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シャーンティ・デーヴァ 入菩薩行論 第一章 菩提心の賛嘆

オーム、ブッダに帰依いたします

もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき師主たちの前に、恭しくひれ伏して、仏子の律儀への趣入、すなわち菩薩行の実践を、聖典にしたがって、私は簡単に説こう。

ここに経典にないような斬新なことは何も述べられない。また私には著作の才能もない。ゆえに、私は他人のためを考慮せず、もっぱら自己の心を菩薩行に実践によって薫じようと、これを作った。

これによって、私の清浄な心の流れは、善を実現しようと強く増進する。ところで、私と同じ性質の他の人が、これを見るならば、これはまたもって効用を生ずるであろう。

この恵まれた人生は、きわめて得がたい。これを得て初めて人間の目的、すなわち解脱は達成せられる。もし、ここで真の幸福の因である善福を認識しなかったら、どうして再びこのような幸福がめぐり来よう。

あたかも夜に、雲深き暗黒に、稲妻の閃光が一瞬、物を照らし出すように、ブッダの威力によって、世人の思いが、しばしの間、福善(幸福の因たる善行)に向かうことがある。
だから浄き行いは常に力が弱い。これに反し、悪の力は大きく恐ろしい。もし菩提心がなかったら、他のいかなる浄善によって悪を征しえよう。

ムニの王者たちは、多カルパの間思惟にふけって、この善福(菩提心)をまさしく発見した。それが善福であるゆえんは、偉大なる安楽に、無量の人の群を安らかに救い上げるからである。

あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。

生存の牢獄に縛り付けられた哀れな人でも、彼に菩提心が生ずるや否や、直ちに「ブッダの子」と呼ばれ、人間と神々の世界においてあがめられるものとなった。

この不浄の身体を、値のつけられぬほど尊い、ブッダの宝のような身体に変えてしまう--かように甚大な効験のある菩提心という霊薬を、はなはだ堅固に保て。

無量の思慮があって、しかも世界一である隊商の長、すなわちもろもろのブッダや菩薩方が、よく吟味し、価値多しと認めた菩提心という宝を、転生の巷にさすらいを習いとせる汝らは、はなはだ堅固に保て。

他のすべての善は、芭蕉樹のように、実を与えて消滅してしまう。しかし、菩提心の樹は、常に実を結んで消滅しない。ただ豊かに実るだけである。

極めて重い罪悪をなしても、もしこれ、菩提心を頼りとすれば、たちまちそれを免れる。あたかも人が勇者に頼って、大危難を免れるように。そこで、どうして迷妄なる衆生によって、菩提心が頼りとせられないでよかろうか。

それはこの宇宙を消滅させる火のように、大いなる罪悪をたちまちに焼き尽くす。これ(菩提心)に対し、無量の賞賛を、聴慧のマイトレーヤが善財童子に説かれた。

要約して言えば、二種類の菩提心を識別すべきである。
それは、菩提を願う心と、菩提への前進とである。

行こうと願う人と、行く人の間に区別が認められるように、知者はこの両者の区別を順次に知るべきである。

菩提を願う心だけでも、輪廻界において大果をもたらす。しかしそれには、前進の心を持つ人のような、不断の福善は生じない。

無辺の衆生界を救おうと、不退転の心でこの菩提心を受持すれば、そのときから、眠りを好み、たびたび放心の起こる人にすら、大空に等しい不断の福善の流れが生ずる。

小乗を信解する衆生のために、如来自ら「善臂問経」に、これを、証拠を挙げて説かれた。

「私は衆生の頭痛を治そう」と考えても、かような些細な福善の願いによってすら、人は無量の善福の寄るところとなった。

まして、全ての衆生の限りなき苦痛を除こうと願い、全ての衆生に無量の功徳を具えさせようと願う者においておや。

いかなる衆生の父に、また母に、あるいは神々に、リシに、あるいはブラーフマナに、かような善福の願いが生ずるであろうか。菩薩以外には不可能である。

これらの衆生には、自利のためにさえ、かような希望は、かつて夢の中にも生じなかった。どうして利他のために、それが起こりえよう。

かような未曾有にしてかつ殊勝の宝なる衆生(菩薩)は、どうして生まれ出るか。

世界の喜びの種子であり、また世界の苦しみの救薬であるところの、宝の心(菩提心)の福善は、どうしてはかりえようか。

ただ善福の願求だけでも、仏陀の供養に勝る。まして、一切衆生のあらゆる安楽のために努力するに勝る善福はない。

苦しみから逃れようと願いながら、衆生はかえって苦しみに突進する。
楽を得ることを望みながら、惑いのために、まるで敵がなすように、自己の安楽を破る。

かように楽を貪って、たびたび苦しむに悩む人々に対し、あらゆる楽によって満足を与え、またあらゆる悩みを断滅させ、かつ惑いをも滅ぼすところの善人(菩薩)--かような善人に等しい人は、どこにあろう。あるいはそれに類する友、あるいはそれに類する福善は、どこにあろうか。

他から受けた恩に対して報いる人は、はなはだ称賛せられる。求めるところがなくて善行をなす菩薩は、いかにたたえられるべきであるか。

少数の人にもてなしをなす人は、善をなす者として人々に敬われる。しかしそれは、ただしばらくの間、食を施して、半日の命を支えたためである。
ましてや、衆生の数に限定を加えず、期間に限定を加えず、世界と衆生が完全に滅するまで、衆生にあらゆる満足を与える菩薩--彼になぜ尊敬が払われないか。

かく勝者の子にして安楽の施与者である菩薩に対し、己の心の中で悪心を抱く者があれば、その人は悪心の発生した刹那の数と同じ数のカルパの間、地獄に住するであろうと、世尊は説かれた。

しかしその人の心が菩薩に対して清らかとなるときは、前の悪心の結果に比べて遥かに多くの良い結果が彼に生じるであろう。なぜなら、勝者の子(菩薩)に対する悪しき行いは大いなる努力によって行なわれ、清き行いは自然になされるからである。

そこに優れた宝の心(菩提心)が現われている彼ら(菩薩)の身に、私は帰命する。
また、それに害を加えることさえも、安楽を得ることに関係のある、この安楽の蔵(菩薩)に、私は帰依を表する。


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