~fioの旅~ the beautiful world? 【画像多め】【内容薄め】【不定期更新】
お家大好き引籠りのfioが、数少ない友人からの、半ば強引な誘いを断り切れずに外の世界と触れ合い、引籠りを脱却するまでの成長?物語です。
不定期に下手な写真と拙い説明を更新していきます。
お時間が有りましたらお付き合いくださいませ。
もし、ここを見て「行ってみたよ!」なんて報告とか貰えたら幸せ感じちゃいます。(笑)
それでは2017年fioの夏旅の始まりです。
勇者ヨシヒコが魔王ゲルゾーマと対決した場所への聖地巡りとして(笑)
(勇者ヨシヒコをご存じ無い方はコチラ)
http://www.tv-tokyo.co.jp/yoshihiko/
栃木県宇都宮市に有る、大谷資料館へ行ってきました。
http://www.oya909.co.jp/
外は30度超えの真夏日に、内部の気温は13度!
涼みに行くつもりがちょっと寒いくらいでした。
時折天井から冷たい水滴が首筋を襲います。
機械化される前は1本の石柱を切り出すのに4千回もツルハシを振るっていたとか…
昔の人の根気強さには頭が下がります。
中はライトアップされているものの、基本的に光量不足でスマホで写真撮っても真っ暗です。☝の画像はPCで目いっぱい明るく加工してます。
写真撮りたい人は三脚とバルブ開放できるカメラのご用意を。
大谷資料館の近くにある、その名も大谷寺(大谷観音)。
http://www.ooyaji.jp/
平安時代(810年)に弘法大使の作という奇岩の岸壁に掘られた千手観音が祀られています。
他説ではシルクロードの石仏と共通点が多いのでアフガンの僧侶の作という説も…
国の指定重要文化財という事ですが、上の巨大な岩の造形の方が気になります。
併設の宝物館にはここから発掘された縄文人の人骨が…
竜門の滝というと、大分のものが有名ですが、こちらは那珂川の支流江川に在る、竜門の滝、その幅は65m、高さは20mもあり大きいです。JR烏山線の滝駅という凄く小さな可愛い駅から5分程の場所で、1時間に1回滝の上を電車が通ります。
下の中州まで降りて遊べますが、滝へと降りる道が滝のしぶきでぬかるんでドロドロなので転ばない様注意が必要です。
遊歩道にはベンチも有って、木陰を涼やかな風が通り抜けて心地よいです。
ここは茨城県北部の大子町に在る月待の滝です。
http://www.daigo-kanko.jp/?page_id=2861
最近Jinponさんが跳び下り...じゃなくてバンジージャンプをした竜神峡からそう遠くない場所ですね。
滝の岩の下の窪みまで歩いて行けて、滝を裏側から見れるので、別名「裏見の滝」とも言うそう。なんだか怖そう?ですが、物凄い量のマイナスイオンがでています。
ちなみに、裏側からの雰囲気はこんな感じです。
滝の横のもみじ苑では天然氷の巨大かき氷を頂けます。
そして、ヒミツのお得情報です。
売店のお兄さんにお願いすると、無料で練乳マシマシで作ってくれます(笑)
月待の滝から日立へ向かう山間の道は、そこかしこに大小の赤い鳥居が有って、山の彼方此方に神様が居る様です。神様と言っても色々ですから、この数の多さはちょっと怖いただならぬ感じがします。
ここは茨城県日立に在る御岩神社の楼門。
http://www.oiwajinja.jp/index.html
現世と神域を分かつ門。
入る時と出る時にお辞儀をしないと魂を置いてきてしまうとか。
信じるか信じないかはあなた次第です。
冗談はさておき、楼門をくぐって少し行くと、宇宙飛行士が地上から光が伸びているのが見えたというGPS測位の場所に立つ三本杉は高さ50m以上の巨木です。参道の森の木は全てこの様な巨木で、自分が小人になったような?或いは巨大な神々の世界に迷い込んだ様な不思議な感覚に包まれます。
流石は「天地開闢の時より神々がこの地に鎮まる」と言われるパワースポットです。縄文時代の祭祀跡が発掘されていると言うから、精霊信仰の頃より何かが有るのでしょう。
三本杉を過ぎて、登っていくと、ほどなく天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)などと祀っている斎神社に着きます。ここの天井には見事な龍の天井画が有ります。この神社の横には石柱に木の車輪がはめられた物が有り、上へ回しながら祈ると現世での願いが、下へ回しながら祈ると後世での願いが叶うそうです。
何をお願いしたかはヒミツです(笑)
ちなみに記念にと思いひいた「水引の花お御籤」では愛情の花(心)を引き当てました。それによると「愛情に恵まれ、良い縁をもたらします」と有りました!
キターーーーーー!!!
でもね、個別の「縁談」のとこには「気長に待ちましょう、
良い話が来ることでしょう」ですって…
私の運命の相手はどこに??(笑)
それではみなさん、また次回お会いしましょう。












そして再びやってきました、このスレ最初の旅で訪れた第19番札所天開山大谷寺。実はこの時入り口の階段で躓いて手をついた時、運悪く突き指をしてしまい、右手第3指靭帯断裂、右手第4指骨折という怪我をしてしまいました。
寝不足、体力低下、疲労の中、意識が飛びながら車を飛ばしていた私は、それでも皇帝の後れを取り戻そうと無理をしようと考えていたので、このままだと事故を起こすと、聞き分けのない私を観音様が無理やりにとめてくれたのだと思います。
事実、その時最後に行こうとしていたお寺への路では事故渋滞が発生し、最終的に諦めざるを得なくなったのでした。

怪我をした私に御朱印授与所のおばちゃんが湿布を貼ってくださいました。アフターフォローも忘れない、お心遣いの細やかな千手観音さまなのでした。
またいつかお礼にいかないと。

今回の巡礼の旅第2幕最後は第17番札所出流山満願寺です。道路も空気も白く染め上げる川沿いの石灰採掘場群を抜けたその先にこの寺院はあります。
それもそのはず、開基の時の御本尊は剣ヶ峰中腹の7つの鍾乳洞に自然形成された観音様だったのです。
開基された
勝道上人の御母堂が子宝に恵まれず、この鍾乳洞の観音様に願掛けして授かったのが前出の勝道上人であったことから、子授けの観音様と言われています。
参道を進んでいくと巨木に囲まれた、どちらかというと神社ような趣の美しい本堂が現れます。
これまで回った中で雰囲気は1番好きな御寺になりました。
この御堂は後に弘法大師がこのちを訪れた際に、鍾乳洞へのお詣りは大変だろうということで、観音像を彫って安置されたそうです。

12日〜13日の旅は一旦これで終わりです。幸い右手は親指と人差し指が使えるので筆を使って写経は続ける事ができています。
一心に筆を使い文字を丁寧に書くことをしていると、今の仕事のただただ速度を追求していくやり方ではなく、一つひとつのことを丁寧にやる仕事をしたいと思われてきます。
普段は時間に追われ、そんな
ことを考える時間すら無い日々を送っていますが、時折立ち止まって周囲と自分を見つめ向き合う時間の大切さを思わずにはいられません。

10月20日右手の骨折も癒えぬまま、性懲りも無く?神奈川編の続きへと出かけました。東名高速横浜町田を降り、下道で座間へ向かうのですが、これがまた酷い渋滞続きで、最初から旅程が心配されます。
第8番札所星谷寺は、踏切を渡り、最初の信号のT字路の正面に突然現れます。
住宅地の中で、山門も無く、また本堂は奥まっているので、普通に走っていると、気付かずに通り過ぎてしまいそうです。
こちらのお寺には七不思議(http://www.shoukokuji.or.jp/)があり、一年中うどこかしらに花をつける桜や、1本の木から5種の花をつける椿、昼でも星を映す井戸等が有るそうです。

あるそうです…と言うのは、本堂で読経と、納経を終えて、御朱印を受けに行くと、「そこの券売機で500円の納経帳のチケットを買ってください」と言われ、見るとお蕎麦屋さんの券売機みたいなのが有ってチケットを購入する様になってまして、なんだか呆気にとられてお寺の中を見て回るのを忘れてしまったのです。
こう言うシステム導入されると、何だか御朱印もお買物みたいで何だか有り難みが無くなってしまって、残念な気持になってしまいます…

星谷寺から相模川を越え車で30分程行くと、第6番札所の飯上山長谷寺が有ります。新築成ったばかりの山門の横に駐車場が有り、料金は1日500円。
お花見シーズンや、こちらの白山自然公園のハイキング客には便利な様です。
ちなみにこちらのハイキングコースには、順路に33の観音様が置かれており、プチ巡礼ができる様になっています。

本堂の前には石灯籠が左右に整然と並び、とても清潔感の有るお寺です。行基菩薩により開基され、役の行者の像がある事などからも丹沢山系の修験道と縁の深いお寺のようでした。

山を下り平塚方面へ、続いて訪れたのは、金目山光明寺です。金目山とは珍しい名前と思ったら、お寺の前を流れる金目川から来ているそうです。
こちらの御本尊は潮汲みの海女の桶に何度捨てても桶に戻って来る木片を、海女が持ち帰ると、行脚の僧が「これこそ聖徳太子の手になる観音像である」といったのがこのお寺の始まりだとか。
その後行基菩薩が訪れて観音像を刻み、その胎内に海女が持ち帰った像を収めた事から、「お腹ごもりの観音様」として安産の神様となり、北条政子も、源実朝を懐妊の折、祈願に訪れたそうです。

門前には、流れの穏やかな金目川のせせらぎがあり、境内には珍しい水琴窟が、ピローン、ペコーン、ポローンと音を奏で、聴いているととても穏やかなのんびりした心地に包まれるそんなステキな場所です。
神奈川編第2回の最後は小田原の第5番札所、飯泉山勝福寺です。酒匂川迄やってきたのは初めてで、川沿いからお寺へと向かう道を走っていくと、前の車が曲り角に突っ込む様にして止まりました。暫く動かないので、後ろの車に挟まれて動けないのかな?と思い、追い越して角に入って行くと、「すれ違い通行出来ません」の看板が…
きっと「他所者が…」と思われた事でしょう(T . T)
お寺の境内には大銀杏の木が本堂を覆う様に立っています。

本堂の柱をよく見ると、お獅子と象?が刻まれています。象には初めて気がついたのですが、何処のお寺も同じなのでしょうか?
仏教がインドから伝わったことと関係があるに違いありません。

こちらの勝福寺ですが、小田原市なのですが、酒匂川の向こうの小田原の中心からはやや離れています。最初、地図で見ていても道が狭そうだったので、電車とバスで行くことを考えたのですが、お寺近く迄行くバスが、なんと1日1本だけ!
つまり行ったは良いけど戻れないのです…
お寺と言うのは大体山の中とか不便な場所にあるので、行く前はよく調べるのがとても大事です。
神奈川編はこれで終了。
次回は、埼玉、群馬編に続きます。

さて、神奈川編第2回で行ける!と味をしめたfioは、この勢いをかって、翌日埼玉群馬編に出発したのです。とは言えちょっと朝寝坊して1時間遅れての出発、今日のノルマをクリアできるのか?
埼玉エリアは4つあり、3つが関越道エリア、1つが東北道エリアです。
先ず東北道エリアの慈恩寺を目指します。が、いきなり高速は大渋滞で大ピンチ!
なんとか最初の目的地、第12番札所慈恩寺に到着すると澄んだ青空の下、広い境内と立派な本堂が有りました。
それもそのはず、今も残っている元禄7年(1694)の地図では、境内は13万5千坪もの広さだったそうです!
13万5千坪ってどれくらいか想像もつきません…

ちなみにこの慈恩寺には玄奘塔というのが有り、大戦中に日本軍が南京で発見した三蔵法師の遺骨の一部が祀られています。今日、日本に伝わる仏教経典のほとんどが、三蔵法師の持ち帰ったものと言われていますから、このお寺が広大な寺領を持ち、参詣者が引きもきらなかったという話も肯けます。

次に訪れたのは東松山にある第11番札所の安楽寺。お寺の参道脇に茶屋があり、厄除け団子🍡が売られています。
ちょっと、うっかり八兵衛の気持が解った様な気になりつつ山門をくぐると、見事な松の奥に本堂が姿を現しました。

本堂の前に進むと、太鼓が鳴り住職の読経が始まったので、fioも便乗して読経を始めました。やっぱり太鼓が有ると、気分も盛り上がります(笑)
読経が終わると納経所へ行き、住職の帰りを待って御朱印を頂きました。
本来ならfioがお布施をする立場なのですが、「待たせてすみません」と、住職から売物のクッキーの施しを受けてしまいました(^^)
うっかり八兵衛ならぬ、ちゃっかりfioなのでした。

続いてもう一ヶ所、東松山にある、第10番札所、正法寺へと向かいました。先の安楽寺は坂上田村麻呂が開基なのですが、此処にも田村麻呂の悪龍退治の言伝えが残って居ます。
何でも、関東以北の観音信仰は坂上田村麻呂の奥州討伐の際に広められたとか。
坂上田村麻呂なんて、日本史の教科書で征夷大将軍?位の認識しか無かったので、意外なところで再会した気分です。
行基が菩薩?
と、知らなくてググってみたら…。
"大仏造営中の天平21年(749年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅し"
(中略)
"また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。"
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/行基
"僧侶の諡
僧の諡号は、北魏の法果が胡霊公と追贈されたのが初めてである。日本では平安時代から実例があり、清和天皇の貞観8年(866年)7月、最澄に伝教、円仁に慈覚の大師号が初めて贈られ、後には国師号、菩薩号なども諡として併せて贈られている。"
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/諡
菩薩と聞くと両界曼荼羅に収まっていそうに思うのに、行基という実在で歴史の浅い人物が菩薩、である事に違和感を覚えてググったのですが、なるほどそうだったのですね。私の認識が誤っていた様です。なるほどなるほど。勉強になります。
所で。
相変わらずfioさんは良いテキストをお書きになりますね。少し遡ってみましたがとても面白く、楽しく読ませて頂きました。
読み残し部は、また改めて。

こちらの正法寺、写真を見て頂くと岩殿山の名の通り、背後に岩山を背負っているのですが、以前ご住職が崖の枝払を終えて休憩してし、立ち上がったところへ、今迄座っていた場所目掛けて岩が落ちてきて九死に一生を得たそうです。ただの偶然なのか?はたまた観音さまのご加護でしょうか?

続いて訪れたのは、埼玉県最大の難所と目される第9番札所の都幾山慈光寺です。地図で見たルートは山奥の細い道で、かなり困難なルートと思われましたが、勾配こそキツいものの道は良く舗装され、山門脇の駐車場迄車で行く事が出来ました。
かなり時間が掛かるとの予想が良い方に裏切られ、ニコニコで山門をくぐりました。
山門も静かな山間の古寺と言った趣きでいい雰囲気です。
珍しい青文字の看板が目をひきます。

しかし、本当に大変なのはここからでした!山門を潜るとすぐそこは、ご住職の住居兼本堂なのですが、お詣りする観音堂へはかなり急な階段を登り、山の上迄行かなければなりませんでした…
お詣りを終え、ふーふー言いながら御朱印を頂きに本堂へ戻ると、本堂の中には真っ黒な明王像が立っていたので、何故この明王像は真っ黒なのか?とご住職に伺うと、以前の火災の折に焼けて炭化してしまったのだとか。
それにしても造形は綺麗に残ったままだったのですっかりそういう特別な明王像なのかと思ってしまいました。

先の慈光寺での観音堂への登山で、稼げた時間が帳消しになってしまった為、再び高速道路で次の目的地、群馬県の白岩山長谷寺(ちょうこくじ)へと向かいました。ナビが目的地到着を告げた場所は右手に一見普通の住宅、左手に突如現れた空き地で、空き地の奥に慈光寺駐車場の看板が…
えっ?今のところ?と二度見してる間に通り過ぎてしまい、戻って来ました。
訝しがりながら右手に見えた住宅風建物の方へ行くと、そこはお寺の受付で、入口を覗くと誰も居なくて、「留守にしております30分程お待ちください」の書置きが…
うそ〜⁉︎こんな所でタイムロス???と途方に暮れて敷地を右往左往していると、中から白T姿の頭ツルツルのおじさんが「どうぞ〜」と声を掛けて来ました。

お寺の建物が見当たらない理由を訊ねると、本堂の建て替え中で御本尊も学術調査の旅に出ているとのコト。一応納経はしたものの…
今回の参拝は有効?無効?
ちなみにこちらの白岩神社の開基は、今回の旅で最も興味深い、役の優婆塞(うばそく)※優婆塞とは男性の在家信者のことで、サンスクリット語の音訳。
他の寺院と同様に戦禍による喪失を受けており、上杉憲政が整えた伽藍は、武田信玄の箕輪城攻略の兵火で喪失し、その後武田勝頼によって再建されています。

そしてこの日最後の目的地、群馬県の第16番札所水澤観音へ。榛名山の裾野、水澤うどん街道を駆け上ると山門前に駐車場が有ります。
大きな樹々に覆われて薄暗く、ちょっと異世界の入口の様な雰囲気が漂っています。

仁王像は薄暗くよく見えないのに、何故か目だけ金色に光っていて、今まで見た中で1番怖いです。(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

ここ水澤寺には六角堂という、他所では見たことのないものがありました。写真では分かり難いですが、中には6体のお地蔵様が納められていて、その周りに小さなお塔婆を納め、供養したい人を念じながらこの六地蔵の乗った台?を歩きながら3度回します。
イメージとしては巨大な摩尼車と言った感じです。

「一打百円也」此処では100円払えば誰でも自由に鐘をつくコトが出来ます。滅多に無い機会だし100円ならと、お財布の中を探すと…
こんな時に限って100円が有りません(T . T)
まぁこれも縁か…と諦めて御朱印を頂いて帰路に着いたのでした。
ちなみに、コロナ禍で御朱印授与も16時迄だったので、時間ぴったりでした。
土地勘の無い場所への旅で、間に合ったのは本当に幸運でした。
残すは千葉編のみです。

水澤寺の御朱印は、お守り授与所のおばちゃんが書いてくれます。お寺毎に個性が有りますが、総じて男性が書く御朱印は字も太く勢いがあって、女性が書く御朱印は線が細く滑らかな感じです。

10月25日千葉県銚子市にある、第27番札所、飯沼山円福寺寺へ向かいました。この日は母を誘って、銚子漁港で海鮮丼を食べようと連れ出したのですが、12時を少し回って到着したら、お目当てのお店は既に「本日終了」…
ネタがなくなり次第終わりだそうで、仕方無く別のお店へ行ったのでした。でもお刺身は新鮮で美味しかったですよ♪
話しがそれましたが、神社と同じ敷地の境内はとても広く、立派な五重塔や銚子大仏もあり、地元の子供達が今流行りの「鬼滅の刃」のコスプレで遊んでいました。

👆の写真は本堂の天井に描かれた50体以上の各地の観音さまで、画像が不鮮明なのが残念ですがそれはそれは見事なものです。
御朱印を書いて頂いている間、本堂の中を見せて頂くことができます。

ここ円福寺の観音さまは、神亀元年(724)年、毎晩海に光る物が現れ、住民達が訝しんでいたところ、ある漁師の夢で観音さまが現れて、衆生を救いたいので網を投げよとお告げがあり、その通りにすると海中から二尺の観音像が現れ、空から米が降る奇跡が起きたそうです。
せっかく千葉の端っこ迄来たのだから、太平洋を観て帰ろうと、「地球の丸く見える丘」という場所に寄りました。写真では上手く伝えることができ無いのですが、視界の180度以上が海と言う開放感!
きっと昔の巡礼の人達も、山深い険しい北関東の巡礼を終えてこの景色を見た時に、スーッと心の悩みが解けていく様に感じたのではないでしょうか?

太平洋を見渡せる場所だからか?此処には先の大戦の戦没者を悼む、岸信介による日比友愛の碑も見ることが出来ます。
でも岸信介って、昔の首相ってコトくらいしか知らないのです…

10月28日、この日は第31番札所大悲山笠森寺を訪れました。今回の巡礼で既に30近いお寺を見て来ましたが、やはり此処の建築は他に類を見ない物です。
以前訪れた事が有り、今回は猫が好きな母を連れてきて、有名な黒招き猫を見せたのですが、リアクションが薄くてちょっと残念。

平日にも関わらず、また房総半島の真ん中あたりという場所にも関わらず、参詣者は途切れる事が無く、数ある観音堂の中でも結構人気が高い様です。
そして10月29日、残りを回るべく早起きして、第29番札所海上山千葉寺(せんようじ)へと向かいました。海上なのに山って変な感じです。
関係あるかは分かりませんが、その昔千葉一帯を治めていた千葉氏の子孫が海上(うなかみ)姓を名乗ったそうです。
街中の狭い道を行くと突如現れて、更に狭い道を駐車場へ進むのですが…行き過ぎたら戻るのが大変そうな場所でした。

境内には、富士浅間神社で見たのより大きいかもしれない?高さ30m目通り8mという公孫樹の巨木が有ります。右側の枝上から垂れているのは「乳柱」と呼ばれるもので、煎じて飲むと母乳が良く出ると言う言い伝えがあります。これも初めて見る不思議なものです。

此処千葉寺も敷地内にお寺の鎮守神社である龍蔵神社が有り、海津見神(ワダツミノカミ)が祀られています。昔はこのすぐ近くまで海岸線が来ていたのかもしれませんね。

次は第30番札所平野山高蔵寺です。平野なのに山?千葉のお寺は名前が不思議なのが多いです。
ナビで、千葉寺からの距離は39km車の航続可能距離は51km。
「まぁ大丈夫ね」と高速に乗りました。暫く走ると航続可能距離は47kmに減り、その後警告灯がついて航続可能距離は---となり非表示に…
まぁでも高速降りたら給油すれば大丈夫と、この時は未だ余裕と思っていたのですが…
結局どんどん山へ入って行き、お寺までガソリンスタンドが見つからず、お寺で近くのスタンドを聞くと車で10分くらいの場所にあるとのコト。
慣れない土地では早めに給油しましょう(~_~;)
写真は高床式の見事な本堂。
私の前に修行中?と思しき旅の?若い僧侶が読経していました。

山門の前に去年の台風で?倒れた大きな菩提樹が残っていました。ここ高倉観音の御縁起によると、徳義上人が修行をつんでいると、ある日雷の止まない日があり、山中に籠ると不思議な老翁が現れ、「衆生済度の為観音飛来し給えり」と言って指差した木を見ると四寸の観音像が有ったそうです。
今迄の観音さまは、大抵川や海の水の中から登場でしたが、電光に乗って飛来したと言うのは初めて聞きました。
このお寺の言い伝えでもう一つ特別なのは、猪長官という人が子授けの百日参拝の願掛けをしたところ、長女を授かり、その子が良縁に恵まれない為再度願掛けを行い、お告げの通りにしたところ、結婚して子を授かることが出来たそうで、その子こそが藤原氏の祖、藤原鎌足だそうです。
藤原鎌足って千葉県出身だったの???

東京湾側から太平洋側へ、第32番札所音羽山清水寺へと向かいました。山の下に駐車場が有ったのですが、本堂へ続く道を見上げると、ここ歩いて登るの???という急斜面です。
一応舗装されていたので、ロケットの中の宇宙飛行士みたいな体勢になりながらも車で登って行きました。

写真は本堂の天井に沢山掲げられた結願御礼の額の一つ。明治25年6月15日善光寺同行の名簿が書かれています。境内には昔は庶民の巡礼が困難だった為、うつし霊場として100体の観音像を納めた百体観音堂なども有り、多くの人の信仰を集めていた事が伺えます。

閻魔堂が有ったので覗いてみると、なんかデジャブに襲われました。西明寺の笑い閻魔ほどではないですが、口を開けて笑っている様に見えます。見る人によっては怒っている様に見える???
今回の巡礼で閻魔大王の印象はだいぶ変わってしまったことは確かです。

この清水観音は山門は桃山建築の、お堂は江戸建築の粋を集めたモノだそうで、寺社建築に興味ある方は是非訪れて見て下さい。このお寺のご縁起は、伝教大師がこの地を訪れた時、放光の奇瑞が有り観音像を感得しながらも、勅命で比叡山へ戻られ、その後慈覚大師が訪れ千手観音を刻み、坂上田村麻呂がお堂を建てたと言うから驚きです。
更に、ここには、景清身代観音と言うのが安置されているそうで、言い伝えでは、上総国生まれの平家の強者「悪七兵衛景清」が平氏滅亡の折虜囚となり牢に入れられた時、毎日お経を念じていて、頼朝の命で斬首され、首検めに出された時、その首は穏やかな笑みを湛えた観世音の首になっていたと言う事です。
そしてその時の首と両手が非公開の秘仏として厨子に納められているのだとか。
ちょっと怖いですね…

結願寺、第三十三番札所補陀落山那古寺へと向かいます。山を下り鴨川から館山へ向かう道中で見かけるお寺は、その殆どが日蓮宗と言うのが、これまで巡ってきたどの地方とも異なります。
と言うのも、日蓮上人は安房国東条片貝(現在の千葉県鴨川市)の出身なんです。
館山市に入り、市中心からやや離れたいかにも田舎の小さな町と言った風情の通りを辿った場所に那古寺はありました。
開けた陽のあたる明るい山門はこれ迄の山深い観音堂と雰囲気を異にしています。

阿弥陀堂、多宝塔を拝しながら進むと、陽を遮る物が何一つ無い崖の上に観音堂があります。カメラに収める為、崖から半身乗り出す様にして👆の写真を撮りました。
写真では隠れてしまっていますが、入口には時の老中松平定信揮毫の円通閣の額が掛けられています。
この観音堂からは館山湾と、市中を一望でき、その眺めに自然と心がすーっと何処までも広がっていく心地になります。
きっと昔の巡礼の多くの人々も結願の際には同じ様に心も悩みも解けていった事でしょう。
時を超えて多くの人と心がシンクロして、大きな人々の想いの中に自分もその一部になった様な不思議な感動に包まれたのでした。

そして👆こちらが結願の御朱印です。毛筆でサラサラっと綺麗な梵字が書けるのってかっこいいですね。あとは結願御礼で、長野の善光寺と、その対になる別所温泉の北向観音へ行けば納経帳コンプリートなのですが、先日長野市で降雪のニュースもあり、年内に行けるかどうか?
今回の巡礼の旅は一旦これにて終了です。
いつもと少し違ったfioの旅でしたが、旅を終えて2週間、怪我も癒えて、悩み事も解決へ向けて動き始めています。
観音さまをお参りする事で、自分の中に生まれる新しい力で自分で自分を救う。これこそが観音さまのご加護なのでしょう。

巡礼の旅を終えたfioには、夕暮まで少し時間が残されていたので、館山観光をする事にしました。👆は夕陽に染まる館山城。
ここ館山は南総里見八犬伝の舞台でもあり、里見氏が治めていた土地だそうです。
館山城公園は、予想外に多くの市民が訪れていて、地元の人気スポットの様でした。
陽が落ちる前に写真をと、マスクをしてハアハア言いながら山を登っていたら、ウォーキング中の人を驚かせてしまいました(^^;;

そしてコレが館山城から館山湾を臨む眺めです。この空の広さは都内ではほぼ見ることの無い景色です。