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27 years

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1/17になるとこの作品を思い出す。
この作品を見ると1/17を思い出す。
作品に全く罪も関係もないけど。

27年も経ったんだ。
阪神淡路大震災から暫く経ったころ、アタイは避難所となった学校の図書室でこの本を読んでいた。

あの日、アタイは南大阪にある大学近くの自宅にいた。『風呂付きで地域最安値(事故物件)』なボロアパート。珍しく早起きしたアタイはお気に入りの紅茶を飲もうとコンロに手をかけたとき…
もの凄い衝撃が建物全体に走った。
慌ててガス栓閉めて、ラジオのスイッチを入れる。
なんか神戸で地震があったようで…高速道路が倒壊?んなアホな。しかしそれは現実。
あ、父ちゃんに無事を知らせなきゃ。
電話繋がらないや。(翌日まで繋がらなかった)

とりあえず大学に行ってみるも休講になってる以外は異常なし。学内では早速ボランティアを募集していたので申し込んではみたものの、先発隊が受入体制を作ってから申し込み順に行くことになったんだ。

アタイの順になる頃には避難所に物資の配給(お弁当とか)は始まっていたから炊き出しとかはなかったけど、乗り込んだアタイたちが逆に迷惑かけちゃいけないからって体育会だかが持ってたデカいワゴン車に荷物を満載して神戸に向かった。

え…何これ…
何もないじゃん…

街は焼き尽くされ、かつて何があったのか全くわからない。
アタイたちが配備されたのは少し山手の方で焼けてはいなかったけど、半壊した家屋、崩れかけた川岸の石垣…とまあ酷い状況。
滞在予定は一週間。配給される物資を世帯ごとに数を分けて取りに来てもらう、もしくは無理っぽい人には届ける。
寝床は図書室。中身を全てぶちまけた書架の脇に寝袋置いて…あとは寝る前に本の整理をしたかな。
その図書室で、みんなで回し読みしたマンガ。だから今でも忘れられないんだ。

一週間の半ば位だったかな。
夕方、体育館の外でぼんやりしてたら
「お姉ちゃん、いつもありがとう」
って板チョコくれた女の子がいた。
お母さん曰く「いつも頑張ってくれてるからプレゼントするんだ」って言ってたそうな。
『じゃあ、一緒に食べよう!』
三人で食べたあのチョコ、凄く美味しかった。
アタイが励まされてどうするんだよ。

後半は配給以外にも『今後の生活に必要なものを自宅へ取りに戻る』手伝いなんかもやった。大学生活の中で実習用の作業服と安全靴、ヘルメットが一番役立った時(^^;)
半壊した家の中をひっくり返して必要な物を探す。ただそれだけ?と言われそうだけど、依頼者さんにとっては大切な思い出だったり生活に必要なものだったり。
「通帳、ありました!」
「ポット、無傷っす!」
そんな中、一階が喫茶店のお宅へ。
川沿いの道に面しているんだけど、川の石垣が崩れてるから、店が傾いている。カウンター曲がってるし…
二階は家具が派手にひっくり返っているから、依頼者のおばちゃんでは太刀打ち出来ない。で、アタイたちの出番。
「アルバム、ありました!」
おばちゃん、他の使えそうなものには目もくれず。
「これだけあったらええんよ。そや、よう働いてくれたからコーヒー奢ったげるわ」
アルコールランプ(エラい本格的やね)で入れてくれたコーヒーを紙コップで戴く。何とかしてお店を再開して欲しいくらい美味!
「このアルバムだけは手元に置いときたかってん」
家族の写真ですか?
「そう、震災当日に亡くなった一人息子の写真やねん」
マズいこと聞いたな…
「アンタらがそんなこと気にせんでエエんよ」
おばちゃんはずっとアルバムを眺めている。

ウチの息子、倒れたアパートの下敷きになってん。
ウチが自転車で駆けつけたころに見つかってんけど、
もうあかんかった。
親より先に死ぬあほがどこにおる!って言うけど、
ほんまにおるんやな、って。
その時は、ずっと泣いてた。
でもな、
いつまでも泣いとったらあかん。
息子もそんなん望んでへん。
せやから、な。
泣くだけ泣いたら、あとは前を向いて進め、って。
それがウチの人生やし、生きるっちゅうこと。

おばちゃんの言葉は重かった。
今でも人生訓にしてるし、事あるごとに人に伝え続けている。
去年、用事がてら学校の近所を歩いてみたけど何の面影もなかった。
でも、
形には残ってないけど心には残っている。
励まされたり、人生のなんたるかを教わったり。
アウトプットよりインプットが大きいってどんなボランティアやねん。あほ。

身体は少しキツかったけど、アタイたちに大切なことを教えてくださった神戸の皆さん。

ありがとう。

ボランティアって
『助けてあげる』
『奉仕』
みたいな固定観念を持つ人もいるけど、語源は『志願兵』だ。
門はいつでも開いてるから、その気があれば。
アタイほど自分に酔いしれたりすることはないだろうけど、何か得られるものはあるかも。


32 件のコメント
1 - 32 / 32
『助けてあげる』
『奉仕』
『志願兵』
何でもいいと思います。
守りたいものがあるから行動する。

『情けは人の為ならず』
かな。
27年前…お疲れ様でした🤗
TVでしか見てない私はこれがリアルなん?ってビクッとしたのを覚えてます
女のコと食べたチョコレートの味は一生忘れられないでしょう🤔

>> レギュラー33 さん

チョコの味と女の子の笑顔は一生の財産です(^_^)

>> seno01 さん

仰るとおりですね
あの時は何も考えずに『とりあえず行っとけ』みたいな感覚でしたが…
もう27年前になるんですね。
私はテレビに映し出された光景が現実とは思えませんでした。
東日本大震災(2011年3月11日)も同じ衝撃を受けましたが、会社から徒歩で帰宅中、瓦解したビルを見て、これが現実なんだと衝撃を受けました。
天災はいつ襲ってくるか分かりません。
貴重な体験をされましたね。
あなたの行動力には頭が下がるばかりです。
私は心身の病状がひどい時で何もできなかった。
せいぜいパソ通で仲間と連絡を取り合うぐらい。
あの時は何とも色々思い出しますが。

※朝、入浴しようと思ったら「あれ?、若干揺れたな」と。
 関東でも微妙に揺れを感じました。

その後いろいろあって3月に知人を訪ねて関西へ。三宮駅前の惨状を見て絶句でした。(約2カ月経過してもこのままか、と)

さらにその後は以前コメントしたことがあると思いますが、帰京→帰宅があの「地下鉄サリン事件」当日朝。しかも新宿駅着。空腹だったもののそのまま自宅直行したので難を逃れました。

※新宿で食事してたら、と思うと未だに
 背筋が震え上がります。
 まああの団体とは一時期色々と私自身も
 丁々発止がありましたので。(以下略)
阪神淡路大震災の当日、会社に遅れそうなので責任者にTELしました。
その方曰く---ありがとう。何とか命は大丈夫ですとの返答。

何と大げさなことをおっしゃるのかと、怪訝に思いました。

そして山手から神戸市内を眺めると、火災が1ヶ所か2ヶ所くらい発生していました。
下に降りてみると火が大きくなり、危ないから迂回を余儀なくされました。

その後ビックリしたのは、神戸西市民病院の4階が無くなっている。
そしてその前の道路が、数メートル陥没して進めない状況でした。

そして周りの方が私の車に駆け寄り、チェーンソーを貸してほしいと涙声でお願いされました。
勿論そんなものあるわけないのですが。

そして海岸近くの2国を走ると、どう見ても阪神高速が傾いている。
その時は何とも表現できない恐怖を覚えました。

今は震災の面影すらないですが、あの悲しい思い出は瞼に焼き付き、
決して消え去りません。

自衛隊が、会社の周りの捜索を開始したのは、1月24日地震から1週間後でした。

以上、昨日の出来事のように思い出します。
読んでて感動🥺🥲
なかなかボランティア活動ってできない勇気にありがとう、😭って気持ちがいっぱい。

よんでて戦地に行った人みたいに妄想してしまいました。あれ?😊

皆さん助かったとおもいますよ、
神戸だいぶかわりましたもんね、
その頃OLしてましたよ。
神戸支店やばくない?ってなって、
総務の人が何人か有志で物資もっていってカンパしたの覚えてます。
社員のおばあちゃん長田区の人で亡くなっててとか。

配送できないから仕事もなかなか大変でした。

私はその日、スーパーの旅行が当たり、北海道のニセコのスキーが当たって!友達といってました。
友達は宝塚の子。
スキー所じゃなかったです。
私も実家に電話してもつながらない、幼馴染みとこにつながったから、大丈夫よーって、教えてくれて。
繋がるときにはお前は!連絡せんと!
親不孝者‼️って怒られたの思い出します。🥲

友達も最寄りの駅陥没してるしー
しばらくは我が家から仕事いっでましま。
母はカセットコンロを友達にもってからせて。
え!なんでそんなのわたすの!
と、
しばらくしたらガスとかつかえないのに、
もたしたってことを。母に感謝🥲

ポンちゃんも素晴らしいお金で買えない体験しましたね。
よく頑張りましたよぉ😊

>> なかっぴ さん

滅茶苦茶になった街と、
女の子の笑顔とおばちゃんの話。
今でこそこうやってお伝えできますが、どう言ったらいいのか整理できるのに何年かかかりました…

>> 伊勢爺い さん

やりたいときに出来ることを自分の意思でやる。
ただそれだけですよ。
アタイも今の体調で『やらない?』って言われても行けないです(^^ )

>> ばななめろん さん

アタイが神戸に行ったのも2~3月位、かな?
交通網がズタズタで、荷物の搬入もあって車で行った記憶があります
いろいろな方とお話をしましたが『もし自分がそうなったらどうする』と暫く考えていました
あんなに冷静に対処出来ていただろうか…
ボランティアありがとうございます🍀
私はその神戸の灘区で被災しました
6階建マンションの6階に住んでた
その時の事は詳しくは書いてませんが(プロフィール)、この時期になると誰かのスレに少し書いてます
忘れないでほしいですね🕯️

>> licky さん

最近、所用で神戸に行きましたが震災なんてあったの?位の復興した街を見ると余計に当時のことが思い出されます
街を歩いている方の中には、震災で大切な人を失った方もいらっしゃるのでは?と思ってみたり
ニュースでも流れているみたいですが、

『忘れてはいけない。忘れない』

>> niko6マーミー さん

気が張っていたので戻ってくるまではピシッとしていましたが、戻ってきた報告やら何やらしている時、教授殿が不意に『お疲れさん』ってアタイの背中をぽんと叩いたときに腰が抜けたのを思い出しました(^^;)

>> K33 さん

その節はお世話になりました
ニュースを見ていて『忘』の文字を見たとき『リアル被災者じゃないけど何らかの形で関わった者として何かを残しておきたい』と思って書いてみました
少しでもいいから誰かに何か伝われば、と…
写真であの倒れた高速道路を見て、こんな街をどうやって修復するのかと呆然となった。
何年もかかるだろうとも思った。

日本の国力と技術力の凄さを痛感しました。

四日市もかなり揺れた。
義弟の実家が宝塚市の北の方で、被害は無かった。
そこの道を通って北から様々な物資が入ったと聞いている。

>> 伊勢爺い さん

当時、警察・消防や口コミ、ボランティア総出で通れる道路探して、通れるっぽいところは人力で瓦礫退かせて、その道に重機やトラックが入って…
『人の想い、力』を強く感じました。
その力と知恵が以降の支援に繋がって…

でも、阪神淡路大震災の時の助け合い精神も過去の教訓を基にしたもので…
だからこそあの経験を忘れちゃいけないんだ、って

そう思って過去の体験を記録してみました

>> ハートタイム さん

アタイだけじゃないですが、みんな『やりたいときにやれることをやっただけ』ですよ

みんな同じ空の下で生きてるんだもん
凡人なアタクシには、
合掌することしかできません。
中国地方某県で高校生でしたね🙄
突然(P波?) 目が覚めて「まだ暗いなぁ」と思ったら
…かなり横揺れ(S波) し驚きました(・_・;)

>> fsm さん

その想い、受けてくださる方は必ずいます

忘れずにいてくれていることだけで十分です
きっと誰かに届いていますよ♪

>> ギリアム・イェーガー・ヘリオス@鉄🚉ヲタ総理誕生🙄 さん

揺れるのは人生経験豊富なんで慣れましたが、揺れが来る前の地鳴りみたいな音はいまだに怖いです
あの日の地鳴り、余震も含めてエグかったですから
あの時大学生で、朝ニュースも見ずに大学へ行ったら休講で、みんなで学食のテレビにかじりついて見ていた。
その後地下鉄サリン事件の時は春休みでも朝から大学にいて、集合時間に集まらないから?と思っていたら、本郷から池袋まで歩いてきた友人が、事件のことをなんとなく教えてくれた。
そして3.11の日は、病気療養中でリハビリの散歩がてらに出かけたスーパーで遭遇した。おばちゃんがしがみついてきて、こっちは若いけど病み上がりで体力ないから、二人で必死に電信柱にしがみついてた。

私は戦争は体験していないけど、それに匹敵することは見てきた。だから忘れないでいるよ。

追伸「闇のパープルアイ」は高校時代に流行って回し読みしたなぁ。

( ´・_・`)。oO( 合掌 )

>> HAYA さん

次の世代へ、どう伝えるか
これからの課題かも知れませんね
震災の渦中に居ない人間が行った事…
阪神淡路大震災が起きた日は、午前中は名古屋で打ち合わせし、お昼に新幹線で京都の客先へ向かう予定だった。上司から「こういう時に駆けつけると恩が売れる」とか言われ、動き始めた近鉄に乗って客先に着いたのが夕方五時ごろ。客先担当者に「今日は作業してもらわなくて良い」と言われ宿に引き上げた。
震災時に営業する企業は他の災害が起きたときもそうするのだろう…😕
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