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入菩薩行論 第四章 菩提心の不放逸

勝者の子(菩薩)は、かように菩提心を固く受持し、実践規律を犯さないように、常にたゆまず努力すべきである。

急卒に始められたこと、正しく熟考せられなかったことについては、それを「なそう」あるいは「なすまい」と誓言しても差支えがない。

しかし、仏陀および偉大な智慧ある菩薩ならびに私によって、力の及ぶ限り熟考せられたことについては、どうしてその実行を疑い迷ってためらうべきであるか。

また、もし「かくなそう」と誓言しながら、行為によって私がそれを成就しなかったならば、一切の者を欺くこととなり、その結果、私はどこへ向かわなくてはならなくなるだろうか(悪趣に向かう他はない)。

心で与えようと思いながら、与えない人は、たとえそれが些細な事物であっても、餓鬼となると説かれている。

ましてや、無上の安楽を(衆生に与えようと)真実高らかに叫びながら、一切の衆生を欺いたなら、私はどこへ向かわなくてはならなくなるだろうか。

全智者は、実にカルマの法則の不可思議を知る。そこで彼は、人が菩提心を捨てた場合でも、かかる人を解脱せしめる。

とはいえ菩薩の一切の罪過は、極めて重大である。菩薩が罪過を犯せば、すべての衆生の利益を阻害するからである。

また、たとえ一瞬間でも、他の人が彼(菩薩)の福善を妨げるならば、衆生の利益を破ることになるので、その人が悪趣にとどまる期間は終わりを生じない。

なぜならば、ただ一人の衆生の善福を害したとしても、その人はその身を滅ぼすであろう。いわんや菩薩の善福を妨げることによって、全宇宙に偏在する生類の善福を害するにおいておや。

かように、罪過の力、菩提心の力によって、(菩薩は)輪廻界で動揺しながら、初地の位に達するの手間取る。

ゆえに、私は心を用いて、誓言したとおりに、事を成就しなければならぬ。もし今日、努力しなかったならば、私は底から底へと落ちねばならない。

一切の衆生の救済を求めて、これまでに無量の仏陀が過ぎ去られた。しかし、私は自己の過ちによって、その救いの対象に入らなかった。

今日においてもなお、これまで繰り返しありしように私があるとすれば、悪趣、病、死、切断などの苦しみを必ず得るだろう。

如来の光臨、信仰を持つこと、人として生まれること、善を反復修習するに適した状態――かような条件は極めて得がたい。(今を逃したら)私はいつまたこれを得るであろうか。

食に恵まれ災厄のない健康な日々もまたそうである。生命の刹那は当てにならず、身体は借り物に等しい。

かような私の行状をもってしては、人間の生を再び得ることはできがたい。もし人間に生まれることができなかったら、悪のみが生ずる。どうして浄善が生じよう。

現在善をなすに適しているのに、私はそれをなさない。(とするならば将来)悪道の苦痛に精神が錯乱するとき、どうしてそれを私がなしえよう。

善をなさずに罪悪を重ねれば、百千万カルパの永き間、善趣はその声すらも断たれる。

ゆえに世尊は、人間の身体は極めて得がたいと説かれた。それは大海に浮かんだくびきの穴に、(盲目の)亀が首を入れる(確率)に等しい。

わずか一瞬おかした罪悪からも、一カルパの間無間地獄に落ちる。無始以来のカルパに渡る罪悪が(私に)ある以上、何が善趣について説かれえようか。

また、カルマの報いを受けただけでは、解脱を得ることはできない。報いを受けている間に、また新しい罪悪をなしてしまうから。

(人間界に生を受けるという貴重な)機会に恵まれながら、もし私が繰り返し善を修習しなかったならば、これにまさる欺瞞はなく、またこれにまさる愚かさはない。

もし私がこれをわかっていて、しかも愚かさのために意気消沈する(すなわち修行や善の実践に励まない)なら、ヤマ(閻魔)の死者が改めて私を追い立てに来た場合に、私は永く苦しむことになろう。

耐え難い地獄の炎は、私の身を永く焼くであろう。後悔の炎は、実践規律を守らなかった私の心を永く焼くであろう。

かろうじて私は、はなはだ得がたいこの功徳の土台(人間の生)を得た。よくそれを知りながら、私はかの地獄に再び連れ戻される。
あたかも呪文によって惑わされたように、私はこれについて思考力を欠く。誰が私を惑わしたか、誰が私に憑いたかを知らない。

愛着、憎しみなどの我が敵は、手も足も持っていない。剛勇でもなければ、智慧もない。それなのにどうして彼らは、私を召使としたか。

しかも彼らは、我が心に住まい、そこに安住して私を打ち滅ぼす。にも関わらず、私はこれに憤りを起こさない。ああ、誤った忍耐心よ。

たとえ一切の神々と人間とが私の敵であったとしても、私を無間地獄の火の中に引き入れることはできない(しかし私の煩悩はそれを可能とする)。

この火にあえば、スメール山さえも、灰さえも残らないほど焼き尽くされる。煩悩という強力な敵は、私を一瞬にしてそこに投げ込む。

他のすべての敵の寿命は、長くても実に彼(煩悩)のそれほどではない。私の煩悩という仇敵の寿命は、はなはだしく長い。

すべての者は、もし忠実に仕えられれば、奉仕者に幸福を与える。しかしかの煩悩は仕えれば仕えるほど、奉仕者に苦しみを起こさしめる。

かように相続することの久しい煩悩という敵が、苦悩の奔流を生ずる唯一の原因として我が心に住するとき、どうして私に、恐怖心なく、流転の喜びが起こりえようか。

暗鬱たる人々に死の苦しみを与える(煩悩という自然の敵)を、激しく殺そうと戦闘の前線に私は躍り出る。矢と槍の傷の苦しみをかえりみず、勝利を得ないでは踵を返さない。

常に一切の苦しみの原因である(煩悩という)自然の敵を、討ち滅ぼそうと立ち上がった私に、たとえ百の悩みがあったとしても、今どうしていかなる理由から、絶望と落胆がありうるか。

人々は敵の与えた傷跡を、あたかも飾りのように、理由もなく手足につけている。大目的(すなわち衆生の救済)を成就するために立ち上がった私に、苦しみがどうして妨害となり得るか。

漁夫、チャンダーラ、農夫などは、ただ己の生活のために専心して、寒暑等の苦悩をしのぶ。
ならば衆生の救済のために専心している私が、どうして苦悩をしのべないか。

十方の空間の果てに至るまでの世界を、煩悩から解放しようと誓言しながら、私自身は煩悩から解放されていない。

自身の状態を知らないで主張する者は、狂人に等しい。それゆえ、私はこれから常に煩悩の殲滅に不退転となろう。

私はそれにつかみかかろう。そして煩悩を憎み、戦を交えよう。ただ、煩悩の掃滅に関係のある種類の煩悩は例外である。

たとえ私の腸はこぼれ、首が落ちても、煩悩という怨敵に、私はゆめゆめ身を屈しない。

普通の戦においては、敵は戦闘に負けたとしても、また他の地方に拠点を構えるであろう。そして力を盛り返し、再び攻撃してくるかもしれない。
しかしこの煩悩という敵には、かような避難所はない。

私の心の住人たる彼は、追い立てられてどこに行くであろうか。そこに住み着いて彼が私を殲滅するために努力するであろう場所は、ただ愚鈍に基づく私の無気力だけである。煩悩は、智慧にまみえれば直ちに消え去る賎しい存在である。

煩悩は対象に存在せず、感覚の中にも存在せず、その中間にも存在せず、それ以外のところにも存在しない。しからばそれはどこにあって、全世界をかく乱するか。それは、ただ幻に過ぎない。それゆえに、我が心よ、恐怖を捨てよ。悟りのために励みを行なえ。どうして汝は、地獄で自己をいたずらに苦しめるのか。

以上のように決意して、私は仏陀の説かれた実践規律を実践するための努力をする。
医薬によって治療せらるべき者が、医師の命令を守らないで、どうして健康となりえようか。


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