1995.1.17は...
いつもお世話になっております、wzjmです。
1/17は、阪神・淡路大震災から30年の節目ですね。
震災当日に犠牲になられた皆様には、心よりお悔やみ申し上げます。
さて、皆さまは、1995年1月17日はどこで何をされていましたか?
そして、思い出をコメントしてください。
※アンケート項目について
子ども→小学生以下
学生→大学院・大学・専門学校以下
社会人→お仕事もしくは家庭を持っているもしくは無職
1995.1.17は...
39件の回答
社会人で、震災を体験していない
31% 12件
社会人で、震災を体験した
31% 12件
学生で、震災を体験していない
10% 4件
子どもで、震災を体験していない
8% 3件
その他(コメントしてください)
8% 3件
まだ生まれていない
5% 2件
学生で、震災を体験した
5% 2件
子どもで、震災を体験した
3% 1件
忌まわしい記憶なので、思い出したくない
45 件のコメント
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地震の際にバタバタバタと教科書類が落ちて目が覚めました。
地震を知り直ぐに電話で無事を確認しました。
早起きしたぶん、通話規制かかるまえでした。
携帯も無い時代ですね。
あれから30年かぁ
消防車が県またぎで行ってもホースの口が合わないとか当時はあったなぁ。
自衛隊に派遣要請が出せなかったり、今では全く世の中が違います。
あれから、もう30年ですか。
時の経つのは早いですね…。
1.17の集いのリンクを張っておきます🙏
https://117notsudoi.jp/
神戸のコメ当選の話題ラッシュで埋もれてしまったのかも知れませんが。
ここには大阪とその周辺の人の比率がかなり高いはずなのに、30年経過で風化というんでしょうかね。
知り合い同士で語り合うことも年々どんどんと減ってきているのではないか。
親が子供に地震体験を話す機会も遠のいてきているのかな。
心の外傷、トラウマで、その話しに触れるとフラッシュバックでつらくなる、という側面もあるとは思いますが。
明け方のこと。朝のニュースなどでは報ぜられず( 首都圏 )、会社のバスのラジオで初めて知った。様子がわかり出したのは昼前くらいでした。
30年前の記憶も鮮明です。次の会社に移ったのはこの年だった。
ただ地震については、耐震化しておけば、建物の倒壊や大きな損傷を免れる事は、阪神淡路大震災で明らかになりました。
その後の地震でも家屋の被害のニュースがあるたびに、地震が来る前に耐震化しておけば悲劇は起こらなかったのにと思います。
被災者のニュースを通じて、家屋耐震化の行動に結び付くようになればと思います。家具の転倒防止をしても建物が崩れては何の意味もない気がします。
ちょうどPanasonic系パソ通(大阪サーバ)で
大阪の友人たちとチャットしていて、
リアルタイムで情報が伝わって来ました。
千早赤坂でオフ会もした友人たちだったので、
誰が無事とか住居がどうとかという会話だった。
若かった分行動的だったなー。
当時は社宅に住んでいて、嫁さんを起こして、タンスが倒れてこないように二人で押さえてました。
新幹線が動かないので、飛行機で東京に向かうべく、伊丹にタクシーで向かいましたが、その途中で街の損壊を見て、被害がとても大きいことがわかりましたね。
18時過ぎくらいの臨時便が取れ、それを待つために空港近所の居酒屋に入ってテレビを見て、状況が少しずつ分かってきたという記憶があります。
前輪だけ落ちて引っかかってる映像が鮮明に覚えてますね。それと阪神高速でピルツ構造の橋脚が根元から倒壊してるのは衝撃的でした
今でもハッキリ記憶に残ってて
その時どんな揺れ方をしたか、家が壊れるんではないか、特にあの時の『ゴーと言う音』は今でも同じ様な音を聞いたら身構える時が有ります( ;꒪⌓꒪;)
今も全国で大きな地震が起きてて、東海、南海地震が囁かれてる中、日頃のストックや逃げ道は再確認が必用ですね。
お亡くなりになられた方の御冥福をお祈りします🙏
JRの近くだったので汽笛が鳴り響くのを聞いて「あ、脱線したんだな」と思いつつまだ出勤時間までは時間があったのでもう一度寝ようと思ったのですが(笑)やはり無理で、明るくなってきた頃起き出して部屋を確認するとそりゃひどいことに。
とりあえず掃除しないとと思い幸い停電してなかったので、割れた食器を片付け、倒れた食器棚を起こし掃除機をかけて綺麗さっぱりしたところで、今でこそ当たり前かもしれませんが、当時はなんの予備知識もなくお風呂に水をいっぱいためておきました。まだ断水の情報はなく、なんとなく「とりあえず入れとこか」みたいな感じでしたがこれが後々助かりました。後でガスはアウト、水道も断水ということを知ることになります。マンションのタンクに残っていて、且つ電気が通っていたのでしばらくは出たのでしょう。
テレビを付けると地上波が映らない(地域的にケーブルテレビが来ていたのでおそらく大元のダウンか)ので幸いうちはWOWOWの開局と同時にBSを契約をしていたので、NHKを見ると徐々に徐々に情報が集まってきました。
実家が徒歩圏だったので家を片付けたり、友人などと連絡を取り合ったりして日中は時間があっという間に過ぎていきました。(まだこの日のうちは普通に連絡できました)母と妹(父は韓国に出張中)が小学校に避難するというので、後に覗くともう体育館いっぱいの人で諦めて帰ってきました。
夜はテレビを見て情報収集や(地上波もどこかのタイミングで復旧していました)年末に買ったばかりのプレイステーションをやったり(笑)余震も続いていましたし、夜通し鳴り響く救急車のサイレンであまり寝れなかったのもあります。食事をどう取っていたのかはほとんど記憶にないです。
翌日からがまた大変だったのですけど。
神戸で被災し、とても怖く、もうダメかと思った記憶があります(社会人でしたが)
未明に突然目覚めた後で揺れ出し、驚きました😰
高校の物理の先生が、P波とS波の時間差を計算して神戸辺りの地震と分析した、という逸話を聞きました。
建物の影響はほぼなく、タイルやコンクリートのごく一部にヒビが入った程度でした。
1995年の手書きの手帳によると、
・本箱の本が殆ど落ちた
・車で会社に行った(当時の職場は、神戸と反対方向)
・会社の机やコピー機などが、勝手に移動していた
・会社の書庫から、大量に書類が落ちて散乱
・会社からの帰りに3時間かかった(通常は40分程度)
・夕刊が届かなかった(翌日、ペラペラの朝刊と一緒に前日の夕刊も届いた)
当時は神戸新聞でしたが、確か京都新聞に協力してもらって発行した、と言うことだったと思います。
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/tsunagu/newspaper/
「阪神・淡路大震災から15年 神戸新聞の7日間 〜命と向き合った被災記者たちの闘い〜」
フジテレビで2010年に放送したドラマです。前のテレビに繋いだHDDに入っていたのですが、今のテレビに買い替えるときにレコーダーにムーブするのを忘れてしまって(T_T)
あのときの想いが蘇ります。涙なしでは見れません。
棚の物が落ちたりすることは無く、自分達には被害がないのが幸運というより不思議な感じでした。二三日すると神戸から買い出しに来ている人がいました。
自宅2階で就寝中でした。揺れが収まって被災が
ないかみてまわりました。幸い家族、実家も軽微
でした。バイクで会社に行きますと事務所はスチール引き出しが飛び出した程度でした。
グループを組んでボランティアへ参加しましたが
倒壊した建物、座屈したビルをみて地震の凄まじさを目の前にしました。
震災当初の報道は、大阪の状況がほとんどで、兵庫県の情報は一歩遅れていたと記憶しています。そして、大阪よりも遥かに酷い状況と知り、驚いたのもよく覚えています。
「大地震で建物は倒れるもの」から「大地震でも建物は倒れない」ことが分かったとも言えます。
耐震化されていない1981年以前の建物の耐震化が進むことを望みます。
>> marumaru218 さん
新耐震基準改正による建築基準法での建物審査適合は 1981年6月1日以降ですので 1981年 前半は旧耐震となります。 施行まで予備期間があります。現在でも新耐震基準以降も改正があり更に地震に強くなっておりますが、液状化現象に対してまだまだ考え要素が多くあります。 今回の能登半島地震で液状化現象がおきた内灘町の被災があった建物の多くは新耐震基準以降の建物で、建物は壊れずに傾いたり、ずれた状態でした。 宅地造成時の液状化対策を講じる必要性が高いと考えさせられました。 液状化対策を講じた
対岸の金沢市瑞樹団地では被害はみられませんでした。
当日は、成人の日の振り替え休日が終わった火曜日の早朝5時46分でした。
2度寝中で身体全体が放り上げられたと思ったら、バキ!とタンスの折れる音と共に落ちてきました。
布団の緩衝で怪我は、ありませんでした。
書き綴ると長〜イ話になります。
頭に当たってたら、即死です。
電気は切れてます。
懐中電灯を取りに何時も置いてる所にて探りて這うように取りにいきました。
水道管の破裂による激流でした。
6時前には、止まったと思います。
30m程離れた所に、山陽電車の線路があります。
傾いた電柱が連なってるし、線路は波うってるし、沿線の家々から線路側に色々なものが滑り落ちてました。
あちこちでガスの漏れる臭いが鼻ついて臭ってきました。
消防車が来ても、放水を確認できませんでした。
18日の号外によると585,000戸の断水してた様です。
米、灯油など持ち寄ってしのぎました。
3日目頃から、支援物資が避難所などに届き始めていっぱい助けて頂きました。
あれから30年が経つんですね…。早いものですね。
>> maemaechin さん
我が家の高さ2mあるレンガ造りの塀が道路側に20m倒壊しました。新聞配達員さんが犠牲にならなかったのが、幸いでした。
日夜配達ご苦労様です。
くれぐれも気を付けて配達してくださいね☺。
https://youtube.com/shorts/lmkrJeXEkhU?si=ncIVeKFpAvHYEmxi
こんな酷いことが起きていたなんて…これは知りませんでした。
節目ということで色々ネットで資料を探しに彷徨っていますと、目に留まるものがありましたので紹介しておきます。
東灘が最も酷かったと思ってはいましたが、芦屋市が結構高かったのは意外でした。高級住宅地のイメージですが南の阪神~JR沿線あたりはまだまだ古い家が残っていたということだったのでしょうね。
当時職場が東灘だったので、しばらくは芦屋から(2月頃にはJRが芦屋止まりで通ったので)2号線を歩いて通勤していたのですが、確かに2号線からちょっと入ると車は通れないだろうなという場所がいくつもありました。
この頃になるとあの寒い中通ったことを思い出します。
http://www.isobesatoshi.com/data/sisya.html
>> ホットウォーター さん
経験を語ってくださりありがとうございます。ぜひ、この後も書き綴っていただけますか。最後まで読ませていただきます。