入菩薩行論 第三章 菩提心を受け保つこと
すべての衆生の作った、悪道の苦しみを静める浄善を、私は歓喜して喜ぶ。苦しめる者たちに安楽あれ。
私は、衆生が輪廻の苦しみから解脱するのを喜ぶ。また救済者たちがお説きになる菩薩の境地とブッダの境地とを喜ぶ。
すべての衆生に利益をもたらし、すべての衆生に善福を授ける教示者の、発心の大海を喜ぶ。
私は合掌をささげて、一切の方角にまします正覚者に懇願する。――無智のために苦しみに沈める人々に、法の灯火を作りたまえ。
また、ニルヴァーナに入ろうとする勝者(ブッダ)に対し、合掌をささげて私は懇請する。――無限カルパの間、この世にとどまりたまえ。この世界を闇とし給うなかれ。
かようにこれら一切を行なって、私が得た浄善――それによって、すべての衆生のすべての苦しみを滅ぼしたい。
私は病人の医薬であり、また医者でありたい。病気が完治するまで、その看護人でありたい。
飲食の雨を降らして、飢えと渇きの災厄を滅ぼしたい。飢饉の時代においては、私は飲食となりたい。
貧しい衆生のために、私は不滅の財宝となりたい。いろいろの種類の日用品を、彼らの前に供えて奉仕したい。
すべての衆生の利益を成就するために、私は自己の身体と、財産と、快楽と、過去・現在・未来の三世に積んだあらゆる功徳とを、無頓着に捨て去る。
ニルヴァーナとは一切を捨て去ることである。そして私の心はニルヴァーナを求めている。もしニルヴァーナを達成するために一切を捨て去るべきであるならば、それを衆生に与えない手はない。
すべての生類に対し、この私の身は、彼らの欲するままにゆだねられる。彼らが常に我が身を打つもよし、罵るもよし、ゴミをあびせるもよい。玩ぶもよし、嘲笑うもよし、ふざけるもよい。私は身体をもう彼らに与えてしまったのだ。どうしてそれに私が思い煩う必要があろう。
彼らに幸せをもたらす行為ならば、何なりとも、(私を使って)彼らはなすがよい。
しかし、いかなる場合でも、私のせいで誰かに不幸が起こるということがあってはならない。
もし私によって、人々に怒りの思い、あるいは清らかでない思いが起こったならば、それは彼らにおいて、常に一切の利益を成就するための原因となれ。
私を誹謗し、その他損害を加え、また嘲笑する人々――これらすべての人々は、覚醒にあずかる者たれ。
よるべなき者のよるべ、旅行者の隊長と私はなりたい。彼岸にわたろうと願う人々の船、堤防、橋となりたい。
すべての生類に対して、灯火を求める者のためには灯火となり、寝台を求める者のためには寝台となり、召使を求める者のためには召使となりたい。
衆生のために、如意珠、幸福の水瓶、成就のマントラ、大いなる医薬、如意樹、如意牛と私はなりたい。
あたかも全空間に住する無量の衆生に、地・水・火・風の元素が、様々に役立つように、--一切が(輪廻の苦から解放されて)静安とならない間は、空間に住するすべての衆生が私を享受しうるようになりたい。
往昔のスガタが菩提心を受持したように、そして菩薩の実践規律を定めの通りに遵守したように、そのように、世界の善福のために、私は菩提心を起こそう。そしてそのように、順序に従って、実践規律を実践しよう。
かように賢者は、清らかな喜びに満ちた心で菩提心を発して、さらに後に続く心を養い育てるために、次のように喜びの心を起こすべきである。
--「今日、私の生は実を結び、人間としての存在は、得られがいのあるものとなった。今日、私はブッダの家に生まれ、今や私はブッダの子である」と。
そこで今や、己の家柄にふさわしい行いをなす人たちのなす業を、私はしなければならぬ。汚れのないこの家に、汚点が生じないように。
あたかも塵芥の堆積の中から、盲人が宝石を得ることがあるように、この菩提心は、偶然に私に出現した。
これは世界の死をなくするために現われた霊薬であり、世界の貧困を除くための不滅の財宝である。
世界の病を癒すための最上の薬であり、迷いの存在の道程(輪廻)にさまよい疲れし衆生の休らう大樹である。
難路を超えるためのすべての旅行者に共通の堤防であり、世界の煩悩の熱を冷やすために昇れる心の月である。
世界の無智の暗黒を払う偉大なる太陽であり、正法の牛乳を攪拌して生じた新鮮なバターである。
安楽を受けようと渇望して、迷いの存在の道程をさすらえる衆生の隊商に、この安楽の饗宴はもうけられた。すべてこれに近づく衆生は、満足を得よう。
今や私は、世の人々を安楽の饗宴に招待している間に、彼らをスガタ(ブッダ)の状態にいざなう。
実にすべての救済者の面前で、神々と阿修羅等は歓喜せよ。