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パチンコの科学

『 ロウソクの科学』という著書がある。
イギリスの科学者ファラデー翁が少年少女を相手に行った実験や講義を記録したもので ロウソクの製法燃焼時に起こる物理や化学の現象をやさしく解説している本であるが、惜しむらくは内容が化学に偏っているきらいがあり人文科学的要素が全くない。
いろいろ考えた末にパチンコを題材にしたら科学全般を網羅できるのではと思い付いた。
歴史学、経済学、法学、政治学、数学、物理学、心理学、病理学等多岐に渡り開陳出来る筈である。
それにはまず実践が必要である。

そうだパチンコ行こう

私が初めてパチンコと出会ったのは1960年代の後半であった。

パチンコ店に入ると入り口の近くか奥の方にカウンターがありそこでパチンコ玉を借りる。
下図のような玉貸し機があり後ろにあるレバーを横に引くことで100円刻みで下の出口から球が出てくる仕組みになっていた。
200円位までは両方の手の平で受け取ることが出来るがそれ以上の時は図のように小型の箱で受けていた。
因みに当時の球は1個2円であった。

パチンコ玉貸し機1.PNG

その球をもって空いているパチンコ台に行く。
パチンコ台の選び方は各自が個々の理論を持っていて様々であったが私の理論はあまり出てない客の近くで打つというものであった。
なんとならば当時の球の処理は全て人力で行っていてパチンコ台の並んだ島の内部には
女性の店員がいて床に貯まった客の打った外れ玉を台の上にある入賞用の皿に補給する作業をしていたからである。
この作業は重労働であるので球の上げ下げは成る丈歩き回らないで済むように出玉が均等になるように調整されていると考えたからである。
この球の補給作業の他、客からの玉を上げろとか下げろとか要求にも応じなければならないこともあった。
これは入賞用の皿にある玉の量によってパチンコ台の傾斜が変わるので玉がチューリップに入り易い傾斜を保たせるという理論(?)に基づくもので結構多くの人が信奉していた。

因みにパチンコ台一般的に0.45度の傾斜を付けることが多く高さは約80cmある台の上部を奥へ13mm程入れた状態で取付けてある。
これは玉がパチンコ台のガラス面に触れず盤面に最小の摩擦で接する絶妙な角度であると言われている。

当時のパチンコは立って打っていた。

縦に置かれた台を立って打つとことによって当時のもう一つの娯楽であった(緩やかな角度の横置きの)スマートボールと比較すると1台当たりの専有面積は半分以下で済んだ。
単純にいうと同じ敷地面積のホールで2倍の客が遊べ、2倍の収益が上がるということである。

左手で球を一掴みして親指の先でパチンコ台の右下にある穴に一個づつ入れて右手の親指でバネ式のハンドルを弾いて発射していた。
盤面の中央と左右にチューリップがありその中に球が入るとチューリップが開き次の球が入りやすくなるようになっていた(下図左側の画像)。
開いたチューリップに同時に2個入ると又開くので球を複数個入れてハンドルを強く弾いていたがそうそう入るものでもなかったしバネに負担が掛かるので複数玉入れるのを禁止していた店もあった。
その後手指で入れていた玉を自動的に入れられるよう上皿も設置されるようになった(下図右側の画像)。

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その後パチンコ店全体の玉の循環を自動化した完全自動補給装置が開発され裏回りの女性たちは重労働から解放されたが店の表回りの仕事は男性で占められていたので結局は失職することになった。

この頃椅子席も設置された。
更にカウンターにあった玉貸し機も島の端やカウンターの脇にコイン式自動玉貸し機として置かれ(下図左側の画像)1972年にはパチンコ台の横に設置されるようになり(下図右側の画像)座ったまま玉を買えるようになった。
同じ年には手打ちに替わって電動式ハンドルも認可された。
このような改良を加えパチンコは大流行し娯楽の王様と呼ばれるようになった。

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しかしパチンコが娯楽の王様の時代は短かく全国的に爆発的に広まったボーリングの流行に押されてしまった。
だがボーリングは始まった時と同じように急激にブームは去った。
皮肉なことに潰れた郊外のボーリング場の多くはパチンコ店に改造され前にも増してパチンコは栄えていった。

間寛平の歌う「ひらけ!チューリップ」はこの頃(1975年)のもので130万枚の売り上げがあった。
曲中の店長の檄も同様なことを実店舗でも繰り返し喋っていた。
軍艦マーチもテンポの違う2種類の曲が用意されていてそれを巧みに使い分け客を煽っていた。

次の危機は1970年代末期のインベーダーゲームの登場であった。
1978年タイトーが発売した「登録商標名・スペースインベーダー」は瞬く間に全国に広まりゲームセンターだけでなく喫茶店やスナック等にも導入され 社会現象ともなった。
インベーダーゲームの大流行はパチンコ業界を諸に襲いパチンコ店は1979年に1万軒を割り込む事態となった。

これに対抗しようとして開発されたのがフィーバー機と羽根物であった。
フィーバーはスロットマシンと似てはいるがパチンコ機としては革命的な構造をしていた。
パチンコ台の「フィーバー」「FEVER」は本来は三共の登録商標であるが今ではNHKさえもフィーバーと呼ぶようになり普通名詞化している。
他社が同様な機種に付けた「ブラボー」「パニック」「ターボ」「ルーキー」「エキサイト」等は今では完全に死語となっている。

玉がチャッカーに入ると中央のドラムが回り🎰と揃い更に上部のセグメントが7になれば大当たりである。
下にある入賞口が30秒開き玉1個に付き10~15個の払い戻しがあった。
30秒間に入る玉の数に制限はなくアタッカーの中にあるVゾーンに入賞する限り無制限に繰り返す仕組みになっていた。
但し出玉には4000個とかの上限が決められていてそれに達すると打ち止めとなっていた。
その他に7が2個の場合小当たりとしてアタッカーが7秒程開いていた。
余りにも射幸性が強いとのことで翌年にはアタッカーの開放時間は15秒、10ラウンド、13カウントとかの規制が掛けられた。

フィーバー台は海物語等の独自路線やアニメや映画とコラボしたりと現在ではホールの8割以上を占めるまでに至っている。

羽根物

フィーバー機の翌年(1981年)に登場した機種である。
これも従来の機種には無かった構造をしていた。
下部にある開放チャッカーに玉が入ると中央の役モノが開き玉を拾いVゾーンに入れば役モノガ開閉を繰り返し玉を拾いやすくなり、玉がVゾーンに入れば又開閉を繰り返す仕組みであった。
平和工業から発売された『ゼロタイガー』の初号機の役モノが飛行機の羽根を模していたので「羽根モノ」と呼ばれた。
当初は18回開放、最大8ラウンド継続、入賞数に制限が無く1ラウンドで15~20個の入賞も可能であったが規制が入り1ラウンドで10個入賞した場合は羽根の開放回数にかかわらず強制的に終了するようになった。
1986年登場の『ビッグシューター』では役物内部に球を貯留する機構が搭載され貯留を生かし大当り中の継続をしやすくなり同様の機種が続々と発売された。



フィーバーと羽根物の登場と共にインベーダーゲームの流行も終わりこの後のパチンコ業界は下図のパチンコ店数の推移を見れば分かるように繁栄の道をたどっていくこととなった。

パチンコ店数推移.PNG


本日はこれ切り


6 件のコメント
1 - 6 / 6
掲示板にはもったいない?内容です。今では「打止め」も死語でしょう。
入ると球が出るのでなく、入らずに下まで行くと、球の出る台がありました、70年代末。これはすぐすたれた。
続篇期待しています。
スーパーコンビ世代です😁
台を引っ張って飛び出たことがありました😅
全力で押し込みました。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> ミチロフ@エース→ベテラン さん

>入らずに下まで行くと、球の出る台がありました

こういう台があったのですね。
知りませんでした。
打ってみたいです。

貴重な情報とコメントありがとうございました。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> Y. Daemon@ポリアモラス さん

スーパーコンビ

懐かしい台ですね。
玉が大当たりの穴に寄って行くとどうしても台を動かしたくなる衝動に駆られました。
大当たり中の「静かな湖畔」のメロディーも軽快で心地良かったです。
一発台も一つのジャンルとして確立していましたのでいずれ書きたいと思っています。

コメントありがとうございました。
娯楽の殿堂 重要有形文化財 認定〜〜〜〜〜!
ゼロタイガー😳😳😳

名機でしたね💡開閉18回目のV入賞は鳥肌物でしたね😃
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