震災の情景 2題
1995年1月17日
この日はシンガポールに行く日であった。
11:00のフライトであったのでそれから逆算して7:00に起きたら間に合うなと思い寝た。
早朝大きな揺れで目が覚めた。
テレビと冷蔵庫が倒れ戸棚の食器等散乱していた。
余震を警戒して部屋にいるよりも駐車場の方が安全と考えて荷物を持って車の中でラジオを付けて情報を得た。
情報は錯綜というより少なすぎて公共交通機関が停まっているくらいのことしか分からなかった。
私のチケットは例によって日時便の指定された格安チケットであったので今日のような大地震でも適用されるのではないかと思い取り敢えず空港まで行こうと表通りに行きタクシーを拾った。
空港へ行く南行きの道はそれほどでもなかったが大阪方面に行く対向車線は大渋滞で空港への分岐点である泉佐野でも和歌山方面からの道路は車が連なっていた。
タクシー代は16000円程であったがタクシーの帰りの苦労を思って20000円払って降りた。
空港の出発便のボードに便名は載っていたがどのような状況であるは分からなかった。
シンガポール航空のカウンターに行って訊いたが滑走路や設備の点検中で飛ぶかどうかも分からないので待機しているようにと言われた。
待合室のテレビでは高速道路やビルの倒壊した様子が映し出され想像以上の災禍であると分かった。
死者は大阪で1名であると報道されていたが兵庫側は被災者の数を把握するほどの体制がまだ取られていなかったと思われた。
午後2時頃から搭乗手続きが始まった。
乗客は7人であった。
飛行機は北向きに飛び神戸上空で反転して南へ向かった。
地上から数本の煙が立ち上っているのが見えた。
翌日日系のデパートの入り口に日本の新聞のコピー(註1)が貼ってあり損害は甚大であることが分かった。
(註1) 当初FAXをカタカナ5文字で記していたが最初の4文字が検閲に引っ掛かり投稿を拒否されたのでコピーと書き直した。
言葉だけでの検閲はいい加減やめて欲しい。
帰国して家に着くと留守電が数件入っていた。
一本は旅行会社からのもので旅行に行ったかどうかを尋ねる内容であった。
行かなかった場合返金や予約変更してくれたのだろうか。
他は付き合いのある会社からであった。
要件は想像できたが行ってみるとその通りであった。
「明日からでも仮説住宅の建設現場に行ってくれ」とのことであった。
「私は仮枠大工で造作はしたことが無い(註2)」と一旦は断ったが
「今は一人でも手が欲しい道具を持っているんだから行ってくれ。他の者も行っている」
とのことで翌日川西市の自衛隊駐屯地に赴いた。
中国自動車道沿いにある広大な敷地に6軒長屋の仮説住宅が数棟建っていた。
まだ基礎の杭を打ち込んだだけの場所や縄張りだけの場所もあり完成すれば100戸程の団地になるようだった。
(註2)造作大工とは基本的に木材で柱や梁を現場で組み立て屋根を葺き内装工事をして家を建てる在来工法の職人である(下図左側)。
仮枠大工とはコンクリート造りの比較的大きな建物を建てる時コンクリートが図面通りの形になるようにパネルを使って型を作る職人である(下図右側)。
この震災での仮設住宅のスケジュールは以下の通りで可成り迅速に実行されたことが分かる。
建設発注日 1995年01月19日〜1995年06月27日
建設期間 1995年01月20日〜1995年08月10日
入居期間 1995年02月02日〜2000年01月14日
全設置数 49681戸
合板を張ったプラットホームの上に軽量鉄骨で家の骨組みが組んでありそこに天井、壁、押し入れ、敷居、鴨居を取り付け部屋を完成させるのが仕事であった。
現場監督は簡単な略図を渡しただけで時々本職が見に来るからと言い残して他所の現場へ行った。
図面から2Kの部屋であることは分かった。
2Kの部屋は仮設住宅建設を早期かつ大量に供給するために「平屋2Kタイプのプレハブ住宅」を標準タイプとすることが厚生省、建設省、兵庫県の協議により決定されたもので神戸市の場合建設戸数全32346戸の内23423戸を占めていた。
下図は左右対称形の2K2戸分の間取りである。
本職なら略図を見ただけで分かるのだろうがTの字になった部位の納まりとかは分からない。
割り当てられた部屋は壁と天井は既に出来上がってた。
朝2時間程職人と一緒に作業をして色々教えてもらった。
袖壁を作っている時職人が見に来て
「ちりがない」と言い出した。
「ちり」とは柱の表面から壁までの段差のことで和室造りでは常識の事らしい。
段差の部分には畳寄せという見切り材を取り付け敷居と一直線になるようになっていた。
私の造っていたのは柱と壁が同じ面になる大壁造りという洋間での様式であるらしかった。
急いで作り変えて事なきを得た。
私が関わったのは全てこのタイプであったので日が経つに連れ慣れてきて作業効率は良くなり最後には一人で作業しても2日も掛からずに1戸完成出来るまでになった。
3月の中旬に川西市での内装工事は終わった。
通勤は朝早く起きなければならないので現場近くで泊まれる所を探して兵庫県明石市の建築会社で働くことにした。
食事付きの寮生活で現場も車で15分位の近場にあった。
3月20日昼食のため休憩室に行ったがテレビはどの局も東京の事件を伝えていた。
オウム真理教のサリン事件であった。
2ヶ月の間に2件の衝撃的なことが起こり今年はどうなることやらと暗澹たる気持ちになった。
4月頃になると国内産の仮設住宅の生産が追い付かなくなり外国から輸入するようになった。
全仮設住宅数48300戸に対し輸入物は3319戸を占めた。
内訳は韓 国、アメリカ、カ ナダ、オーストラリア、イギリスで韓国からの1250戸が最も多く他は100~500戸であった。
私が働いていた現場の一角にはイギリスの仮設住宅も建っていた。
材料だけでなくイギリス人の大工も数人一緒に来て働いていた。
開口部は出入り口用のドアだけの大きなコンテナを設置して窓の部分は寸法を測り丸ノコで切り取るという大胆な工法を採っていた。
その後間仕切りや天井を張るのだが木材の結合に釘は使わずビスだけでやっていた。
従って金槌は持ってなくインパクトドライバーのみを所持していた。
斜め打ちが多く間柱の垂直が保たれているかが気になったが躯体が堅牢であるので少々のずれは気にしていないようだった。
4月の陽光は暑いのか上半身裸で作業していたが金色の産毛が日光を受けて煌めいていたのが印象的であった。
5月になると仮設住宅の大方は完成していたので仕事は止めた。
個人住宅も地震に強いコンクリート造りで再建する家も出てきたので10月から友人と一緒に地元の建築会社で請取り仕事を始めた。
12月の初め現場事務所にWindows95搭載のパソコンが設置されその簡便さに驚いた。
私も欲しくなりNECの「Canbe」というブラウン管のモニター一体型のパソコンを入手した。
画像が上から順にジワーッと現れて来ていたのが懐かしい。
こちらはインターネット元年の久し振りに明るい話題であった。
この時の造作の経験は2年後に一人で家を建てた時(既出)に大いに役立った。
何事も経験するのは良いことだ。
典拠
https://www.shinsaihatsu.com/data/kasetsu.html






あれから30年。
まだまだ改善すべきことが多くあるように思います。
熟練の職人はトラブルに会っても次の策その次の策と色々な解決法を持っています。
ロボットや座学だけの現場監督より柔軟に動けます。
現場力をもっと重要視すべきと思います。
コメントと多数のチップを頂きありがとうございました。
>> parlng さん
そうですねAIは頭でっかちですので現場に出てもフラフラするだけで役に立たないどころか危険でもあります。
コメントありがとうございました。
>> seno01 さん
宛名抜きで返信したようで申し訳ありません。改めて送ります。そうですね
熟練の職人はトラブルに会っても次の策その次の策と色々な解決法を持っています。
ロボットや座学だけの現場監督より柔軟に動けます。
現場力をもっと重要視すべきと思います。
コメントと多数のチップを頂きありがとうございました。
当日、シンガポールにご出発の日だったとのこと、タクシーで行かれたこと、空港でのカウンターの対応などもとても参考になりました
(例の関空で問題を起こした台風の日に家族が国際線で出発する予定でしたが、橋が封鎖になるかもと前泊するべく家をでました。そして、夕方関空で念の為にカウンターに行きましたら、前倒しで飛行機に乗せてもらえるということが、、、)
そして、仮設住宅のお仕事でものすごくご活躍されたのですね~。素晴らしいです。
文章もいつもながら本当に臨場感が伝わってまいりました。ありがとうございました。
>> まきぴ~ さん
関空へ行こうとした時連絡橋が封鎖されているかどうかは全く考えていなかったです。電車が不通なので道路も通れない可能性があったのに結果オーライでしたが浅墓な行為だったと反省しきりでした。件の台風の時は当時住んでいた家が被害を受け取り壊しとなり一時家なき子状態でした。
仮設住宅は70戸位は造ったので微力ながら貢献できたと自負しています。
コメントありがとうございました。