方広寺の梵鐘
京都国立博物館の南西隅に「大仏前」という名の交番がある。
調べてみると「あの」方広寺の大仏のことであった。
京博の北側に隣接しているというより京博全体も方広寺の寺域であってそれは道路を隔てた三十三間堂の辺りまで及んでいたという。
京博に接した所に豊国神社がある。
陶製の秀吉像の奥に立派な門がある。
この門は元を正せば伏見城にあったものを移築したものであり国宝に指定されている。
方広寺は豊国神社の北隣にあるが本堂よりも立派な鐘楼があり巨大な梵鐘(高さ4.2m、直径2.8m、重さ約83t)は見学自由である。
豊臣家滅亡の原因となった梵鐘である。
方広寺創建から梵鐘完成までの略歴を記す。
〇文禄5年(1956)
秀吉は天下人となって新しい大仏と大仏殿を造ったが開眼供養の1ヶ月前に地震が起こり大仏は損壊して(大仏殿は無事)計画は頓挫。
〇慶長3年(1598)秀吉没す。
〇慶長7年(1603)その後再建されたが工事中に出火して大仏大仏殿共に滅失。
〇慶長17年(1612)
秀頼により再建され大仏大仏殿完成。
〇慶長19年(1614)
梵鐘完成。
この梵鐘の銘の内「国家安康」「君臣豊楽」の文字が問題となった。
(現在この部分は白い塗料で囲ってありはっきりと見える)。
前文は家康の名前を分断している、後文は豊臣を君主として栄えるという意味だと言い掛かりを付け林羅山に至っては家康を呪詛しているとまで言った。
家康は鐘の銘文が不快であるとして大仏殿供養の延期を命じた。
豊臣方には内紛も生じ徳川方との交渉も出来ず大坂の陣が起こり豊臣氏は滅亡した。
梵鐘は明治の廃仏毀釈にあって一時野ざらしになっていたが明治17年(1884年)に鐘楼が再建され今日に至っている。
本堂は鐘楼よりも見劣りするが創建当時の大仏の1/10の大きさの廬舎那仏が安置されていて外部から一部を観ることが出来る。
寺内の一角に蔓性の植物が植えてあった。
品種は考えるまでもないが一応確認してみた。
『季刊大林』 57号 「方広寺大仏殿の復元」(2016)では建設会社としての視点から方広寺大仏の復元を試みたもので一見の価値ある大作である。
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/057_IDEA.pdf








