海軍力の差は更に広がり五稜郭での戦いの帰趨に影響を与えた。
函館奉行所は(前回紹介した旧函館区公会堂の下にある)元町公園にあったが外国船からの標的になり易いという理由で艦砲の射程距離外の地に五稜郭を造りそこに移転した。
戊辰戦争の最終局面で一時旧幕府軍に占領されたが明治2年(1869年)5月新政府軍の総攻撃時前述の(射程距離の伸びた)甲鉄艦の艦砲射撃を受け全面降伏し徳川幕府は完全に壊滅した。
今回の旅行での1日の最大歩数は6月26日の14999歩であった。
因みにその他の日の歩数は以下の通りである。
6月24日 9634歩
6月25日 11430歩
6月27日 12634歩
6月28日 12169歩
新千歳空港20:10発のピーチ航空にて帰阪。
家に帰り着いた時は日付が変わっていた。
(画像は関空出発時のもの)
了










