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中国の列車のことなど

平成前半の話である。

中国の列車には硬軟という等級と座臥という用途を組み合わせた4種類の車両がある。

〇切符の買い方
切符は窓口に並んで買えるがいつも長蛇の列で前の方では横入りが多く中々進まない。
自分の番になったら行き先と等級を言えば売ってくれるが外国人と分かれば外人用の売場に行くように言われる。
大きな駅には外国人用の部屋がある。
ここは並ばなくても直ぐに買えるが硬座のチケットは売ってくれない。
更に外国人料金で徴収されるので料金は一気に跳ね上がる。

上海駅引率.PNG

〇鉄道の乗り方
駅前広場に列車の次数、出発時間を書いたプラカードが何本か立てられているので自分の乗る列車のプラカードの列に並ぶ。
出発時間の15分位前に駅員が先導して改札口に行く。

〇硬座
普通車
改札を抜けると皆猛ダッシュでホームに走る。
全席自由席であるから早い者勝ちである。

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グループ客だと先に乗った者が窓を開けそこから仲間を乗り込ませたりしている。
各自の荷物が多く更には日常使いの布団や鍋釜持参の者もいて狭い車内は増々狭くなる(上図左側の人はブラウン管テレビを背負っている)。
座席は木製で座面と背凭れは直角で固定してある。
身動きの取れないまま列車は出発する。
トイレに行って帰ってみると他の誰かが座っていたりする。
子供はその場で垂れ流し
硬座は正に中国の縮図である。

中国列車.PNG

〇硬臥
2等寝台
向かい合わせの3段ベッドがベースとなっている。
窓側に1m程の通路がある。
硬臥と言っても木製ではなくビニール張りのマットレスで毛布が付いている。全席指定であるからゆったりとしている。
昼間は下段のベッドや通路にある折り畳み式の椅子で過ごす。
料金は硬座の約2倍でコスパは最高である。
中国人にも人気でチケットの取れない時もある。
硬臥に乗ったらチケットは車掌が預かりに来る。
下車駅が近づくと案内がてら返しに来る。
夜間だったら起こしてくれるので降り損なう心配はない。

〇軟座
グリーン車
向かい合わせの2段ベッドの定員4名のコンパートメントで通路とはドアで隔たれている。
軟臥の部屋であるが上段のベッドを畳んで昼間だけ利用している。
座席(ベッド)のマットレスはスプリングが効いて快適である。
布団も羽毛布団のようであった。
私は1回しか利用していないので全てがそうであるかは分からない。
部屋に入ると車掌が来てパスポートチェックがあった。
同室の中国人も身分証明書みたいなものを出していた。
料金は硬臥の約2倍である。

〇軟臥
軟座の部屋をベッド仕様にして使うと思われる。
利用したことが無いので分からない。

硬座では偶々隣に座った人とちょっと話すことはあるが車内は混み過ぎていて交流など無理な話である。
それに比べて硬臥はゆったりとしているので日本人がいると分かるとあちらこちらからお呼びが掛かる。
こちらも暇であるからホイホイと出向く。
どこに行った、どこに行く、何食べた、目的は何か、中国の印象は?などと質問攻めである。
当座は洛陽で降りると言うと、洛陽ではどこに行くと訊いてくる。
龍門の石窟だというとその中の一人が「ウーマオ、ウーマオ」と連呼してきた。
ウーマオで思い浮かぶのは「五毛」という少額のお金のことだが関係あるのか分からなかった。

龍門石窟.PNG

翌日、洛陽に着いて龍門石窟に行った時「五毛」というのは駅から石窟までのバス料金であると分かった

こういった暇つぶしの交流をしている間にも車掌は通路の掃除をしたり大きな薬缶を持ってお湯の配給をして回ったりしている。
列車には御意見帳ともいうべきノートが置いてあり鉄道に対する要望や車掌の働きぶりに対しての感想が記されていた。
「お前も何か書け」とノートを渡されたので「この列車の車掌はことあるごとに掃除して回るので車内は清潔に保たれている。」と書こうとして「这个火車的服务员是、、、、」と書き始めたら一斉に違う違うと注意された。
「这个」ではなく「这次」と書かなければならないという。
「这个」は物体としての列車を指し、運行されている列車という場合は「这次」を使うらしい。
確かに駅の乗車待ちのプラカードにも〇〇次と記されていた。
とんだ恥晒しであったが何とか書き終えた。

さて件の車掌が通路を奇麗に掃除するのは事実であったが塵取りに集めたゴミを列車の窓から外に投げ捨てていたことは書かなかった。

他所での話が一段落着いて自席で寛いでいると向かい側のベッドにいた人に声を掛られた。
龍門や敦煌の石窟の話をしていたのを聞いていたらしく「仏教の研究で来ているのか」と訊いてきた。
「いや只の物見遊山ですよ」と返して会話が始まったが、同じ年齢であることが分かって親近感を覚え話が弾んだ。

話が弾んだと書いたが早い段階から筆談であった。
筆談は可成り突っ込んだ話が出来る。

㊐仕事は何をしているのですか
㊥蘭州大学で研究をしている。貴君は?
㊐私は(プー太郎じゃなくて)自由人です。専攻は何ですか
㊥哲学だ
㊐どういう系統ですか
㊥マルクス哲学である
㊐ヨーロッパに幽霊が出るというやつですね
㊥対(註)
㊐今回の旅行の目的は何ですか
㊥『孫子』の編集会議の出張である
㊐古典もやるのですか
㊥対
㊐古典は繁体字を使うのですか
㊥不対、古典も簡体字である
㊐簡体字政策は文化を分断させると思いますが改めることはないのでしょうか
㊥簡体字政策は正しい、識字率を高めることが優先でそれにより国力が増強する。繁体字を必要とする学者は少数であるので問題ない。それに今は殆どの古典も簡体字で出版されている。
貴君も古典は読むかね 
㊐『抱朴子』を少々齧っています
㊥成程、でも今は傍流だし、葛洪は思想家ではない
㊐でも具体的で実践してますよ、単なる口舌の徒ではありません

「誰が興味あんねん」と突っ込みが入りそうなのでもう止めるが会話は深更に及んだ。
日本がらみで阿倍仲麻呂を話題にしたが彼の送別会のとき王維が詠んだ詩はこうであるとすらすらと全文を書いたり劉希夷の年年歳歳の長詩も諳んじているようだった。
昔の科挙の進士や文人とはこのような人だと思わせる博学振りであった。


(註)「対」は正にその通りだと確信を持って肯定するときの用語である。「是」も肯定の語であるがこちらははい、そうです、といった頷きや相槌を打つ時に使う軽い言葉である。


10 件のコメント
1 - 10 / 10
中国の硬座はまさに冒険の始まり。座るも立つも自由、乗客全員が競争者です!スリルと共に狭い車内を満喫しつつ、謎の『五毛』が頭をよぎる…。そして気付けば、交流と筆談で深まる異国の友情。異文化との触れ合いこそ旅の醍醐味ですね
簡体字政策が識字率を高めるという視点はなかった。
大変興味深いご投稿、ありがとうございました。
お世話様です。
昔の旅行人誌や海外旅行研究会やネット地球の歩き方等特集同様内容中身が濃く読み応えあり感動しました。
旅行好きなので下世話な話ですが、
記憶も曖昧な平成前半だとビザ発行どうされました?換金は兌換元でしたか?そしてトイレに間仕切りは?
その昔中国で一番先進的な都市だった上海に香港でビザを取り行きました。日本での中国ビザ取得は面倒臭い否不可能なので香港?お金は兌換元だったと思います。揚子江観光、南京東路観光、ドアのないトイレと蛇口から熱湯?日系ホテルに一泊しそそくさと上海-成田で帰国したおぼえありますよ。
〜それでは皆様良い旅を〜
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> STうち さん

おぉ、映画の惹句を思わせる簡潔で的確な文体。
憧れます。
政治体制の異なる国の人々はどのように暮らしているのか興味があり中国ではよく話しかけたりしています。
硬座と硬臥は客層が違いますのでその差が何に起因しているかを考えたり私の祖国の実情と比較したりと興味は尽きません。

コメントありがとうございました。
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> Nul さん

日本でも「學を学」とか「樂を楽」のように簡体字を使用しているので他人のことは言えませんが、元の字が思い出せそうにないほどの行き過ぎた崩し方は馴染めないですね。
日本の場合識字率は高いので元の字の画数を少なくするための簡略化だったと思っています。

コメントありがとうございました。

>> Nul さん

 簡体字政策は、中華民國が1930年代から検討して、1935年に第一次簡体字表を発表しています。
 臺灣に移った後、1950年代にも言語習得のために簡体字推進の動きがあり、推進へ舵を切りかけました。しかし、1956年6月にしかし、1956年1月大陸で漢字簡化方案が示され、たのが同年6月の教育部令で簡体字の使用が禁止されました。
参考資料
 台湾における「簡体字論争」菅野敦志
http://jats.gr.jp/cp-bin/wordpress5/wp-content/uploads/journal/gakkaiho006_05.pdf
hijiake
hijiakeさん・投稿者
ベテラン

>> アリタリア さん

ビザ発行は招聘状不要で個人ビザが取れました。
両替は紙幣は全て兌換元です。
市中で使うとお釣りは人民元ですから帰国近くになると人民元の処理に腐心していました。
兌換元と人民元は額面が同じであれば同じ価値の筈ですが高額商品や飛行機のチケット等は兌換元でしか購入できないため、両者の間では暗黙の為替相場が発生していました。ドミトリーではその情報交換がメインでした。大体1:1.3位が相場だったです。
トイレは地方の観光地では店の裏に穴を掘ってその上に板を2枚並べたもので用を足していました。丸見え状態です。
地方の駅とかでは壁から出ている前後の仕切り壁はありましたが通路側からは丸見えでした。順番待ちの人と話をしながら用を足している人も多かったです。
都会のホテルではさすがにドアはありましたが全面を覆うものは少なく頭部と足の部分は外から見えていました。
中国人の中には敢えてドアを開けたまま使用する人もいました。

紙幣とトイレの話はそれだけでスレを立てられるので改めて詳しく書きたいと思っています。

コメントありがとうございました。
 書き直しました。

 簡体字政策は、中華民國が1930年代から検討して、1935年に第一次簡体字表を発表しています。
 臺灣に移った後、1950年代にも言語習得のために簡体字推進の動きがあり、推進へ舵を切りかけました。しかし、1956年1月大陸で漢字簡化方案が示され、同年6月の教育部令で簡体字の使用が禁止されました。
参考資料
 台湾における「簡体字論争」菅野敦志
http://jats.gr.jp/cp-bin/wordpress5/wp-content/uploads/journal/gakkaiho006_05.pdf
書籍としては、
「台湾の言語と文字」菅野敦志

>> そらむ さん

<台湾における「簡体字論争」>
参考資料のご紹介ありがとうございました。

この資料を読むまでは台湾において「簡体字」は無縁なものだと考えていましたが、事実は全く異なっていました。

「簡体字」普及が教育の機会を広げ、国力増強に結びつくことから、さまざまな方法や手段で簡体字の普及に尽力した方々がいたという事実。
同じ「簡体字」と言っても大陸の共産党政権下の「表音文字」と化した文字表記システムに対し、あくまで中国文字の保存という観点から簡体字を制定し普及させようとした人がいたこと。
歴史に「もしも」は禁句だとしても、あのタイミングで文化大革命がなければ、とかいろいろと考えさせられる資料でした。

本省人、外省人という言葉に出会ったのも久しぶりです。80年代の頃に訪れた台湾で現地のツアーコンダクターの方にいろいろとお話しを伺った時のことを思い出しました。
 こちらも参考になるかと思います。
「近現代中国における言語政策: 文字改革を中心に」藤井久美子
 概要は以下を参照
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/77936/gbg_013_185.pdf
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