もっとも古い記憶
自分の最も古い記憶はいつ頃のものであろうかと考えてみた。
生まれて直ぐ浴びた産湯の事よりも以前の胎内での記憶を覚えているのも結構あるらしいが眉唾も多いという。
1歳の誕生日の夜私は掴まり立ちが出来たそうである。
両親は喜び兄弟もはしゃいで団欒は盛り上がった。
その最中に玄関の戸がそっと開けられて靴3足が盗まれたのには誰も気づかなかった。
まだ戦後の物不足の頃でそれほど珍しいことではなかったようであるが悲喜を同時に味わうことは滅多にないことでその後事あるごとに話題に上がった。
同じ話を何度も繰り返し聞いているとその話が自分の体に染みついて自分の記憶として定着してしまったのかもしれない。
その話が出ると私は食卓の向かいに親がいて左右に兄弟がいる絵面が浮かび、ご丁寧にも玄関の戸を開ける盗人も映像として出てくる始末であった。
以上は完全に誤認で妄想の記憶であるが自身の記憶として残っているのは3歳の時である。
母の親が亡くなって葬儀があったが白装束の遺体を桶の中に体育座りの格好で納めていたのを覚えている。
所謂座棺屈葬である。
外部を縄で縛り太い竹竿を通して墓地まで担いで行きそのまま埋葬していた。
4歳の頃近所の子供が遊んでいる所へ手に塩を盛って行き
砂糖だといって舐めさせようとした。
見透かされていたようで砂糖だったら 先ずお前が舐めろと言われ思い切って舐めてしまった。
気持ち悪くなってゲーゲー吐いたのを覚えている。
夏になるとたらいで行水をしていた。
たらいに熱湯を入れた後水を入れ温度調整をしていた。
ある日熱湯の入ったたらいの縁に立って水で薄めてもらうのを待っている時にバランスを崩したらいは立ち上がり私は熱湯を諸に被ってしまった。
直ぐに水をかけ冷やし近所の医師に往診してもらい薬を塗ってもらったがヒリヒリして数日痛かったのを覚えている。
火傷の痕も残っていないのでそれほどの熱湯でも無かったのかもしれない。
傷痕といえば包丁と枝切り鋏で兄とチャンバラごっこをしていて兄が振りかぶった包丁の刃が抜けて私の額に当たったこともあった。
この傷痕は今でも残っている。
これらは子供心にも衝撃的だったので記憶に残ったのであろう。
日常のことなど何にも覚えていない。


再合成してるから当てにならぬ。
その場合場合は画像記録として残っているが、
場面に己自身が出てるのは変だと思う。
小学2年生の冬に学校の小池に落ちてずぶ濡れ。職員室のストーブで温まり母が着替えを持って来るのを待っていた。
木切れを小舟に見立てて遊んでいて落ちたが、
記憶なら水面が記憶となるはずが、
遊んでいる私がいる情景として残っている。
私の画像記録にはほとんど私が登場する。
私の初めの記憶は、同居していた祖父のお葬式。集まっていた従兄弟たち ほぼ同年代 に、亡くなる前に倒れたとき(たまたま一緒にいた)のことを話した、というよりそのときの声と身体の動きを真似した。お葬式で笑いをとろうとする、とんでもないガキです。
今アルバムを発掘してみたら、私は3歳3ヶ月でした。
>> 伊勢爺い さん
小さい頃の記憶は周りの人からの話が刷り込まれて自分の記憶として定着するのが大部分でしょうね。鳥の目になって自分を俯瞰できるのも記憶の一つの在り方だと思います。
貴重な体験談ありがとうございました。
>> ミチロフ@エース→ベテラン さん
天才の記憶など我ら凡才の及ぶところではないですが他の天才の出生時の逸話は聞いたことがありませんね。生まれて直ぐ7歩歩いた偉人はいましたが...
私の子供はお葬式で坊さんがお経を読んでいる時♫やっとこやっとこ繰り出した♫と「おもちゃのマーチ」を歌いだしました。
上位の坊さんが高い帽子をかぶっていたのでおもちゃの兵隊を想起したものだと思います。
子供にとって人が集まって賑やかな葬式なんてそんなものでしょう。
コメントありがとうございました。