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昭和の頃のプロ野球あるある

年に何試合か観戦に行き、テレビでもプロ野球中継を見る私、令和の今のプロ野球、選手も観客も大人しくなったように思えます。それはそれで良いことですが。
昭和の頃のプロ野球あるあるを、いくつか列挙したいと思います。

・1日に2試合行う「ダブルヘッダー」があった。
・ファウルボールを観客席で捕っても回収された。
・試合が終わると、観客席はゴミだらけ。
・乱闘が多かった。
・戦力というより、乱闘要員としてベンチ入りしている選手がいた。
・雨で中止が多かった。
・球場によっては照明が無く「日没のため引分」があった。
・甲子園や西宮球場に、ラッキーゾーンがあり、ブルペンがラッキーゾーンにあった。
・リリーフカーがカブだった。
・自分の応援するチームの中継が、テレビ、ラジオともなく、とりあえず中継している試合を見たり聴いたりしながら「各地の途中経過」を聴いて、一喜一憂していた。
・ノックアウトされて激昂し、試合中にも関わらずそのまま球場を後にする選手がいた。
・観客席のビール販売のお兄さん、ビール瓶から紙コップに移し替えて販売していた。
・使用済みの紙コップ、底をくり抜いてメガホンにする観客がいた。
・球場によっては開門と同時に席取りの猛ダッシュ。
・私設応援団が外野自由席にガムテープを使って場所取り。
・7回攻撃前のジェット風船に、必ずたばこの煙を入れる人がいた。
・スコアボードが電光式ではなく、雨が降るとビジターチームの選手名が消えた。
・甲子園球場のスコアボードが電光式に変わった際、源五郎丸選手が表示出来ることに驚き。
・ナゴヤ球場、改修前は新幹線からスコアボードが見えた。
・パ・リーグが、前期・後期制度だった。前期・後期が違うチームが優勝だと、プレーオフがあった。
・優勝が決まると、ファンがグランドになだれ込む。
・リーグ優勝が近くなった時、日本シリーズのチケット印刷開始がニュースになる。
・リーグ優勝をしても、日本シリーズが本拠地で出来ない球団があり。
・日本シリーズは、平日であってもデーゲームだった。
・野球選手のカード目当てに、カルビーのお菓子を買う小学生がいた。
・テレビの野球中継に、スポーツ用品メーカーがコマーシャルを出していたことが多かった。
・オールスター出場した投手。打席に立つ時に所属チームのヘルメットがないため、同じリーグの違うチームのヘルメットを借りて着用。
・某チームの新聞が発行していた選手一覧、選手や監督・コーチの自宅住所が書かれていた。
・テレビの野球中継、昭和の途中まではバックネット裏からの映像がメインだった。

思い付くままに書いてみました。


226 件のコメント
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ダメージに弱いG党。
ダメージどこ吹く風のトラ党。
 沢村賞の対象はセ・リーグだけだった。
 抑え投手が7回とかから登板することはザラだった。
 先発投手でもリリーフすることが多かった。特に、優勝のかかった後半は顕著。
 当て馬が多かった。ほとんどは、ベンチ登録されているだけの投手(前日の先発投手など)。
 ドラフトで予備抽籤で指名順位を決めていた時代があった。
 その後、全順位で重複指名があれば抽籤に変わった。
 ドラフト外制度があった。
 外国人選手枠が2名だった(時代によって異なりますが、子どもの頃は登録・出場とも2名で、登録3人・一軍2名と変わっていきました)。
 試合開始3時間(その後、セは3時間20分)以降は、新しい延長回に入らなかった。延長は15回まで引き分け再試合の時代もありました('90年代)。
 ブレーイビーは斬新なアイデアであった(ギョロタンの方が一年早いのですが)。
 DH(指名打者)に対応していないスコアボードでは、チーム名のところに投手が表示されていた。

>> うまちゃん@平常運転 さん

私は、ジャイアンツファンであると同時にプロ野球ファンなので、嫌いな球団というのは無いので、マスコミの情報に流されてアンチの人が存在するのは残念に思っています。
しかし、どこかの球団を悪者を仕立て上げて、悪口を言って気持ちをスカッとさせる。
そういうのもプロ野球の楽しみ方の一つなのでしょうね。
そういう訳で、球団に対してアンチは認めますが、選手個人を標的にするのはヤメてほしいですね。
特に、色々な事情で他球団へ移籍した選手を悪く言うのは、本当にヤメて欲しいです。

2007年にロッテを自由契約(解雇)になった藤田宗一投手をジャイアンツが獲得しました。
翌年の2008年の6月のロッテとの交流戦で藤田宗一投手がマウンドに上った時に、ロッテファンからまさかのブーイングが上がりました。
ジャイアンツを離れ他球団へ移った選手にも、同じ釜の飯を共に喰った戦友(一方的に勝手に思っています)として応援し続ける私には信じられない行為でした。
自分たちで解雇して置きながら、2005年の優勝にも貢献して、日本代表にも選ばれた名投手に対して、やってはイケないことです。

プロ野球ファンならば、全てのプロ野球ファンにリスペクトをお願いしたいです。
依怙贔屓ジャッジがあった。
それで、セ・リーグが嫌いになりました。

>> 電人 さん

江川投手のピッチングスタイルを思い出させていただき、ありがとうございます。
牽制球も極端に少なかったですね。
たとえ走られたとしても、バッターと勝負して押さえれば問題ない。という考えなんでしょうね。
球種もストレートとカーブのみなので、サイン交換もすぐに終るのでしょう。
江川投手の決め球といえば、インハイのストレートですが、バットスイングの軌道の上を通るストレートで三振を取るのは気持ちが良かったです。
ただ、コースと球威が少しでも甘くなると長打を打たれるコースなので、江川投手は被本塁打も多かった記憶があります。
それでも、ランナーが溜まると本気?を出すので、大炎上はしませんでした。

>> puchichibi さん

FAで高額移籍した選手への
ブーイングはMLBで良く有りますけど

勘違いしたんでしょうね、応援団。

MLBって自発的って感じますけど
(特にリードしている人も見当たらない)
日本は「応援団」なんですよね。

ので、日本の応援?は嫌いです😦
観戦した人の感想

ゴミは床に捨てちゃアカン。
MLBはダグアウトも平気でゴミ捨ててますね😓

https://matcha-love-trip.com/mlb/?amp=1

>> 5gh さん

綺麗にしてると、片付ける人の仕事がなくなってしまうからという言い訳?も聞いたことがあります。

大谷選手がゴミ拾いして話題になったり、サッカーでも日本代表やサポーターの振る舞いが話題になることがありますね。
 勝利打点…勝ち越し打(先制しそのまま逃げ切った場合は先制打)を打った人のタイトルがあった。
 最初、このルールがよく分からなかった。

臺灣のCPBLでは、現在も勝利打點を記録してます。
 中継ぎ投手のホールドはなかった。
 セーブ自体も1974年なので、この時代では、まだ新しいタイトルでした。

 あと、セ・リーグが一時期採用していてリリーフポイントの計算は面倒だった。
マジックナンバーの出るタイミングが今一つ分かっていません(^-^;

>> PC-6001🌜つきあかり@宇宙的天邪鬼安本丹@ さん

 マジックが出るのが、必ずしも1位チームとは限らず、また対象チームが複数ある場合などの点もあるのですが、単純化して考えます(基本的な考えが分かると、例外的な例がなぜ起こるかもわかります)。
 1位チームの優勝マジックで、対象は2位チーム。引き分けはないとします。
 ともに残り15試合で、ゲーム差が3(A70勝、B67勝としましょう)。1 AとBの直接対決が、あと2試合あるとします。
 Bチームが全勝すれば82勝です。Aチームが83勝で上回るには13勝必要です。AチームはBチーム以外の対戦が13試合あるのでマジック13です。
2 AとBの直接対決が、あと3試合あるとします。
 Bチームが全勝すれば82勝です。Aチームが83勝で上回るには13勝必要ですが、Bチーム以外の対戦は12試合です。Bチームが全勝する仮定ですので、Bチーム以外すべてに勝っても上回れません。ですのでマジックはでません。
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>> puchichibi さん

中日がナゴヤ球場を本拠地にしていた頃、8回くらいになるとタダで入れました。
昭和63年のナゴヤ球場で中日がリーグ優勝を決めた試合。試合終盤、タダで入って来た人が多かったのを覚えてます。
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>> そらむ さん

以前は線審がいました。線審がいなくなってホームランかファウルか際どい時は、どうなるのか?と心配しましたが、しばらくすると慣れてきますね。
ナゴヤドームは、ポールが天井まで届いてます。
大相撲が狭い土俵なのに、審判が野球より多いです。
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>> そらむ さん

最近、イベントユニフォームが流行ってますね。テレビのスポーツニュースを見ると「何や、この奇抜な色や柄は?」と思うことがあります。
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>> puchichibi さん

江川投手、巨人以外の野球ファンからすると「ヒール役」だったと思います。
実働9年で135勝しています。巨人と対戦するチームは江川投手が投げると抑えられてました。入団の時の経緯もあり、ヒール役にはもってこいだったのではないでしょうか?
昭和57年ドラゴンズが優勝した時、ドラゴンズに立ちはだかったのは、巨人であり、江川投手でした。江川投手からドラゴンズ抑えられてました。この年の9月末のナゴヤ球場での中日巨人の天王山は、今でも忘れられません。巨人は江川投手で、9回表まで6-2と巨人にリードされてましたので「負けた」と思いましたが、9回の裏の連打で同点に、延長でサヨナラと、江川投手を攻略して、ドラゴンズにマジックが点灯した忘れられない試合です。
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>> 岩福 さん

ナゴヤ球場のすぐ近くのマンション、球場が見渡せる一室。試合が始まると、住人がベランダに出て観戦してました。球場が見渡せる部屋は家賃が高かったとか?
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>> 電人 さん

携帯電話が普及する前は、電車の中でスポーツ新聞を読んでいる人が多かったです。
最近、電車の中で紙の新聞を読んでいる人を見るのが稀になりました。私も電車の中では、スマホで新聞の電子版を読んでます。
最近、阪神好調で関西ではスポーツ新聞の売上が伸びてきたようです。
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>> 犬箱 さん

ドラフト制度のなかった昭和30年代は、契約金の金額で行く球団を決めていた選手が多かったようです。
ドラフト制度導入に反対したのは巨人だったとか。
線審がいてもいなくても、今、カメラは高性能だしVAR(リクエスト)も出来ますからね。

そのうち審判や判定は全部AIになるでしょう(テニスやバレーやサッカーも全部線審はそうなりつつあるし)。

阪急上田監督の「あれはファウル」みたいな事も無くなります。だから乱闘もずいぶん減ってしまいました。それはそれで良いことではあるが、それで盛り上がる一面も排除できない(興行として)。


91年5月のロッテ近鉄戦。園川からデッドボール食らったトレーバー、そこに蹴りをぶち込むカネヤン、伝説のあの試合を私はまさに見ていました(笑)。

>> そらむ さん

分かりやすく解説していただき、ありがとうございます。
対象チーム以外の残り試合数がベースとなって決まるんですね。

残り13勝すればいいんでしょ、位に思っていただけなので(笑)
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>> 岩福 さん

大田さんも西鉄時代の入団なのですね。
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>> そらむ さん

スタメンに偵察要員がたまにいましたね。ピッチャーがライトに入っていたり。
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>> そらむ さん

また中日の話になりますが、昭和63年当時外国人は登録3人一軍2人。中日の外国人。一軍に郭投手とゲーリー選手がいたため、ブライアント選手は二軍にいました。この年、近鉄のデービス選手が大麻で逮捕されたため、ブライアント選手が近鉄に移籍。移籍後凄い活躍をしました。
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>> puchichibi さん

昭和の頃は、選手に対してひどいヤジが飛んでました。今、野球観戦に行くと「人格を否定するのようなヤジはしないで下さい」とあります。
3月にバンテリンドームナゴヤへ、中日楽天戦を観に行きましたが、中日から楽天に移籍した阿部選手が出てくると、ドラゴンズファンから拍手がありました。
4月にDeNA戦を観に行った際、中日から移籍した京田選手が出てくると、同じようにドラゴンズファンから拍手がありました。
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>> 5gh さん

日本の球場はきれいになりました。ゴミは放置せずゴミ箱に捨てるようになりましたし、飲み物をこぼした時、球場係員に連絡すると拭きに来ます。
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>> 電人 さん

観戦していたナゴヤ球場での中日横浜戦。
中日の与田投手(中日前監督)が横浜のブラッグス選手にぶつけて、ブラッグス選手は与田投手を殴打したことがありました。
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>> そらむ さん

勝利打点、知らぬ間に無くなってました。
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>> そらむ さん

ブレーイビー、中に元プロ野球選手が入っていたと思います。
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>> そらむ さん

DH対応になっていないスコヤボードの球場。守備の時は、DHの打順の所に「1、投手名」、攻撃の時は「DH、打者名」と、切替していた球場があったと思います。
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>> そらむ さん

昭和40年代初めの頃、リリーフで活躍した、巨人の宮田投手や中日の板東英二投手。セーブ王のタイトルが当時あれば、獲得していたと思います。

>> imuyan1@Mie さん

甲子園球場も7回終了後に外野は無料になりましたか。今は違うのかな?
パ・リーグファンは球場に足を運ばないのが多く良くボヤかれました。
オリが神戸に来たときは15分で行けたので良く通いました。イチロウさんも有名になる前、外野で観戦したものです。

>> imuyan1@Mie さん

東尾さんの一年先輩じゃなかったかと

IMG_4017.jpeg

>> imuyan1@Mie さん

本日の平和台球場跡地。
バックネット裏あたりからの眺め。
右奥右中間のさらに奥の城跡石垣上の木に登っての覗き見をよく見てました。

IMG_6245.png

空白の一日の翌日、1978年のドラフト会議。
読売は例えれば拒否権を発動する現在の国連安保理のロシアのようであった。

>> 岩福 さん

平和台球場跡ですか?球場が有るときに行きたかったです。
東尾も池永も好きでした。
黒い霧事件がなければ西鉄ライオンズも身売りしなくて良かったかもですね?

>> imuyan1@Mie さん

 今は、予告先発制度なのでその必要はありませんが、レギュラーが完全に固定されていないポジションが多かったですね。
 アマチュアでは、今もたまにあります。
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