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入菩薩行論 第五章 正智の守護 (2)

肉を貪るハゲタカによってあちこち引き回されながら、何ゆえに(死者の)身体は、なんらの抵抗も試みないのか。

心よ。何故に汝は、この集積(身体)を自己のものとして守護するのか。もし汝とこの身体とが別のものなら、それ(身体の被害)によって、汝に何の損失が及ぶか。

ああ、愚かなる者よ。汝は清潔な人形を自己のものとしているのではない。何ゆえに汝は、この汚物で作られ、悪臭を放つ機械を守護するのか。

まずはじめに、自己の思念の力によって、この皮膚なる覆いをはがして考えよ。次に智慧の刃によって、骨組みから肉を切り放て。

さらに、一つ一つの骨を離し、中にある髄を見よ。そして、そこに何か本質的なものがあるかどうかを、自ら考察せよ。

かように努力をもって探求しても、汝に本質的なものは認められない。(それなのに)何ゆえに未だに身体を守護するのかを説け。

汝は不浄物を食うこともできず、血を飲むこともできない。また腸を吸い取ることもできない。身体は、汝に何の用があるか。

それは、(ただ)ハゲタカ、山犬などの餌食となるために守護に値している。この身体は、人間にとっては行為の用具である(に過ぎない)。

汝がかように守護しても、無慈悲な死神は、身体を奪い取って、それをハゲタカに与えるであろう。そのとき、汝はいかになしうるであろうか。

召使が「家にとどまらないであろう」と考えられる場合に、主人は彼に衣服等を与えない。(召使のような)この身体は飽食した後に去り行くであろう。何ゆえに汝はそれのために浪費をするのか。

心よ。彼に賃金を払い、その後に、今、自己の利益となることをなせよ。なぜなら、雇い人の利益のすべてが彼に与えられるべきではないから。

行き来にそれを利用するから、身体を船と考えるべきである。そして衆生の利益を成就するために、身体を思うがままに行かしめよ。

かように己自身の支配者は、常に笑顔を保てよ。眉のひそみを捨て去れよ。世の人々の親友として、はじめに人に会釈の言葉を述べよ。

荒々しく声を出したりして椅子やベッドなどを突き倒したり、扉を叩いたりゆすったりしてはならない。いつも騒々しさを好まぬ者であれ。

鷺と猫と盗賊とは、音を立てず、目立たぬように行動して、目的を達成する。修行者も常にそのように行動せよ。

他人の指導に巧みな人、乞われないのに恩恵を与える人--かような人々の言葉を、頭をたれて遵奉せよ。常に、すべての者の弟子であれよ。

すべて人を褒める言葉に対しては、賛成の言葉を発せよ。功徳を為す者を見ては、褒め言葉をもって鼓舞せよ。

他人の徳をたたえるのは、その人のいないときにせよ。また(他人の徳をその人の前で誰かがたたえる場合には)喜んで唱和せよ。さらに、自己の長所を人が説くときは、それをただ徳に対する認識(敬意)として観想せよ。

人間が企てるすべてのことは、満足を目的としている。しかしそれは財産によっても得がたい。ゆえに私は、他人の努力で作られた徳によって生じる満足の楽しみを味わおう。

かくして、この世で私になんらの損失も生ぜず、またかの世で大楽が得られる。しかし他人を憎むならば、この世で不満の苦を生じ、かの世で大苦を受ける。

言葉を語るときは、信ずるに値し、正しく整えられ、意味は明快に、心に楽しく、聞いて楽しく、慈悲心に基づき、柔軟で、音声に節度がなければならない。

「まさにこれをよりどころとして、私は将来ブッダとなることができる」と考え、あたかも(喉の渇いた人が冷たく清らかな水を楽しく)飲むように、常に目をもって衆生をまっすぐに見るべきである。

大いなるすばらしいことは、不断の信仰心から生じ、また煩悩の対治から生ずる。またそれは、功徳の田地(ブッダ・菩薩方)と、恩徳の田地(父母)と、苦しめてくれる者より生ずる。

堪能で、勤勉で、常に自ら行なう者であれ。すべての行為において、決して誰にも場所を譲ってはならない。

布施等のパーラミターは、後のものほど優れている。他の行ないのために、優れた行ないを捨ててはならない。ただしそれが実践規律を守るための行ないの堤防となる場合を除く。

かように自覚し、他人の利益のために、常に精進せよ。大悲の心があり、(智慧の目によって)衆生の利益を見る者には、禁止されたことも容認せられる。

不幸に陥った人、よるべのない人、梵行の友に、分け与えたあとに、程よき量を自ら食えよ。三衣以外は、捨離せよ。

正法に奉仕すべき身を、他のために苦しめるなかれ。かくして、まさに衆生の望みを速やかに満たせよ。

同じ理由で、慈悲の決意がまだ不純の状態にある者のためには、むざむざ生命を捨てるなかれ。しかし、その決意が彼と等しい者のためには、生命を捨てよ。かくすれば、何も失われない。

恭敬をあらわさない者、頑健な者、頭に布を巻いている者に、法を説くなかれ。傘、杖、刀を持っている者に、頭部を布で覆っている者にも説くなかれ。

深遠にして広大な法を、劣小な者に、男子を伴わない女人に説くなかれ。小乗と大乗の法とに、等しく恭敬をなせよ。

広大なる法の器を、劣った法に用いてはならない。また行ないを全く捨てて、経典とマントラだけで人を誘惑してはならない。

公の前で楊枝を投げたり、痰を吐いてはならない。ことに、水の中に、あるいは食物の生育する土地を、尿等で汚すことは禁ぜられ、呵責せらるべきである。

口いっぱいに食をほおばってはならない。物を言いながら食ってはならない。大口を開けて食べてはならない。足が直接地に接触しないところに座ってはならない。同時に両手をさすってはならない。

ただ一人の他の婦人と共に旅行せず、寝床や座を一つにするなかれ。すべて聖典のうちに調べて、かつ問うて、世人の嫌悪することを避けよ。

決して指をもって指図してはならない。道を教えるにも、恭しく右手の全体で教示すべきである。

緊急の用でない限り、腕をあげて人に呼びかけるな。(人を呼ぶには)たとえば、指をはじいて音を出すことなどがなされるべきである。そうでなければ、正しい行状を破ることになる。

世尊のニルヴァーナにおける臥し方のように、願わしき方向(北方)に頭を向けて臥せよ。(眠りから覚めたら)正智をもって、遅滞なく、規律にしたがって軽やかに立て。

菩薩の行法は無数に説かれている。まず心を浄化する行法を必ず行ずべきである。

朝と夕に三回ずつ、三つの集まり(罪悪の懺悔、功徳の随喜、菩提回向)を転現せよ。これと、菩提心ならびに勝者(仏陀)をよりどころとすることによって、気づかずに犯した罪が消される。

自己あるいは他の力によって、(衆生を救済する)境地に達したならば、その境地における実践を努めて修学せよ。
 
なぜなら、何事でも勝者の子が、(衆生救済のために)修学してはならないということは全くないからである。そしてかように振舞っているものに、功徳とならないことはない。

間接ならびに直接に、衆生の利益となることを彼は行なうべきで、それ以外のことを行なうべきではない。そして、ただ衆生の利益のために、悟りのために、一切を回向すべきである。

菩薩の誓いを保ち、大乗の意義に精通した善友を、たとえ生命にかけても、常に見捨ててはならない。

そして徳生童子解脱法門から、師匠に対する態度を修学せよ。ここで仏陀によって説かれたこと、および他で説かれたことを、経典の所説から知るべきである。

修学すべきことは、もろもろの経典に見られる。ゆえに、もろもろの経典を読め。そして虚空蔵経に根本の罪過を省察せよ。

またシクシャー・サムッチャヤは、必ず繰り返し見るべきである。何故なら、正しい行法がそこに詳しく示されているから。

あるいは簡単に、まずスートラ・サムッチャヤを見よ。そして聖ナーガールジュナの作を、第二に努力して読め。

そこに、避けるべきことと、なさねばならぬことが記されてある。ゆえにその学処を見て、世の人々の心を守護するために、修行せよ。

身と心の状態を間断なく省察すること、これがまさに、一言をもって言えば、正智の定義である。

ただ身をもってのみ、私は(経典を)読もう。口で読んで何の役に立とうか。
病人に対し、医書を読んで聞かせるだけで、何の役に立とうか。


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