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№954/12月12日は、バッテリーの日 乾電池は日本人が創った。屋井先蔵
キング
「№954/12月12日は、バッテリーの日 乾電池は日本人が創った。屋井先蔵」のコメント
追加事項
屋井 先蔵(やい さきぞう)
1864年1月13日(文久3年12月5日)~
1927年(昭和2年)6月1日
乾電池王と呼ばれている。
新潟県長岡市
13歳で東京の時計店の丁稚となる
病気のため帰郷。長岡の時計店「矢島」
で修理工として7年間年季奉公した。
東京高等工業学校
(現、東京工業大学)受験に2度失敗。
年齢制限もあって進学を断念し
叔父の工場で働きながら、それからの
3年間は独力で永久自動機等の研究を
続けた。21歳のときに電池(湿電池)
で動作する連続電気時計を発明する。
ゼンマイ式はあるが巻くのは手動式。
動力源のゼンマイを電気で巻く
というもので、先蔵のそれは
自作の電池を組み込んですべてを
電気で動かすという画期的なもの
だった。この連続電気時計は
明治24年(1891年)に日本では
初めてとなる電気に関する特許と
して認められる。その時に
ドイツのダニエル式電池があるが
冬は凍結して使えない弱点があった
屋井は炭素棒にパラフィンを含浸する
ことで解決し、明治20年(1887年)に
「乾電池」の発明に成功する。
それからは売れなかった。そもそも
当時、乾電池で動く物が無かった。
1893年(明治26年)の
シカゴ万国博覧会
に帝国大学(東京大学)
の地震計が出品され
それに使用された先蔵の乾電池は
来場者を驚かせた。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し
陸軍から大口発注があり、満洲において
使用されていた軍用乾電池の大成功に
関する号外記事が掲載されることになる。
従来の湿電池では液が凍結したため満洲
では使用できなくなったが、屋井の
乾電池だけは使用できたのだった。
1910年、合資会社屋井乾電池を設立。
1927年(昭和2年)胃がんに侵され
急性肺炎を併発して急逝。享年63。
その後、屋号は抹消された。
2014年(平成26年)IEEEマイル
ストーンとして正式に認定されるが
屋井乾電池が現存しないため、
ジーエス・ユアサコーポレーション
パナソニックの4者に銘板が贈呈された。
屋井 先蔵(やい さきぞう)
1864年1月13日(文久3年12月5日)~
1927年(昭和2年)6月1日
乾電池王と呼ばれている。
新潟県長岡市
13歳で東京の時計店の丁稚となる
病気のため帰郷。長岡の時計店「矢島」
で修理工として7年間年季奉公した。
東京高等工業学校
(現、東京工業大学)受験に2度失敗。
年齢制限もあって進学を断念し
叔父の工場で働きながら、それからの
3年間は独力で永久自動機等の研究を
続けた。21歳のときに電池(湿電池)
で動作する連続電気時計を発明する。
ゼンマイ式はあるが巻くのは手動式。
動力源のゼンマイを電気で巻く
というもので、先蔵のそれは
自作の電池を組み込んですべてを
電気で動かすという画期的なもの
だった。この連続電気時計は
明治24年(1891年)に日本では
初めてとなる電気に関する特許と
して認められる。その時に
ドイツのダニエル式電池があるが
冬は凍結して使えない弱点があった
屋井は炭素棒にパラフィンを含浸する
ことで解決し、明治20年(1887年)に
「乾電池」の発明に成功する。
それからは売れなかった。そもそも
当時、乾電池で動く物が無かった。
1893年(明治26年)の
シカゴ万国博覧会
に帝国大学(東京大学)
の地震計が出品され
それに使用された先蔵の乾電池は
来場者を驚かせた。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し
陸軍から大口発注があり、満洲において
使用されていた軍用乾電池の大成功に
関する号外記事が掲載されることになる。
従来の湿電池では液が凍結したため満洲
では使用できなくなったが、屋井の
乾電池だけは使用できたのだった。
1910年、合資会社屋井乾電池を設立。
1927年(昭和2年)胃がんに侵され
急性肺炎を併発して急逝。享年63。
その後、屋号は抹消された。
2014年(平成26年)IEEEマイル
ストーンとして正式に認定されるが
屋井乾電池が現存しないため、
ジーエス・ユアサコーポレーション
パナソニックの4者に銘板が贈呈された。